は やる心と残る情と
「明日の朝、と言いたいけれど、スースとカニスを置いていくわけにもいかないわね、明後日の朝、出立しましょう。時間は霧が晴れた後」
「例の霧か……。やっぱ関係あんのかな」
「あると考えた方が安全でしょ?」
テレイアの話を聞き、商人の娘プリメラは即座に脱出を決意した。
本当ならば明日の朝、門が開くなりこの街を出たい。けれど、ここまで一緒に逃げてきたダークエルフのスースと獣人カニスが戻っていない。
悪魔の城で誰よりたくさん“加工”されたスースは、少しおかしくなっていて、夜ごと男をとっかえひっかえしている。今日も早々に相手を見つけたようで姿が見えない。昼頃にはふらりと帰ってくるだろうから、その時にでも話せばいい。スースは特定の相手を作らず、誘われれば誰にでも付いて行くし、小遣いさえもらっているようだから、この街に未練などないだろう。
問題は獣人のカニスだ。
「カニス、街を出ると思うか?」
カニスの問いにプリメラが眉を寄せる。
傷つき弱り果てていた女たちが、男になびくのは自然なことだ。スースの行動はその極端な例、生存本能のようなものだとテレイアは考えている。プリメラとテレイアは己のそういった状態さえも利用して人脈を作り、この街で暮らしてきた。テレイアの場合は普段なら相手にしないような弱く未熟な相手だと分かった上で付き合ってきたのだ。
けれど、獣人であるカニスの場合は本能が邪魔をして、打算でうまくやるということができない。そして、幸か不幸かカニスにもこの街で恋人と呼べる男ができた。
幸いと言えたのは、それなりに強い冒険者であるカニスが惚れるほど強い男に出会えたことで、不幸なことにその男はプリメラとテレイアが太鼓判を押すほどのクズだった。もとは冒険者として活躍したが、怪我が原因で引退。ごろつき一歩手前まで落ちるというのはよくある話だ。
人間であるプリメラとテレイアには獣人の美的感覚は分からないから、顔まで狼のようなその男の魅力は皆目見当がつかないが、人間に近い目鼻立ちをしたカニスには、獣の顔を持つ男はワイルドでとても魅力的らしい。ちょっとした狩りや船舶荷役の仕事で稼いだ金をせっせと男に貢いでいる。同じように貢ぐ獣人娘が何人もいるというのは、夜遊びが過ぎるダークエルフ、スースの情報だ。
ワイルドというより、野獣そのものじゃないか、と言ったテレイアとカニスが取っ組み合いの喧嘩をして以来、カニスに何を言っても無駄だとあきらめている。
「……難しいでしょうね。でも、テレイアも心残りがあるんじゃない?」
プリメラの指摘に今度はテレイアがこめかみを抑える。
確かにプリメラの言う通りだ。
テレイアの恋人ポロスは、カニスのように恋に落ちた相手ではない。
冒険者を志し、「俺はビッグになる男だ」なんて豪語しているが、経験以上に才能がない。それに強さ云々以前の人間的な面においても、真心を捧げるに足りる男ではない。けれど、仕事を紹介してくれたし、それほど悪いやつでもない。何より一緒に過ごして情もある。無駄死にして欲しいとは思わない。
打算的な始まりであっても、付き合っていれば情が湧く。嫌いになったわけではないのに、別れ話を切り出すのはテレイアとって気が重かった。
「……今から、話をしてくるよ。プリメラは、お前は大丈夫だよな」
「えぇ。私の心は神に捧げていますから。私はこの空の下、どこへ行こうと神の腕に抱かれています」
「それ、本気で言ってる?」
満面の笑みで答えるプリメラに、うへぇという顔でテレイアが問う。
4人の中で一番の食わせ物は、このプリメラだとテレイアは思っている。商人で戦う力はないけれど、なんというか目的の為に手段を選ばないというか、自分の感情さえ完全にコントロールできるように思える。
この街で生活基盤を整えるのに、いい寄る男を利用するようアドバイスしたのはこのプリメラで、付き合うメリットがあって、なおかつテレイアが妥協できる程度の適当な男を見事に見繕ってくれた。それに対してプリメラが選んだ男は、なんと太って脂ぎった妻子持ちの中年の商人だった。逢瀬から帰ってきたあと、執拗にうがい手洗いをする様子から、なんて手段を選ばないんだろうと感心したものだ。
