な がい夜が明けた後
一体何が起こったのか、理解できた者は、この場にいる女の中には一人もいなかっただろう。
いきなり捕らわれた時の衣服に着替えさせられ、終わるなり外へ出された。捕らわれた時は意識を失っていたから、解放されて初めて自分が捕らわれていた場所が、見たこともないほど瀟洒で美しい城だったのだと知った。
(あんな惨劇の舞台がこの綺麗なお城だったなんてね……)
不快気に顔をしかめた商人の娘プリメラは、自分の装備を確認した後、周りの様子をうかがう。
悪魔たちは、プリメラたちの持ち物を把握してはいなかったのだろう。着替える時に連れていかれた部屋には、この地下に連れてこられた者の衣服や持ち物が無造作に放り込まれたゴミ捨て場のような場所だった。着替えろと言われた時点で、まさか解放されるとは思ってもみなかったが、持ち物も取れと言われたので、プリメラはこの地下で亡くなった隊商仲間の持ち物からも価値の高い品を選んで身に付けた。
隊商の仲間は家族も同然であり、父の残した隊商を叔父が当然のように手中に収めたように、亡き家族の物がプリメラに引き継がれるのは当然のことだと考えたからだ。
たすき掛けにした鞄の中に手を入れ、馴染んだナイフの柄を握る。
唯一武器として使えそうな物は、刃渡り20センチ程度のこのナイフだけ。旅の途中に調理をしたり枝を払ったりと、何かと便利な刃物であるが、武器と呼ぶには心もとない代物だ。しかし、プリメラはただの商人で戦う力などない。
危険に備えてプリメラは、近くにいた冒険者らしき女性の少し後方へと下がる。集団においてポジショニングは重要だ。危険の少ない位置に立つだけで、生存率は大きく上がる。
一行の先頭を進むのは、エリアーデというハイエルフの女性だ。その少し後ろにこの一団で唯一の男性であるヤートという男のエルフが、何事かブツブツ呟きながら歩いている。どうして地下の女たちが解放されたのか、この男なら知っているのではないかと思ったが、今は安全な場所まで逃げるのが先決だろう。
先頭を行くエリアーデも同じ考えなのだろう。最初に「ヤート、これはどういうことなの? 仲間のエルフたちは?」と聞いたきり、まともな答えを返さないヤートにそれ以上質問を続けることなく、急ぎ足で森へ進んだ。
■□■
(こんな風になっていましたのね)
先頭を行くエリアーデは、目の前に迫った森の木々を見ながら、この城が長く見つからなかった理由を理解する。悪魔の城と境界を形成する森の木々は、一見自然な、けれど森に住むエルフから見れば人工的に計算された配置をしていた。実際は、樹木の配置だけでなく魔術的な結界も幾重にも施されているのだが、木々の配置だけでも人目を欺くには十分だ。
(これは、森側から見れば気付きませんわね)
距離と角度を計算して植林された木々によって、森側からは空を飛ぶか、よほど近づかない限りここに城があることに気付くまい。
しかし、意図的に城を見つかりにくくしているのなら、どうして自分たちを解放したのか。あの悪魔たちが、城の情報よりもエリアーデたちの命を重視するとは思えない。エリアーデたちを管理していた道化の悪魔も、状況をあまり分かっていない様子で、唯一様子がおかしいヤートは何事かをぶつぶつ呟くばかりで話にはならなかった。
(ここで時間を使うのは上策ではないわね)
解放されたのなら、一刻も早く森へ逃げ込むべきだろう。
木々の声が聞こえる森の中は、エルフにとって少なくともこの草原よりも安全で心安らぐ場所だから、まずはとりあえず森へと急いだ。
森が近づいて来るにつれ、一段の足並みは早くなる。
もう少し、あと少しで森に着く。
後ろを振り返る者はいない。振り返ったなら、悪魔の腕が伸びてきて、あの城に引きずり戻されるのではないか。そのような得体のしれない恐怖感を全員が感じていた。
木々の向こうで朝日は昇り、ずっと地下に囚われていた一行の頬を焼く。その熱と急ぎ足に火照る体を木々の影がヒヤリと冷やす。鼻孔をくすぐる草木の香りと、光を優しく遮ってくれる梢の影に、森の中へと逃げ込んだ一行は大きく深呼吸をし、助かったのだと息を吐いた。
「助かった……?」
「助かった……の?」
さざめくような声が湧く。
