色街と逢引宿とベッド
――真誓魔王国の魔王城は、王宮を中心にして取り巻くように城下町が広がる人間族の王都アサハカンとは異なり、民たちの生活圏から少し離れた小高い丘の上に建っている。
丘の頂上に聳える魔王城からは、整然と舗装された広い石畳が麓まで続いており、その麓に栄える巨大な都市が、真誓魔王国の首都であるヴェルナ・ドーコ・ロザワである。
この街には、魔族はもちろん、獣人族や元々魔王国領に定住していた黒エルフ族、様々な事情で西から逃れてきたごく少数の人間族までもが住み着き、生活を営んでいた。
無論、異なる種族が隣り合って暮らしていく以上、種族や伝統や風習の違いによって軋轢や諍いが生じる事もあったが、魔王の優れた治政によって一定の秩序は守られ、かつて勇者シュータ率いる“伝説の四勇士”たちが魔王城に攻め込んだ際にも、その治安が乱れる事は無かったのだった。
繁栄を極めるヴェルナ・ドーコ・ロザワの人口は、交易や観光が目的の地方からの来訪者も少なくない為に流動的ではあるものの、一説によると、定住者だけで五十五万を数えるとされる。
その為、街の往来は盛んに人々が行き交い、常にごった返していた。
特に人通りが激しいのは、歓楽街や色街である。
夜ともなれば、酒や色を求める男たちや、素敵な出逢いや刺激的な体験を求める女たちが、続々と大通りに繰り出し、真っ直ぐに歩く事もままならない程だった。
◆ ◆ ◆ ◆
そして、
今日のヴェルナ・ドーコ・ロザワは、いつもにも増して、各地から多くの人々が集まって来ており、それは数多ある歓楽街のひとつである“カ・ブウキ街”も例外ではなかった。
表通りに軒を連ねる酒場はどこも満員御礼状態で、店に入りきらない客たちは、店の中から酒瓶や酒樽を持ち出し、尻が汚れるのも厭わず地べたに座って酒盛りに興じ、あちこちから酔客らの調子っ外れの歌や爆笑や諍いの声が上がっている……。
……だが、そんな表通りからひとつふたつ横に入った裏路地を抜けた先にある宿屋街は、まだそんな喧騒とは無縁のように静かだった。
まあ、それも当然の事である。
ここら辺りに並ぶ宿屋は、普通の旅人向けの宿ではなく、いわゆる“逢引宿”だった。
表通りの酒場で出逢い、酒を酌み交わし語り合う中で色々と盛り上がった男と女や、男と男や、女と女たちが、一時の愛に身を任せて燃え上がる場を提供する宿である。
逆に言うと、まだ宵の口である今の時間帯は、未来の“客たち”が酒場で絶賛恋の鞘当て中の為、逢引宿は逆に暇なのだ。
……だが、そんな逢引宿のひとつである、ここ“女神の膝枕亭”では、この時間には珍しく、宿の主が接客中だった。
そして、彼は頗る不機嫌だった。
夕食中にフロントまで呼び出された事もあるが、訪れた客がとても奇妙な事を要求してきたからである。
「ベッドがふたつある部屋がいいだってぇ?」
「あ、ああ……」
不機嫌そうに声を荒げた主人の眼光に気圧されつつ、おずおずと頷いたのは、片方の角が欠けた牛獣人の男だった。
彼は、漆黒のローブを纏った長身を折り畳むように縮こまらせながら、主人に頼み込む。
「別に広さにはこだわらぬ。何なら、ベッドじゃなくてソファでも構わぬのだ。とにかく、寝床になるものがふたつある部屋に泊まりた――」
「んな部屋、ウチには無えよ!」
宿の主人は、牛獣人の言葉を遮って怒声を上げた。
「ウチの宿を何だと思ってるんだ! 宿は宿でも逢引宿だぞ! 男と女がくんずほぐれつ睦み合うのが目的の部屋に、ベッドをふたつも置いてある訳ねえだろうが! 普通に寝起きしたいだけだったら、ウチじゃなくて普通の宿屋に行きやがれ!」
「そ、それが……」
主人に怒鳴りつけられた牛獣人は、困ったように頭を振る。
「も、もちろん、最初に普通の宿屋に行ったのだが、どこの宿ももう満室で……」
「まあ、そりゃそうだろうな」
牛獣人の言葉に、主人は少し怒りを和らげながら頷いた。
「今は、明日魔王城の方で開かれる“大喪の儀”と“即位の礼”の見物の為に、魔王国中から人が続々と集まって来てるからな。そりゃ、宿屋もパンクするだろうさ」
そう言うと、彼は牛獣人とその連れの姿を一瞥する。
「……アンタらも、“大喪の儀”と“即位の礼”を見物しに来たクチかい?」
「ま……まあ、そんなところだ」
主人の問いかけに、牛獣人はぎこちなく頷いた。
と、そんな彼のローブの端を、隣に立っていた長身の女が引っ張る。
「ねえねえ、ま……オジさん!」
フードを目深に被った女は、快活な響きを持つ声で、牛獣人を呼んだ。
その声に、牛獣人は訝しげに振り返る。
「……?」
主人は、そんなふたりの様子に、微妙な違和感を覚えた。
――だが、彼にはその違和感の正体が分からない。
女もまた獣人族のようだったが、彼女は連れの牛獣人とは違い、狼獣人のようだ。
頭からスッポリと被ったフードの盛り上がり方や、尻の付け根から生えているフサフサした尻尾からも、それは明らかである。
確かに、牛獣人と狼獣人のカップルは珍しかったが、主人はその点はさほど気にならなかった。
長い事この商売を続けてきた中で、彼ら以上に奇妙な取り合わせのカップルなどいくらでも遭遇してきている。
では、一体どこに違和感を――?