そうやってこの街で商人として成り上がっていくつもりかと思ったら、ある程度の仕事に就いた後は教会に入り浸り、コアな信徒になってしまった。
「えぇ、もちろんよ。私たちは本物の悪魔を知ったのよ。それこそ、神がいることの証明でしょう。私たちが助かったことも神の思し召しに違いありません。私が治癒魔法を身に付けたこと、テレイアは知っているでしょう? それこそが、私の信心が誠である証」
魔法というものは、適正の他にも一定以上の魔力が無いと使えない。けれど、信仰系の治癒魔法というのは別物で、信仰心が高ければ魔力が無くても使えるのだ。
魔力の代わりに何を消費しているのか気になるところではあるが、教会の治癒魔法士はみな目を見開いて神の愛やら奇跡だとかを語ってくるから、別の何かを消費していそうだ。少なくとも友達なんかは減っていそうだが、それで済めばましだろう。
プリメラのような計算高い女が、強い信仰心を抱くというのは少し意外であったけれど、彼女もあの悪魔の城から生き残り、思うところがあったのだろう。
(人の心が分かるのかって程、見る目のあるやつだ。おなじ人間の男より考えの読めねぇ神様のほうが心の拠り所になったのかもな)
ちなみに神の奇跡は安くはないが金で買えるから、ある意味プリメラにはピッタリだとテレイアは思っている。
「じゃ、ちょっくら別れ話をしてきますか。帰ってきたら慰めてくれな」
「行ってらっしゃい。神の愛は誰にも等しく注がれますよ」
やめてくれ、とばかりに両手を上げてテレイアは部屋を出ていった。悪魔がいたという劇場から逃げかえってきた時の焦燥感はだいぶ薄れたようだ。これならテレイアは大丈夫だろうと、プリメラは息を吐く。
(戦闘力もない私一人では逃げるのは難しいもの。……カニスも来てくれればいいのだけれど)
プリメラは、部屋に置かれたカニスの荷物に手を伸ばす。
獣人であるカニスは嗅覚が鋭い。自分の荷物に触れられたなら、すぐに気づかれてしまうだろう。だから、確かめてこれなかったのだ。今ならば“荷造りをした”と言い訳が立つ。
(……やっぱり)
カニスの鞄の中には、ろくなものが入っていなかった。この街に着く前の方がまだ、ましなものを持っていただろう。男に貢ぐために、あるいは代わりに鞄に入っていたモノを買うために、売り払ってしまったのだろう。
なけなしの財産の代わりに、カニスの鞄に入っていた物は。
(麻薬、使われてたのね。きっと、スースの言っていたヤツだ)
ダークエルフのスースがある時、言っていたのだ。
この街ではたちの悪い麻薬が出回っている。その麻薬はダークエルフである自分では解毒剤を作れないから、手を出してはいけないと。
(テレイアと殴り合いの喧嘩をした時からおかしいと思っていたのよ。何度かこっそり浄化の魔法を試したけど、私には無理だった。……もう、時間がない。しかたが無いのよ。私もテレイアも止めたのに、聞かなかったのはあの子だもの)
プリメラはあの日、森で見た、血に濡れた赤い景色を思い出す。
狂ったようにエルフに切りつけ続ける女たち。プリメラたちの呼び声も、魔物の気配も彼女たちには届かなかった。今のカニスは、あの日の女たちと同じだ。
(神よ、どうかカニスの中の悪魔への恐怖が、麻薬に打ち勝ってくれますように……)
悪魔の力が勝つことを神に祈るだなんて、なんて滑稽なんだろう。
プリメラはふふっと笑う。
赤、赤、赤。あの日森で見た、血の赤い色。そして――。
(あの、悪魔の赤い色――)
あの澄んだ美しい紅を、プリメラは今も忘れられない。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
テレイア「この街、黒いのおるで。逃げよ」
プリメラ「逃げよ。でもカニスはこないんちゃう?」




