エ ルフの男の最後の作戦
(……失敗だ、失敗だ、失敗だ、失敗だ。悪魔どもへの攻撃も誰かに任せるのだった)
襲撃に失敗した後、エリアーデを助けるどころか彼女によって助けられ、狭い居房に飼われることとなったヤートは、じめじめと冷たい石の床の上で己の不運を呪っていた。
ヤートが一人で行くと言ったのは、彼の考えた策略が、新しいエルフのリーダーには相応しからぬ、卑怯なものだったからだ。
――悪魔よりは弱そうな女吸血鬼に毒矢を射かけ、解毒剤でもって悪魔を脅す。そうして悪魔の居城に潜り込み、井戸に毒を投げ入れるつもりだった。可能ならば、悪魔を脅して食事に毒を盛ってもいい。そうすれば、ヤート一人でも攫われた女たちを助け出せるかもしれない。
それが無理でも、城に入り込めさえすれば、仲間を招き入れられる。仲間のエルフを呼び寄せて、城に総攻撃をかけるのだ。寝込みを襲えば、悪魔だろうと怖れるに足りない。
エルフは森の草木に長じている。狩りで毒を使うことも多い。
けれど「解毒剤がある」と謀って他者を欺くことは卑怯であるし、まして飲み水を毒で汚すなど、自然と共に生きることを是とするエルフの考えとは相いれないものだった。少なくとも、里の長となる者には相応しくあるまい。
だから、ヤートはたった一人で行動し、結果見事に自爆した。
(だが、……まだ、可能性は、ある)
ヤートという青年に、賞賛すべき点があったとすれば、彼の利己的でタフな精神だろう。アモルに捕らえられ、城の地下の“加工室”で手ひどい“歓迎”を受けたおかげで、自分がエリアーデの“恋人”であることも、毒矢を射かけて脅そうとしたことも、仲間がこの城に向かっていることさえもしゃべってしまった。けれど、一つだけ喋っていないことがある。
運よく聞かれなかったから、漏らさずに済んだだけとも言えるけれど、それは今のヤートにとって最後の切り札になりうるものだ。
そしてヤートは持ち前のタフさゆえ、エリアーデの治療によって、一度は錯乱しかけた精神を健常な状態に保てていた。
ヤートの誤算は極めて多い。けれど、根拠のない推論のうち、当たっていたこともある。
厄介なのはあのアモルとかいう悪魔で、ヴァンパイアの方は悪魔ほどでもないこと。そして、あの悪魔の弱点がヴァンパイアだということだ。
それは、この地下室を見て確信した。
エリアーデに聞いたところ、彼女らを使って“蜜”――血液の採取を行っているらしいから、ここは、ヴァンパイアの食糧加工場というわけだ。
(何とかあの女吸血鬼をおびき出し、人質にできないだろうか……)
ヤートは昔、里の老人に聞いた話を思い出す。
たしか、悪魔は契約にこだわるものだと言っていた。甘言で惑わせ、幾重にもからめとり、最後は魂すら奪い取る。ヴァンパイアは血を吸うという行為ばかりに着目されがちではあるが、ヤツらだって分類の上では同じ魔族だ。ヤツらは血を媒介に契約を行うのだと、確か、そのようなことだった。
(吸血も契約だというなら、ヴァンパイアは血の対価を払っている? 少なくとも、奪われる側、つまりは我々人間側が、吸血されることを望む必要があるんじゃないか? だが、誰がそんな。荒唐無稽だ)
悪魔の場合、人間の望みにつけこんで契約を持ち掛けるのだという。
人に力を与え、金を与え、時には側にさえ侍る。悪魔は与えた以上のものを人間から奪い取るけれど、奪うものの価値が高ければ高いほど、悪魔が叶える望みも価値のあるものとなる。その最たるものが人間の魂を対価とした契約だろう。
ヤートは荒唐無稽と断じたが、ヴァンパイアは吸血によって配下を増やす。配下となった哀れなヴァンパイアは殺害することでのみ、救うことができる。それはすなわちヴァンパイアの支配契約は現世のみのもので、魂までは縛られないということだ。
そのため、血液の交換を媒介にするヴァンパイアの契約条件はシンプルだ。血を奪われる側が、正気であろうとなかろうと望んで血を捧げ、ヴァンパイアが血を与えればよい。哀れな犠牲者が、魅了状態にあっても構わないのだ。
だから、生粋のヴァンパイアたちは悪魔という種族の中でも飛びぬけて美しい容姿と、吸血という甘美な口づけでもって、哀れな獲物を魅了する。何度も吸血行為を繰り返された犠牲者は、陶酔の果てに吸血鬼への転生を望むのだ。
一度でもヴァンパイアに望んで血を与えると、そこに仮初の契約が生じるから、犠牲者をどこに隠してもヴァンパイアは獲物を見失わない。狼に化けて千里を駆け、蝙蝠となって壁も断崖も飛び越える。窓一つない部屋に閉じ込めても、霧に変わって犠牲者の元へ訪れるのだ。その契約を、完璧なものとするために。
そこまでの情報を、ヤートは知っていたわけではないが、エルフの長の座を狙うこの男の頭脳は、同世代の若者を扇動できる程度には優秀だった。
(血を契約の媒介とするのはよく聞く話だ。吸血は食事であり、契約の儀式……?)
