胸 さわぎ
休暇と聞いて旅行会社のパンフレットの写真のようなビーチや山を想像するのは、想像が貧困なのだろうなとソフィアは思う。
もっとも、ソフィアの時代、現実世界で実際にどこかに出かけるというのは、非常にお金のかかる娯楽だった。感染を避けるため人間が移動しない前提の社会だから交通網は衰退している。宿泊や外食産業も皆無に近く、どれも価格はプレミアムだ。1泊2日の旅行でさえ、21世紀の海外旅行以上の贅沢だった。
代わりに身近な旅行体験は、毎度のことながら電脳空間内でのバーチャル旅行というやつで、解像度はゲームと変わらない。想像が現実を超えてくることは、ソフィアの時代よくあることで、お金をかけてバーチャル旅行に行くくらいなら『Gate of Gran Guignol~グラン・ギニョルの門』に課金して、あちこち巡った方が有意義に思えた。
「旅行はしたことがあるけれど、休暇なんて初めてかもしれないわね」
リアル旅行は一度したことがある。確か山に登ったけれど、記憶はあいまいだ。時間に薄れる程度の感動しかなかったのだろうとソフィアは考えている。
代わりに暇さえあれば『Gate of Gran Guignol~グラン・ギニョルの門』をプレイしていたが、やっていることは狩り時々お茶会。要するに、ゲームの中でも忙しく働いて情報交換しているわけだ。勤勉すぎて涙が出そうだ。
だから、こんな生産性の欠片もなく、ただただのんびり浪費一辺倒に過ごす時間というのは初めての経験だった。
昼間出歩けないソフィアは病弱な大商会の令嬢、アモルは番頭という設定での滞在だ。
実際にアモルは昼間、いくつかの商会と取引を行っているらしい。悪魔というのは睡眠が必要ないらしいが、昼は商会を切り盛りし、夜はソフィアの相手という本来の仕事が待っていて24時間働いている。
ソフィアは自分を勤勉だと思っていたが、それどころの騒ぎではない。月の残業時間が一定値を超えると幸福を感じる“残業麻痺”なるものがあるらしいが、麻痺どころか完全に仕事中毒だ。おかしな脳内麻薬が出まくっているに違いない。
最初は「ブラック労働、ダメ絶対!」と思ったソフィアだったが、よく考えるとこの悪魔、ソフィアの眠っている昼間に、おかしな施設を運営していた前科がある。それよりは、人間社会のルールにのっとった商いをする方がよほど健全だし、本人も楽しそうだ。
(アモルはちょっと疲れ果ててた方が、みんな幸せなんじゃないかな)
そう思ったので、アモルの配下の過労にだけ注意を払って、アモル自身は好きにさせている。
対するソフィアの日々は優雅なもので、夜の浅いうちは、観劇やクラシックコンサートに出かけたり、変装をして街を散策したり、ショッピングを楽しんだりと“病弱”設定の割には活発に時間を過ごす。
人が寝静まる深夜は、屋敷に戻って街で買い漁った本を読んだり、アモルとゲームに興じたり。アモルとの対戦は、特に頭脳戦になるとコテンパンにやられるか露骨な接待プレイのどちらかなので、最後はソフィアが確実に勝てる腕相撲で憂さ晴らしをしたりする。
意外に面白かったのは、この街で手に入れた書物だ。この世界の成り立ちに関する神話に歴史書、見聞録に種族に関する研究書籍。恋や冒険が描かれた小説まで、どこかで聞いたことがあるような、けれどどこか異なる物語は、単純な読み物としても楽しいが、それ以上にソフィアの生きた世界と対比するとなかなかに興味深い。
このパテッサの街は運河から発生する水蒸気によって、夜半から明け方にかけてよく霧が発生する。霧は朝日の影響を緩和してくれるし、夜道を進むソフィアの姿を隠してくれるから、真夜中のパテッサ観光もはかどった。
ちなみにショッピングは店に出かけるのではなく、店がやって来るタイプだった。街に来て早々、「街で過ごす間のお召し物を仕立てましょう」と言うから、買い物に行くのかと思ったら、仕立て屋が大荷物を抱えた弟子を何人も引き連れて屋敷に来たのには驚いた。自宅でおススメ品を買うあたり、一周回ってネットショッピングっぽいと言えなくもない。
