エルフと寒さと防寒服
人気のない山麓の森林に、大きな羽音が響き渡る。
次いで、地鳴りのような重い音と共に、森の地面が地震に見舞われたかのように大きく揺れ、木の枝に留まっていた鳥たちが驚いて一斉に飛び立った。
その大きな音と振動を起こしたのは、上空からゆっくりと降りて来た巨大な象牙色の古龍種だった。
生えていた木々を薙ぎ倒しながら、ゆっくりと着地した古龍種は、そのまま四肢を折り曲げ、猫の香箱座りのような体勢を取る。
「わ~! ありがとーポルンちゃ~ん!」
そう言いながら、古龍種の背中から身軽に飛び降りたのは、炎のように紅い髪をした少女――サリアだった。
彼女は満面の笑みを湛えながら、古龍種の傍に歩み寄ると、労るようにその鬣を優しく撫でる。
「ぶふうううん」
サリアに撫でられた古龍種は気持ちよさそうに目を細め、彼女の身に顔を摺り寄せた。
「うふふふっ! ポルンちゃん、くすぐったいよぉ~!」
古龍種に、滑らかな鱗に覆われた顔を摺り寄せられたサリアも、朗らかな笑声をあげる。
その仲睦まじい様子は、従順なペットとその飼い主……いや、心を開き合った親友のようだった。
「……はぁ……」
そんなひとりと一頭の様子を横目で見ながら、憔悴しきった表情を浮かべているのは、蒼髪の魔族の少女――スウィッシュだった。
「古龍種の背中に乗って山脈を越えるなんて、デタラメな……。風圧すごくて息が出来ないわ、鱗がツルツルして滑り落ちそうになるわで、ホント……死ぬかと思った」
そう呟いた彼女は、ぶるりと身を震わせると、傍らで蹲る金髪のハーフエルフの少女に声をかけた。
「……ねえ、大丈夫? 唇が屍人形みたいに真っ青よ?」
「う……うぅ……さ、寒いぃぃぃ……」
声をかけられたハーフエルフ――ファミィは、ガタガタと身体を震わせながら、着込んでいた登山用の厚手の防寒服越しに二の腕を忙しく擦り続けている。
「そ……空の上が、あんなに寒いとはお……思わなかった……。ほ、ホントに、凍え死ぬかと……」
「まあ、確かに寒かったけど、そんなになる程だった?」
元々白い肌を一層青白くさせて震えているファミィに対して、スウィッシュはケロッとした顔で首を傾げた。
「変だなぁ……エルフ族は寒さに弱いのかしら……?」
「と……凍気に慣れている氷術遣いと一緒にすな!」
訝しげな顔のスウィッシュに、ファミィは声を荒げる。
そして、未だに寒さで悴んだままの指を懸命に伸ばし、白く霜が降りた自分の髪を指さしながら叫んだ。
「み……見ろ! 髪の毛がこんなになってるんだぞ! カッチカチやぞ!」
「うわぁ……。で、でも、結構よくある事じゃない? 髪の毛がバリバリに凍っちゃうことくらい――」
「無いわぁッ! だから、そんなのはおま――」
呑気なスウィッシュの言葉に、ファミィは更に興奮して捲し立てようとするが、急に顔をくしゃくしゃに顰めると、
「……ッぶぇっぐじっ!」
大きなくしゃみをした。
その途端、スウィッシュが呆れ顔を浮かべる。
「何て言うか……女の子なんだから、もうちょっと可愛らしいくしゃみ出来ないの? 全部濁点で、まるで中年のおじさんみたい――」
「う、うるさいっ! く、くしゃみに可愛いも可愛くないもあるもんか――ふぇ、ヴェッグジョンッ! ヴェブジッ!」
「やれやれ……」
スウィッシュへの反論も満足に能わず、くしゃみを連発するファミィを見たスウィッシュは、困り顔で肩を竦めると、自分が着ていた防寒服を脱いだ。
そして、くしゃみをし続けるファミィの肩に優しく掛けてあげる。
「ほら……寒いんだったら、これも使いなさい。あたしは平気だから」
「え……?」
ファミィは、スウィッシュが防寒服を貸してくれた事に対し、驚いた表情を浮かべた。
「お、お前……私の事が嫌いなんじゃないのか?」
「嫌い……っていうか、あなた、あたしたちの敵だし」
「う……まあ……」
「……でも、今はいっしょに旅をする……まあ、仲間だからね。仲間が辛そうだったり大変そうだったりしたら、助けるでしょ、そりゃ。――それだけ」
「……ッ!」
スウィッシュの言葉を聞いたファミィは、驚きで目を大きく見開いた。
「な……仲間……? お前は……私の事を、仲間と呼んでくれるのか……?」
「何よ、文句でもある? だったら、喜んで撤回するわよ」
「あ……」
ファミィは、丸くした蒼い目で、スウィッシュの顔をまじまじと見つめた。……心なしか、魔族の少女の頬が赤く染まっている……ような気がする。
その事に気付いた途端、ファミィは自分の頬が急に熱くなったのを感じた。
「いや……」
そう、呟くように言った彼女は、つと目を伏せる。
そして、全身に先ほどまでとは打って変わった火照りを感じながら、おずおずと口を開く。
「その……あ、ありがとうな……スウィッシュ……」
「……どういたしまして、エッル……ファミィ」
ぎこちなく言葉を交わすふたりの娘。彼女たちの顔がゆっくりと綻ぶ――寸前、
「ふぇ……っくちゅっ!」
「「――!」」
ふたりの間に漂う良い雰囲気を吹き飛ばすように大きなくしゃみに、ファミィとスウィッシュは互いの顔を見合わせた。
「今の大きなくしゃみは……」
「……へ、陛下っ!」
「えくちゅっ!」
スウィッシュがハッとして振り返ると、妙に可愛らしい響きのくしゃみが、彼女の呼びかけに応えるように上がった。
慌ててくしゃみが聞こえてきた方向に向かうふたり。
そして、
「うぇっくちゅんっ!」
「へ――陛下ぁああっ!」
「……うわぁ」
魔王の姿を見付けたスウィッシュは取り乱し、ファミィは顔を引き攣らせた。
そこには――、
「ざ……寒い……」
ウンダロース山脈の頂を越えるまでの長い時間、ずっと古龍種の口に銜え込まれたまま冷たい猛風に曝され続けた為に、全身が古龍種の涎でびっしょびしょになり、鼻水が凍るほど冷え切った体で震えているギャレマスの姿があったのだった……。