「きゃああああぁ! やめて、いや、いやぁ!」
“加工室”から、女の叫び声がする。
(あぁ、うるさい! 考えが散る)
あのアモルとかいう悪魔は、毎日、朝日の昇る頃合いにこの地下室へやって来る。
靴音を響かせ地下へ降り立った悪魔は、ひどく耳当たりが良い――今となっては吐き気をもたらすばかりのあの声で、何事か指示を出していく。おそらくは、ここにいる食材を痛めつける方法を指示しているのだろう。ヤートにとってひどくおぞましいことに、悪魔の指示に従って、人間の女を痛めつけ、その血を抜いているのは攫われたエリアーデとエルフの女たちなのだ。
(そもそも、なんで、血を抜くんだ! 吸うんじゃないのか!?)
あの森で見かけた女ヴァンパイアが姿を現さないのはなぜか。
ここにいる、人間種など直接血を吸う価値もないというのか。痛めつけられ血を流す食材たちは、精神が狂わんばかりの恐慌状態で、この地獄から逃れられるなら喜んで首筋を差し出すだろうに。
(こんな方法が吸血行為と言えるのか? どこに契約が成立する要素がある!?)
耳を抑えても聞こえてくる悲鳴に、自ら味わった数々の痛みを思い出し、ヤートは体を丸くする。
「いやあぁ! 助けて! もういや、いやよ。何でもします、だから助けて! どうしてこんなことをするの!?」
どれほど耳をふさいでも、叫び声が聞こえてくる。
叫ぶ力があるということは、今日の女はここにきて日が浅いのだろうか。いや、いくら長くいたとして、こんな狂人の所業など理解できようはずはない。
(いや、まて。血を奪うことが目的だと全員が理解できているのか?)
これほど痛めつけるのだ、理解できているのなら“血を捧げますから!”と懇願する者がいるはずなのに、そんな叫びをヤートは聞いたことがない。
ヤートは、ここに来る直前、森で過ごした最後の記憶を思い出していた。
あの時、女ヴァンパイアに血を吸われるのだと思った。それを止めたのはあの悪魔だ。
あの時は助かったと思ったけれど……。
(まさか、あの悪魔が吸血をさせていない?)
吸血しないメリットなど、女ヴァンパイアにはないはずだ。だとしたら、これはあの悪魔の思惑ではないのか。
(……材料にされているのは女性ばかりで、僕は血を採られていない)
森での襲撃に失敗し殺されそうになった時、女吸血鬼は確かに自分の血を欲していた。女性の血しか口にしない訳ではなかろう。だとしたら。
(まさか……。悪魔にそんな感情が?)
ヤートは思考を整理する。
すべては仮定に過ぎず、可能性は限りなく低い。けれど、彼の予想が当たっているのなら――。少なくとも、あの悪魔に一矢報いることはできる。
あの時ヤートを見下したアモルという悪魔の表情を、今なら理解できた気がした。
――あれは、嫉妬だ。
ヤートは、にやりと嫌らしく笑うと、じめじめとした居房の壁に手を這わした。この壁の向こうには、“恋人”であるエリアーデが捕らわれている。
《エリアーデ、エリアーデ。僕の声が聞こえますか?》
ヤートは壁に生えた苔に触れて小声でささやく。見張りの悪魔に気付かれない音量で意思を伝えることは難しいけれど、この壁を隔てた向こうに同種の植物――苔が生えていれば、植物が声を届けてくれる。これが、悪魔に知られていない、ヤートの最後の切り札だ。
この壁の向こうにも、苔は生えているだろうか。そして、彼女もこの壁に生えた苔に触れていてくれるだろうか。
《ヤート、どうしたの?》
(良かった。つながった)
ヤートは安堵のため息を吐く。自分たちの運命は、まだつながっていたのだと。
《エリアーデ、頼みがあるのです。僕たちが助かるためにどうしても必要なことなのです。どうかお願いだ。僕の血を、君たちが集めた血に混ぜてくれないか――》
望んで血を差し出したなら、きっとヴァンパイアは気付く。
それがヤートが導き出した、最後の作戦だった。
たぶんよくわかるこんかいのまとめ
捕まった男エルフヤート「ひ ら め い た !」