ル ミナスの美姫
いつもと変わらぬ夜明け前、いつもと変わらぬワインの食事を、ソフィアはいつも通りに楽しんでいた。
「あら、またワインの銘柄かえた?」
ただ一つ、いつもと違うワインの味に、ソフィアは小さく首をかしげる。
「いえ、そのようなことは」
「なんだか違う気がしたのだけれど」
アモルは珍しく少し怪訝そうな顔をしたけれど、小首をかしげながら不思議そうにテイスティングするソフィアの可愛らしい様子に様相を崩す。
「代わりをお持ちしましょうか?」
「これでいいわ。こういうのもたまには面白いもの」
ワインの味を、上手く言語化できないようだが、ソフィアが気に入っているようなので、アモルは「それはよろしゅうございました」と返事をする。
それが、異変の始まりだったのだろう。平穏を破るノックの音に、アモルは不快そうに眉をしかめた。
「失礼いたします。……アモル様」
「どうしました?」
眠りに就く前の自室でのひと時を、ソフィアはいつもアモルと静かに過ごす。束の間のこの時間を、アモルはとても大切にしている。
それを分かっているから、常ならば侍女たちがつまらない案件をアモルに持ってくることはないのだけれど。
「……ソフィア様は、本日お疲れなのでしょう。どうぞお休みになってください」
アモルにしては珍しいな、とソフィアは思う。いつもは名残を惜しむように一言二言、会話をするのに、早く寝ろ、と言ってくるとは一体何があったのだろうか。
「何事?」
「これは、気付かれてしまいましたか。ですが、ソフィア様のお手を煩わせるほどのことではございません。城の周囲にモンスターが湧いたとのことで」
「何が湧いたの?」
「スライムです」
「ふうん。片づけは任せていいかしら? 薔薇園に入らせないようにして頂戴ね」
「はい、仰せのままに」
ソフィアがおとなしく寝台に横になり瞳を閉じると、アモルは静かに部屋を離れた。
(なにが、「これは、気付かれてしまいましたか」よ。悪魔のくせに嘘が下手ねぇ。スライムなんて言っちゃって。尻尾の先っぽが、テシテシしてたわよ、アモル)
アモルが部屋を出た後、ソフィアがぱちりと目を開く。ギルドハウスであるファタ・モルガーナ城には防衛機構が備わっていて、少々の襲撃ならばNPCたちだけで十分対処できる。そもそもモンスターの異常湧きなど、NPCさえ出る必要はなく、放っておいても問題はない。
アモルの過保護ぶりから推測するに、ソフィアをはぐらかしたということは、日が昇り切るまで続きそうな襲撃があったとか、ソフィアではまだ危険なイベントが起こっているのではなかろうか。
(何かしら、呼ばれている感じがするのよね。きっとイベントだわ。最近、狩りばっかりで退屈してたのよ)
夜明けまでもう少し時間がある。見学くらいしてやろうと思ったソフィアは、寝台から起き上がると、音もなく部屋を抜け出した。
久しぶりに一人で歩く城内は、皆、対応に出払っているのか閑散としていた。
アモルがソフィアの監視役として残したのか、部屋の前で一人の侍女が待機していた。ソフィア付きの侍女で名前はマヤリス、種族は確かサキュバスだ。職務内容を勘案してかソフィア付きの侍女たちは皆、清楚な感じが多い。マヤリスも可愛らしい感じのサキュバス娘なのだけれど、清楚系ビッチだったりするのだろうか。
(だとしても! 真なる血に目覚めた吸血鬼を舐めないでもらいたいわ)
例えサキュバス娘であろうとも、びびびびびっと、ソフィアの魅力でイチコロなのだ。
「うふふ、いい子ねマヤリス。いいこと? 私は部屋で眠っているの。誰にも邪魔をさせては駄目よ?」
「はい、ソフィア様」
清楚系だがさすがはサキュバス。トロンとした表情で目を潤ませて見つめられると、なんだか悪いコトをしている気になってしまう。
(ちょっと部屋から抜け出すくらい、別に悪いコトじゃないわよう)