デザイン画や生地やサンプルをもとに、キャッキャと話し合うのは侍女たちで、具体的な意見はアモルが述べている。デザインや生地を見せられても完成品のイメージが湧かないソフィアは奥に置かれたソファーに優雅に腰かけ、右より左の方が好きだとかいうレベルのことをウンとかスンとか言うだけだ。
ソフィアのサイズは紙に書いたものを渡していたから、採寸すら必要なかった。最後に明細書だか契約書だかにアモルがサインをして終わりで、時間がかかった割に何をしていたのかよくわからなかったけれど、後日、何十着もの衣装が届いた時は、人の世界に不慣れなアモルが詐欺られたのではないかと、仕立て屋の方を心配した。
幸いソフィアの心配は全くの杞憂だった。
ドレスは日替わりどころか1日2着か3着で、一度袖を通したドレスはそのまま廃棄するつもりだったらしい。
「この街に違和感なく紛れ込むために、致し方なく人間の仕立てた服を手配いたしましたが、本来はこのようなものをソフィア様がお召しになること自体、不本意にございます。一度でも御身を飾る栄誉を賜った衣類を廃棄するのは当然でしょう」
ソフィアとしては“ヴァンパイアは代謝しないのだから、1週間くらい着っぱなしでも問題ないんじゃないかな”くらいに思っていたのに、まったく意味が分からない。
アモルに金銭感覚だとか、もったいない精神を説いても無意味だろうから、
「せっかくアモルが作ってくれたドレスだもの、どれも取っておきたいわ」
と、白々しいことを言っておいた。
人間が作ったドレスを保管することに納得はしていないようだが、ソフィアのセリフは気に入ったようで、アモルはいつもより3割増しで尻尾を振って、ドレスは廃棄を免れた。とはいえ、「ドレスはこれで十分よ」とストップをかけた後も、着るより早いペースでその後もドレスが届くので、二度袖を通したドレスは今のところ存在しない。
そんなソフィアの唯一の仕事らしきものは、アモルの――名目上はソフィアの父が経営するレクティオ商会の宣伝塔だ。最近は高品質な工芸品も取り扱うが、レクティオ商会といえば魔晶石というほど、魔晶石という宝飾品が有名らしい。
「レクティオ商会では、宝飾品も扱っておりまして。私の能力不足を補っていただくのは恥ずかしい限りなのですが、どうぞ広告塔になってはいただけませんか。身に付けていただくだけで十分でございますので」
なんでも魔晶石というのは魔界でしか取れない宝石らしい。魔族を倒すと稀に手に入る希少性と、様々な効果を付与できる利便性から、高値で取引される宝石だ。
人外の美貌はトラブルを招きやすいから、出かける時はケープで顔を隠しているが、それでもソフィアは衆目を集める。それを魔晶石の効果だとアモルが吹聴しているらしく、観劇などに出かけるたびに、宝石の売り上げは伸びているらしい。
「ソフィア様のお陰で売り上げは好調でございます。本日のお食事は、こちらのヴィンテージ・ワインをご用意しております。人間が作ったものにしては悪くない味わいとのこと。
他に何かご入用な物はございませんか。行きたいところは? ペルソナスホールで新しい演目をやるそうです。いつお席をお取りしましょう? どうぞ何なりとお申し付けください」
そう言って毎日ソフィアを着飾らせては、あちこちに連れ出してくれる。
「ちょっと、贅沢しすぎじゃない? お金を湯水のように使わなくてもいいのよ?」
「ご不快でなければどうぞお受けください。ソフィア様の為に稼いだ金を、ソフィア様の為に使う喜び。さらには大量に金を使うことで経済が回って更なる利益を生むのですから」
「えぇ……。悪魔の甘言? 常とう手段? いつも以上に胡散臭いんだけど……」
それでも、アモルが人間の常識の範疇で暮らしてくれているのなら――。
ソフィアの目をくらませたのは、贅沢でも宝石の煌めきでもなく、ぬるま湯のような、そんな希望だ。
彼が悪魔である以上、そんなことなどあるはずが無いのに……。
ぬるま湯にまどろむソフィアは、悪魔の計略によって、自分の肉体と精神が少しずつ変容していっていることにまだ気が付いてはいない。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
ソフィア「エンジョイバケーション」
アモル 「フフフフフ……」