悪魔が何か仕掛けるとしたら、助かったと安堵したこの瞬間だろう。だから全員が身を固くして様子を伺っていたけれど、どこからも追跡者が現れる様子はなかった。
――助かったのだ。
全員が、そう感じた頃になってようやく、エリアーデにはこの先の計画を思案する余裕が生まれた。
(戦力になりそうなのは、“メイプル”の半数くらいかしら。武器を携帯している冒険者たちと獣人。ダークエルフも盾くらいにはなるでしょう。“虫”の娘は……役には立たなさそうね。ヤートが弓を持っていればよかったのだけれど……)
ヤートの弓があればよかったのだが、荷物部屋には無く、回収できたのは矢筒と数本の矢だった。攫われてきたエルフたちは武器を携帯していないし、若い女ばかりでろくな攻撃魔法も使えない。
それでも森はエルフの領域だ。魔物に気付かれずに移動するのはさほど難しくはない。運悪く戦闘になったとしても、武器を持った“メイプル”たちに攻撃させれば、何とか里までたどり着けるだろう。
何とかなりそうだと算段を付けたエリアーデは、一団に向かって声を掛けた。
「さぁ、いきますよ。安心するのは里に着いてからです。魔物除けのまじないを掛けますが慎重に。武器を持つ者は両脇から我らを守りなさい。警戒を怠らないように!」
エリアーデは、当然といった態度で一団に指示を出す。魔物から目をくらませるまじないをかけ、先に進もうとした矢先。
「ぐはっ、なにを、するっ」
上がった悲鳴にエリアーデが振り返ると、背中から胸を貫かれ、ヤートが血を吐いていた。
その剣を握るのは、追手の悪魔などでなく、自分たちを守れと命じた冒険者の一人だった。
「なっ、何をするの!? やめなさい!」
「うるさいよ」
答える冒険者――テレイアの声は冷たい。そのままグリっと剣を捻ると剣を引き抜き、崩れ落ちたヤートの矢筒を拾って、武器を持たない女たちの方へと投げた。
「ここまでくりゃ、あんたらエルフに用はない。ほら、あんたらもお取りよ。ご丁寧に矢を残してくれてる」
「……な。私たちに武器を向けるなんて! 一体誰のお陰で……」
ヤートの様子から解放されたのはおそらく彼のお陰だろうと言おうとしたエリアーデだったが、エルフたちに向けられた餓えた狼のような視線に思わず息を呑み込んだ。
「よぉく覚えてるよ。誰のおかげで、気が触れることも死ぬこともできずにあんな地獄を味わったのかね!」
「……よくも」「よくもやってくれたわね」
「……やめなさい! やめて、やめて」
あの地獄の地下室で、“メイプル”たちは皆、何度同じ言葉を叫んだだろう。
けれどエルフたちはやめることなく、彼女たちを苛んだ。力のないエルフたちは悪魔と違って指を切り落とすのにも時間がかかる。骨に沿ってぐるりと肉を切り、削いだ後、ゴリゴリと骨を折り、関節部分はグキグキと折ってねじ切るのだ。その痛みは、悪魔のそれよりはるかに強い。そして、その行いはハイエルフの術によって、正気を保ったまま、何度も何度も繰り返された。
その痛み以上に、許せなかったのは。
彼女たちを苛むエルフたちの口元に浮かんだ、微かな笑みだったのだ。
繰り返された痛みと憎しみを、どうして忘れられようか。
武器を持った人間たちと、低位の攻撃魔法しか使えないエルフの娘。争いは泥仕合のような血みどろで醜悪なものだったけれど、武器を持つ人間たちのほうが優位で、互いに血にまみれながらもエルフは次第に動かなくなっていった。
「やめ……や……、イタイ、イタ……」
あの地獄のような地下室においても美しかったハイエルフの白い肌は、いまや泥と血にまみれ、たくさんの切り傷と殴打によって見る影もなくなっていた。
「あ……た、すけ……」
女たちの醜い争いを眺めていたテレイアの足元で、先ほど刺したエルフの男、ヤートが声を上げた。
「なんだ、まだ息があったんだ。あんた、あのお姫様助けに来たんだっけ? 泣かせるねぇ! あのお姫様も言ってたけど、あんたのおかげで出られたわけだからさ、お礼に止めは刺さないでアゲル。一緒に死ねて本望だろう?」
「ぼ、くは、関係な……じゃ、ない、か」
自分は“メイプル”の加工に参加していないから、関係がない。だから、僕を助けてくれ。