だったら堂々と、部屋を出たらいいのだが、なんとなく、見つかったら部屋に戻されてしまう気がして、ソフィアはこそこそと城の廊下を歩いて行った。
(一人でギルドハウスを歩くのって、ずいぶんと久しぶりね)
意匠を凝らして作られたこのファタ・モルガーナ城を、ソフィアはとても気に入っていて、昔は意味もなく散策したものだ。あの頃も、アモルはソフィアの後ろに付き従っていたけれど、今と違ってもっとNPCぽくて、一人でいる感覚だった。
(まったく、いつからあんなに存在感が増したのかしら……)
いつの間にか模様替えをしたのか、掛けられた絵画や置かれた壺が変わっている。壁の意匠も少し違うように思えるけれど、しばらく見ていなかったから、記憶がぼやけてしまったのだろう。
時折、廊下を歩く侍女を隠れてやり過ごす。まるでスニークミッションのようで少し楽しくなってきた。段ボールがあるならかぶってもいい。ソフィアが遊んだのは、何十回目ともなるリメイク版だったけれど、そんなゲームがあったはずだ。
人目を忍んで、普段は通らない通路を選んで進んでいると、突き当りの壁に違和感を覚えた。通路の左は下り階段、違和感を覚えた正面の壁は少し凹になっていて、巨大なタペストリーが掛けられている。タペストリーの前には、これまた巨大な花瓶が置かれ、花が生けれている。この城にはよくある装飾スペースなのだけれど、タペストリーをめくってみると扉があり、その先に左の下り階段とは別に石積みが丸出しの武骨な階段が続いていた。
(ここだわ……)
こんな場所に隠し階段があったなんて知らなかった。ギルドマスターであるシビュラの性格を考えれば、隠し部屋やダンジョンめいたギミックがあってもおかしくはない。けれど、アモルが向かっているらしき外で起こったイベントと、この城の通路に何の関連があるのか。しかし、ソフィアはこの先に答えがある、呼ばれていると感じていた。
音もなく、ソフィアは隠し階段を下る。
視覚でも、嗅覚でも、聴覚でもない、これまで覚醒していなかった知覚が、ソフィアを招く者がこの先にいると告げている。何よりも、ソフィアの思考を鈍らせ誘っていたのは、地下の湿気た空気に交じって漂ってくる濃厚な血の匂いだった。
悪魔であるアモルにはきっと分からないだろう。自覚のないソフィアもまた理解していないことだが、無理やりに抜き取った血をワインに混ぜて摂取する食事は、わずかなサプリメントで栄養を賄うようなものだ。必要なエネルギーが足りておらず、ソフィアの体は餓えていた。この先で待つ、血を捧げる者の存在に思考が鈍り、本能が先走ってしまうほどに。
地下まで続いているのだろう階段は、歩いて降りるにはいささか長い。本能の命じるままに進むソフィアは、自分でも意識しないうちに、霧と化して闇に溶けるように移動していた。
階段を下った先は牢獄のような場所で、何人もの女たちが収容されている。ここで働く女だろうか、廊下を痩せて見すぼらしい服装の女が歩いている。
(ちがう、コレじゃない……)
ソフィアが“虫”と呼ばれる女たちを通り過ぎると、さらに廊下の先には男女二人の道化の悪魔が、「今日はお越しが遅れるラシイ」「外で何かが起こったラシイ」などと言い合っている。この二人の悪魔もソフィアの存在に気がついてはいないけれど。
(コレは、邪魔ね。アモルの部下でしょうから、眠っててもらいましょう)
ソフィアがそう思うなり、地下室に薄く広がった霧に魔力が込もり、道化の悪魔も廊下の女も、おそらくは居房に囚われた者たちも、ソフィアが目指す一人を除いて、地下室にいた全員がその場に倒れて眠り込んだ。
闇に溶け、霧と化し、どれほど厳重に扉を閉ざして隠そうとも、哀れな犠牲者の元に忍び寄る。今のソフィアはまさしくヴァンパイアだった。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
ソフィア「地下室あるやん」