た しかな現実
街を見下ろせる塔に腰かけ、ソフィアは日が落ちたばかりの街を眺めていた。
ソフィアの視力や聴覚は、裸眼で望遠鏡のような距離を見通せる。血の匂いさえ加われば、壁に隔てられた本来見えない場所でさえ、まるで見えているかのように像を結べるだろう。
市場の少し奥まった筋には、屠畜や解体を行う肉屋があって、生きたまま運ばれてきた家畜――猪と豚の中間のような生き物を手際よくシメて解体している。
自分が殺されるのが分かるのか、家畜は運ばれる時から悲痛な声を上げていて、その断末魔の鳴き声は助けを求める叫びのようだ。
少し視線を移動させると、貧民窟にある売春宿で男が少女を殴打している。
叫びをあげる少女の口からは歯が何本も欠けていて、痩せこけた姿と相まって年齢以上に老けて見える。周りの部屋にも似たような女性が詰め込まれているから、おそらくそういう店なのだろう。
また、少し遠くに目をやると、運河沿いの畜産農家が水鳥の羽毛をむしっている。
羽毛を産む水鳥は家畜で、一度で殺されたりはしないが、乱暴にむしられた羽には肉片がこびりつき、ここまで血匂が漂ってきそうだ。鳥に生まれたのだ。飛んで逃げ出したいだろうに、フォアグラにするつもりもあるのだろう。ぱんぱんに太らされていて、羽をむしられていない個体であっても、飛んで逃げることすらできない。
――おそらくここはゲーム、『Gate of Gran Guignol~グラン・ギニョルの門』の世界ではない。
そのことに、ソフィアはすでに気が付いている。
けれど今のソフィアには、今見えている惨劇の、一体誰を救えばよいのか分からないのだ。
人間が家畜を殺すのは許されて、悪魔が人間を殺すことは許されないのか。そもそも、誰が誰を許すのか。
それは同等の力を有する者たちが共存していくためのルールではないのか。そうであるならば、そもそもソフィアは今見える悲劇に対し、何かを思う必要はない。ヴァンパイアという人間を超越した力を持つ存在の前には、今ここの高台から見える加害者も被害者も、等しく弱者に過ぎないのだから。
蜘蛛が捕らえた蝶を捕食するのを、鳥がバッタを咥えて飛び去るのを観察しているようなものだ。興味が湧けば助けることもあるのだろうが、それは正義感などではない。
(この感覚、精神操作された訳じゃないわね。健全な肉体に健全な精神が宿るっていうけれど、肉体が変貌した影響だわ。異世界転生、とか言うやつでしょうね)
そう考えれば、今まで感じた様々な違和感に説明がつく。
けれどどう理解すればいいのか分からないことが、一つあるのだ。
「こんなところにおられましたか。また勝手に抜け出して」
「でも、毎度毎度、簡単に見つけてくれるじゃない」
「毎度毎度、心配をさせないでいただきたい」
この悪魔、アモルの存在だ。
アモルは、『Gate of Gran Guignol~グラン・ギニョルの門』のゲームの世界で、ソフィアが作ったサポートNPC――AIなのだ。彼はただのプログラムで、生命は、魂と呼べるものは持ちえていないはずなのに。
「? どうか致しましたか」
自分の顔をじっと見つめるソフィアの視線にアモルが問う。
「アモルはアモルだなぁと思って」
「……日の光に当たり過ぎましたか?」
「違うわよ、失礼ね」
そう。彼はアモルだ。姿かたちだけではない。言動、仕草、言葉の端端から感じられる、彼を彼たらしめる何かは、今も、記憶に残るゲームの時代も変わらずアモルのままなのだ。
根拠などないけれど、それだけは、確信をもって言い切れる。
「アモルはきっと、私の知りたい答えを知っているんでしょうね」
「……そんな風におっしゃるのに、質問はなさらないのはどうしてでしょう。ソフィア様に対して、私は嘘を吐けない。それはご存じでしょうに」
ここがゲーム、『Gate of Gran Guignol~グラン・ギニョルの門』世界でないなら――門の向こうの世界なら、ソフィアの記憶には欠けたピースがあることになる。
きっとその欠片はアモルが持っているのだろう。
(ほんと、どうして私は聞かないのかしら。聞いてもうまくはぐらかされるから? ……ううん、違うわね。欠けた記憶に真実はあるけど、それは私の望みじゃないんだわ)
おそらくは。欠けた記憶の何処かで、ソフィアはアモルに何かを願ったのだろう。
それは、とても大切なことなのだろうとソフィアは思う。自分にとって、そしてアモルにとっても。
だから、その願いだけは、自分で思い出さなければならない。
「アモルの望みは何かしら? 欲しいものはある?」
「私の望みは、ソフィア様の願いを叶えることです」
いつもの笑顔でアモルが答える。
けれど、はぐらかすようなアモルの返事を、聞き流すことをソフィアはしない。
――アモルはソフィアに嘘を吐かないのだ。
この悪魔の望が自分の願いを叶えることなら、自分はいつ、何をアモルに願ったというのか。
この街のあちこちで上がる悲鳴も、それをなんとも思えなくなっている自分も。そんな自分のかつての願いが、今の自分の望みと一致するのかも、なんだかすべて霧の中に隠されたようにソフィアには思えて思わずため息を吐いてしまう。
「はぁ。本当に、何もかもままならないわね」
「何かご不快なものでもありましたか?」
思慮にふけるソフィアの様子に気づかわし気にアモルが問う。
「まぁ、ちょっとね。例えば、あそこのお肉屋さん」
「メス豚が悲鳴を上げておりますね」
「言い方。それからあそこの娼館」
「メス豚が悲鳴を上げておりますね」
「ちょ。だから、言い方。でもってあそこの……」
「水鳥ですが丸々してますからね、やはり、メス豚が悲鳴を上げておりますね」
「全部同じじゃないの。てか、あの鳥、メスなの?」
お笑いの天丼か。言い方はわざとだろうが、内容は本心であるのがアモルらしい。
「似たようなものでしょう。魂の質に多少の差はありますが」
「えぇー。でも人間だっているのよ?」
「あそこまで壊れてしまえば契約もできませんから、似たようなものです」
「アモルからすれば、そうなんだ」
なるほど、悪魔とはそういうものかと、ソフィアは逆に納得してしまった。まじめに考えていたのが少々馬鹿らしくなってきた。
「ヴァンパイアは元人間が多い種族ですから、特に人間愛好家が多いだけで、魔族というものはそういうものです。人間にゴブリンの個体識別はできませんし、殺してもなんとも思わないどころか、むしろ積極的に狩るでしょう」
「オークとゴブリンとスライム程度の差だって言いたいわけね? トレントを狩りまくってきた私には耳が痛いわねー。っていうか今、私、アモルに慰められた? うわぁ……」
なんということだろう。まさかアモルに、それもまっとうな方法で慰められてしまうとは。
「うわぁ、アモルが。まさかアモルが。っていうか、本当に私、ちょっと元気になってるし。うわぁああ」
「どういうリアクションですか。いつでも私はソフィア様の望みを叶えるべく粉骨砕身しているというのに」
「そうね。そうよね。うだうだ考えていたってしょうがないわね」
今は霧の中であっても、霧なんて風さえ吹けば晴れてしまうのだ。ソフィアの未来もなすべきことも、時期に見えてくるだろう。
せっかく霧の中なのだ。
もうあとほんの少しだけ、今だけの景色を楽しもうと、ソフィアは街を見下ろせる塔の上から軽やかに飛び降りた。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
ソフィア「アモルだけはよーわからん。うだうだ」