ハイエルフの恋人だから生かされてきたこの男は、恋人がなぶり殺される様を目の当たりにして、そのように訴えているのだろうか。戦い慣れしていなさそうなエルフたちより、この男エルフの方が厄介そうだと真っ先に攻撃したテレイアだったが、こんなクズなら罪悪感も軽くなるというものだ。逆にこんな男を恋人にしたハイエルフが少し哀れに思えるくらいだ。
「アンタ、男見る目、無いんだね」
テレイアは、ヤートをエリアーデの目の前に蹴り飛ばす。最後の時間を惜しむもよし、恨み事を言うのもいいだろう。
死を前に、濁った瞳でエリアーデはヤートを見る。見下していた人間たちの手にかかり、恋人に見捨てられたエリアーデの心の内はいかようか。世界樹の子株に平和を祈ってきた彼女は、最後に何を祈るのか――。
森の中に、急激に魔物の気配が濃くなった。
「……ち、血の匂いに獣が集まってきやがった。あんたら、行くよ! って、聞いちゃいないね」
テレイアが周囲を見渡すと、何人か彼女に同意するようにうなずく者がいた。状況を注意深く観察していた商人らしき娘プリメラと、ひとしきり暴れた後に声に反応した獣人の娘、終始ぼんやりと立ち尽くしていたダークエルフの3人だ。残り10人弱の女たちは、反撃されて動けないか、狂ったようにエルフを切り裂き続けていて、魔物の気配にもテレイアの声にも気づいていない。
(あいつらは、もう駄目ね)
テレイアの声に応えた3人はうなずき合うと、音を立てずに森へと消える。
エルフをなぶることに夢中な人間たちは気付いてはいないのだ。
蓄積された怒りと恨みが、本来向けられるべき悪魔にではなく、今ここにいる、復讐できる弱者へと向けられていることを。それは一種の代償行為とも言えよう。
「なんと、愚かで人間らしいことだろう」
アモルがこの光景を見たならば、そう言ってほほ笑んだことだろう。あの聡明な悪魔は武器も含めて装備を返却した時点で、この結末を予測していたのだろう。そして、エルフたちを搾取される側から搾取する側へ変えたことで、捕らえられた人間種たちに相争う未来を運命付けたのだ。
アモルの撒いた憎しみの種を、エルフたちは大切に育て上げ、今収穫の時を迎えた。
「た……すけ……血……ささ……じゃ……な……か……」
助けを求めるヤートの声に応える者は誰もいない。
血の匂いに引き寄せられたのか、エリアーデの祈りによるものか。
森の魔物がすぐそこまで迫っていた。
■□■
ハイエルフの奪還を夢に描いたエルフの里では。
「……エリアーデ様の奪還に赴いたエルフ百余名、我ら数名を除き、か、壊滅、いたしました。エリアーデ様の生存はもはや絶望的かと……」
「……そうか」
あの悪魔の居城に攻め込んで、たった数名だけとはいえ生き残れたのは奇跡だと、生き残ったエルフの男は里の長老に語った。
耳にはあの闇の雄山羊の声が、未だにこびり付いている。耳のすぐ後ろ、息がかかるほどの距離に、あの闇の雄山羊は迫っていた。だというのに、どうして助かったのだろう。
ただ、エルフに分かるのは、あれほど喧しかった闇の雄山羊の声も、恐るべき悪魔の姿も、退路を塞ぐ岩山さえも、あの瞬間にかき消すように消えたということだけだ。悪魔に何があったのか、闇の雄山羊がどうして消えたのか、エルフに分かろうはずがない。ただエルフは静寂が訪れた後も死に物狂いで走り続けて、里まで辿り着いたのだ。
「これだけ若者が失われては、里を移すほかあるまいな。あの悪魔にまだ見つかっていない、世界樹の守りが活きている里に集って守りを固め、次のハイエルフの誕生を待つよりほかに、生き残る道はあるまいて……」
長老の案に保守的だと反対する声はない。
もし、あの悪魔が報復に来たら。その可能性を口にする者もない。
あれが抗うことのできない天災のような存在で、例え村が襲われたとして、羽虫が木の葉の裏で嵐が通り過ぎるのを待つように、耐え忍ぶしかないことをようやく理解したからだ。
生き残ったエルフたちは、一様に沈鬱な表情のまま、荷物をまとめ始めるのだった。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
メイプルズ「よくもやってくれたわね」
ヤート 「あーん」
エリアーデ「あーん」
里のエルフ「あーん」
ガールズ4人は旅にでる。