り ふじんの対価 *
「ふふふっ」
「……お楽しみいただいたなら、甲斐があったというものです。が、後学のために、何がそんなにお気に召したか、お教えいただけませんでしょうか」
長い石段を上っている間、アモルは終始不機嫌そうだった。それはそうだろう。手間暇をかけ丹精込めてソフィアの為に作り上げた加工場を、本人にいらないと言われ、有無も言わさず廃棄するよう命じられたのだから。
「ふふ、ごめんね。私はね、アモルが怒っているのが嬉しいのよ」
「……」
悪趣味な。言葉にはしないけれど、アモルの尻尾がより一層不機嫌そうに揺れ、心の声が漏れ聞こえるようだ。
「……怒れたのね」
サポートNPCに感情なんてないはずなのに。
ソフィアの言葉に、アモルの怒りは霧散し、思わず足を止めそうになる。
「……ソフィア様、地下の件につきまして、ご説明させていただいても?」
「必要ないわ」
「何も、お聞きにならないと?」
「そうね。アモルは怪我していない? 薔薇園は無事かしら?」
「ソフィア様が守れとお命じになられた薔薇園は、花弁一枚落ちておりません。私の身まで心配頂き、ありがとうございます」
「それで十分よ」
動揺を悟られないように、ソフィアが知りたいだろう内容を切り出したアモルだったけれど、ソフィアは地下室のことを何も聞こうとはしなかった。
「ねぇ、アモル。手を貸して?」
「はい。何なりとお申し付けください」
「そうじゃなくて。手袋を外して左手を貸してちょうだい?」
代わりにソフィアはアモルと手を繋ぎ、横に並んで歩きだす。
「……これは、何を?」
「手を繋いでいるのよ?」
「それは分かるのですが……」
これはどういう状況なのか。腕を組み、エスコートするならまだしも、主従としては相応しからず、男女がするには稚拙に過ぎる。ソフィアの意図を理解しかねて、混乱するアモルに対し、ソフィアは穏やかに話しかけた。
「ねぇ、アモル。もしも、アモルが誰かに捕らえられたら、私、きっと助けに行くわ」
「おやめください。私ごときのために、御身を危険にさらすなど。それに私を捕らえられるほどの者がいたとして、捕縛の情報をソフィア様がお知りになったのなら、それは罠に違いありません」
「助けに行くわ。罠でもなんでも」
「なぜ、そんなことを……」
この状況も会話の流れも、理解できないとアモルは思う。
そもそも自分を捕まえられるような者など、そういるものではないし、そんなヘマをするつもりもない。ソフィアにあの地下室が見つかったことは想定外だったが、それは今のソフィアの冠位、トゥルーブラッドの能力を見誤っていたからだろう。同じミスを犯しはしないし、ソフィアは今、文字通りアモルの手の中にいるではないか。
「アモルにそばにいて欲しいからよ。役に立つとか、いないと困るとかじゃなくて、……いないと困るのは確かなんだけど。とにかくそうやって怒ったり楽しそうにしたりするアモルと一緒にいたいのよ。
それにね、……私がアモルにあげられるものなんて、ほとんど何もないのよ。だから、何か伝わればいいと思ったの」
ぽつりぽつりと紡がれたソフィアの言葉に、アモルは心の臓を掴まれたような気持になった。
――覚えていない、はずなのに。その記憶を、今のソフィアが取り戻せるはずはないのに。
(貴女は、変わらず貴女のままなのですね――)
アモルの感傷は彼の尻尾に表われていたけれど、自分の言葉の気恥ずかしさにうつむいたソフィアが気付くことはなかった。
「あぁ、そういえば! せっかくアモルが集めたものを、棄てさせてしまったわね。代わりに何か欲しい物はある? して欲しいことでもいいわ」
「いいえ。もう、十分いただきましたから」
そう言って、アモルはソフィアと繋いだ手を上げた。
血管の浮き出た大きな手だ。悪魔らしく少し爪を尖らせているが、ソフィアの手に刺さらないよう気を付けて握ってくれている。
……優しい手だ。
それはソフィアに対してだけのもので、きっと何人もの人間を傷つけてきた血に塗れた手だ。