……そんな主人の疑問をよそに、狼獣人の女は、あっけらかんとした口調で牛獣人に言った。
「アタシは別に平気だよ。ベッドが一つだけでも別にいいじゃん。一緒にベッドで寝ようよ!」
「な! なななななな何を言っておるのだ、お主はッ?」
狼獣人の娘の言葉に、牛獣人は狼狽して声を裏返す。
「そ、そんな事はイカン! ま、まだ嫁入り前の娘が、よ……儂のような中年オヤジと同じベッドで寝るなどと! な、何か間違いがあったらどうするのだッ?」
「あれぇ? じゃあ、オジさんは、何か間違えちゃうかもしれないって事?」
狼獣人は、口元にニヤニヤと笑みを浮かべながら、わざとらしく首を傾げてみせた。
それに対し、牛獣人の方は、首が千切れ飛ばんほどの勢いで激しく頭を振る。
「そ、そそそんな訳は無いだろうがッ わ、儂を誰だと思っておるのだ!」
「じゃあ、何も問題無いじゃんか」
牛獣人の男の答えに、狼獣人の娘は苦笑を浮かべながら肩を竦め、主人に向かって手を差しだした。
「って事で、一部屋お願い」
「あ、ああ……」
ふたりのやり取りを呆気に取られて見ていた主人は、娘の声で我に返り、慌てて壁面にかかった鍵の束をまさぐる。
そして、ひとつの鍵を手に取り、娘の手のひらの上に置いた。
「じゃあ……コレが鍵だ。階段を昇って左に行って突き当たりの部屋な」
「りょーかい! ありがとー!」
主人から鍵を受け取った娘は、軽やかな足取りで階段を昇る。
躊躇しつつもその後に続こうとした牛獣人の男だったが、「……ちょっと」と主人に呼び止められた。
「ん? 何だ、主人よ?」
訝しげに振り返った牛獣人に顔を近付けた主人は、声を潜めて囁く。
「……旦那。顔、ズレてるぜ」
「……へ? あ!」
主人の言葉の意味が解らず、一瞬首を傾げた牛獣人の男は、覗き穴の位置がズレている事に気付き、慌てて牛面の覆面の位置を直した。
そして、指摘してくれた主人におずおずと頭を下げる。
「その……教えてくれて感謝する」
「いえいえ、どういたしまして」
牛獣人の感謝の言葉に鷹揚に頷いた主人は、再び彼に顔を寄せた。
「……なんだ? まだ何か?」
「いえ、今度は、ちょっとしたお得情報ってヤツさ」
「お得情報……?」
主人の言葉に再び首を捻る牛獣人。
そんな彼の耳に、主人は下卑た笑いを浮かべながら囁きかけた。
「……アンタらの部屋は、ちょっと特別仕様でな」
「特別仕様?」
「実はあの部屋、四方の壁の隙間にスライムの死体から抽出した粘性ジェル物質を注入してあるんだよ」
「す、スライムの粘性ジェル物質? ……それが何だという――?」
「スライムの身体の特性って、吸音と衝撃吸収だろ? その特性を抽出して建築資材として精製したのが、その“粘性ジェル物質”って訳でな。――つまり」
そこで一旦言葉を切った主人は、ひと際いやらしい笑みを浮かべ、更に言葉を継ぐ。
「あの部屋でどんなに大きな音を出したりズッコンバッコン励んだとしても、隣の部屋には聴こえないし、迷惑もかからないって訳さ」
「は――?」
「って事で、今夜は存分に楽しむこった。あのいい体つきしたお姐ちゃんと、な」
「え? い、いや、ちょっと待て主人! わ、儂は、そんな事をするつもりは……」
「じゃあ、そういう事で! ガンバレよ!」
主人はそう言い残すと、何かを必死に訴えかけようとする牛獣人を無視して踵を返し、夕食の続きに戻るのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「だから……そんな不埒な事はせぬと言うておるのに……」
「あ、やっと来たぁ」
何やらぶつぶつとボヤきながら扉を開けた牛獣人を、一足先に部屋に入っていた狼獣人の娘が迎えた。
彼女は、嬉々とした様子で部屋の奥に置かれた大きなベッドを指さす。
「ほら、見てみなよ! ベッド、結構大きいよ! アレだったら、ふたりで寝ても平気そうだよ!」
「いや、だから……」
狼獣人の娘の言葉に、牛獣人は辟易とした様子で頭を振った。
「余は、元よりベッドに寝るつもりは無い。そのベッドはお主ひとりで使え。余はそこの椅子で寝るから……」
「えー? あんな粗末な椅子じゃ、身体が痛くなっちゃうんじゃないの?」
「いや、別に構わぬ……」
「……頑固だなぁ」
頑なに同衾を固辞する連れに不満げな声を上げながら、彼女は被っていたフードを脱いだ。
フードの下に隠れていたショートボブの銀髪と、ぴょっこりと立った狼獣人特有の三角耳が露わになる。
彼女は、乱れた銀髪を手櫛で整えながら、突っ立っている牛獣人の男に声をかけた。
「それ脱いだら? もう、被ってる必要も無いでしょ?」
「……そうだな」
牛獣人の男は、彼女の言葉に頷くと、首元に手をやり、そのまま被っていた牛面の覆面を脱いだ。
「ふぅ……」
牛の覆面を脱ぎ去った黒髪黒髭の魔族の男――真誓魔王国国王イラ・ギャレマスは、蒸れた額に浮いた汗をローブの裾で拭いながら、安堵の息を吐くのだった。