だからこそ、この手を離してはいけないとソフィアは思うのだ。
「そう? じゃあ、今日は眠るまで放さないわね」
そう言うと、ソフィアは大輪の薔薇のように笑って見せた。
地下室の有様や、時折本能に支配される自分。アモルに説明を求めたとして、きっと肝心なことは言わないだろうし、聞かなくともおおよそのことは想像がつく。
(もう、少しだけ……)
繋ぐアモルの手は温かい。今はそれでいいと、ソフィアは真実から目をそらす。
どうせもう、引き返すことも、許されることもできないのだからと。
■□■
その日、アモルはソフィアの寝台の側に座って、ソフィアが眠りに就くまで手を握り続けた。太陽が昇るにつれて、ソフィアの呼吸は浅く、体温は低くなっていく。
ヴァンパイアという不死者の偽りの生が白日の下にさらされて、ただの死体に戻っていくこの時間が、アモルはひどく疎ましい。
彼はソフィアが死ぬさまを、毎日毎日見守っている。この忌々しい太陽さえ沈めば、ソフィアはきっと目を覚ます。そう信じていたとしても、命のともし火の消えた肉体は彼女の魂を留め置くにはあまりに脆弱で、アモルはソフィアがより完璧な存在になれるよう望まずにはいられなかった。
(これでも、随分ましになった)
どうにかソフィアをヴァンパイア・トゥルーブラッドの冠位にまで上げることができた。残る冠位はあと三つ。
「……アモル様。道化より連絡でございます。解放した地下の者どもが、森に着いたとのこと。いかがいたしましょうか」
床に伸びるアモルの陰から、アモルにだけ聞こえるようなひそやかな声がした。
ソフィアは生きている者は全員解放しろと言った。命令通り解放し、この城の外、森まで無事に逃がしてやった。これで、命令は達成された。
解放した後のことを命じられてはいないのだ。特に、ソフィアに自らの下劣な血を飲ませただろうヤートというエルフの男を、アモルがそのままにしておくはずがないと、道化たちは考えたのだろう。
「捨て置け」
けれど、もう、アモルにとって、そんなことはどうでもいいのだ。ソフィアはアモルの手を取って、今もその手を繋いだままだ。この手を放すことなど、どうしてアモルにできようか。
(こんな日があったことを、貴女は覚えていないのでしょうね)
彼女は正しく彼女のままだ。
それがアモルにとって何よりうれしい。
例え記憶がなくとも、例え、その肉体が偽りのものだとしても。
「よろしいのですか?」
珍しく、配下の悪魔が質問をする。彼らは基本的にアモルに絶対服従だ。アモルによって呼び出され、支配関係にあるからというのもあるが、この丁寧で物腰の柔らかな悪魔にとって、ここで飼われていた人間も自分たち悪魔も、同程度の価値しか見出していないことを理解しているからだ。単に役割――材料か、奉仕か、求められるものが違うだけだ。
アモルにとって価値があるのはたった一人で、その執着の異常性もまた理解している。
それ故に、捨て置けという命令は意外だったのだろう。
「必要がないのだよ。武器は返してやったのだろう?」
「は。……畏まりました」
なぜ必要がないのか、主の言葉を、アモルの影に潜んだ悪魔は理解できない。
けれどこの人の運命を見通し、もてあそぶ悪魔が必要ないと言うのなら、相応の結末が用意されているのだろう。ならば配下としての勤めは、結末を見届けることだ。
悪魔の気配がアモルの陰から消え去った後、ふっ、とアモルは燭台のろうそくを吹き消す。
外の世界は陽が昇り、今頃は光と生者の息吹に満ちているのだろう。
けれど窓一つないヴァンパイアの寝室は、棺の中のように静謐で、主と従者、そして暗闇だけが満ちていた。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
「何かが伝わりますように」
そう言って笑うソフィアの手を、アモルは握り続けるだろう。
日が昇るたびに死にゆく彼女を、完璧な存在にするその時まで。
……アレ?