少女と二日酔いと記憶
「うぅ……ん……」
ずっと、泥のように深く眠っていたスウィッシュは、微かに唸りながら、ゆっくりと身を起こした。
「ふ、わあぁあぁぁ……」
木綿の下着を纏ったままの格好の彼女は、アクビを噛み殺しながら両腕を真っ直ぐ上に挙げて、大きく伸びをする。
――だが、すぐに顔を顰めると、
「う、うぅぅ~……あ、頭痛いぃ……」
と、悲鳴を上げながら、両手で頭を抱えて蹲ってしまった。
彼女を襲った激しい頭痛の原因は――考えるまでもなく明らかだった。
昨晩、半人族の村で催された大宴会。その場で出された蜂蜜酒を飲み過ぎた事による二日酔いによるものだ。
「痛たたたた……」
彼女は、寝起きと二日酔いによる頭痛とまだ抜けていない酒気の影響で二重にぼんやりした意識のまま、半開きの眼で周囲を見回した。
――どうやら、自分が寝ているのは、携行していたテントの中のようだ。
テントの分厚い布地越しに、初夏の明るい日射しが差し込んできている。
その光の強さから考えて、今はもう“朝”というよりは“昼”に近い時間帯らしい。
その事に気付いたスウィッシュは、慌てて身を起こした。
「うわ……いけない。すっかり寝坊しちゃった……! 早く起きて、陛下に――」
――だが、そこまで言いかけた彼女は、唐突に目を大きく見開き、口を半分開けたまま、まるで時間が止まったかのように硬直しする。
そして、
「……あ、あああああああ~ッ!」
突然、悲鳴のような絶叫を上げるや、両手で頭を抱えて悶絶した。
だが、これは、先ほどのような頭痛によるものではない。
「あ……あたし……き、昨日の夜……へ、へへへへ陛下にあんなことををををを……!」
顔を真っ赤にしながら、狭いテントの中をゴロゴロと転がるスウィッシュ。
……そう。彼女は思い出してしまったのだ。
昨夜の自分が、主であるギャレマスに対して、何をしでかしたのか、を。
「へ……陛下にこ、告白して……きききききキスしちゃって…………か、顔に吐いちゃった……って、あああああああああああっ!」
その時の事をまざまざと思い出したスウィッシュは、奇声を挙げながらのたうち回る。
「い、いくら酔ってたって言っても……な、なんて事しちゃったのよ、あたし……」
涙目で昨日の自分を恨むスウィッシュだが、今更悔やんでも、もう遅い。
テントの低い天井をぼんやりと見上げた彼女は、深い深い溜息を吐いた。
彼女の脳裏に、ギャレマスと一緒に飛ばされた異世界で出会った、老媼の皺だらけの顔が浮かぶ。
そう、屍霊女王……もとい、ニーソガセ公王国女王ウェスクア・エニック・スクンカバールの顔である。
そして、彼女が昇天する直前にスウィッシュに伝えた“アドバイス”の内のひとつを思い返した。
『男なんて生き物は、強引に押し倒して口を吸ってしまえば、カンタンに落とせるもんじゃぞ!』
「……ウェスクア様に、あんな事を吹き込まれたせいかなぁ」
スウィッシュは辟易した顔でぼやくと、解いて乱れた長い蒼髪に指を突っ込み、ワシワシと掻き乱した。
そして、ふと思い出す。
「あの時……陛下は、何て答えようとしてたんだろ……?」
スウィッシュが想いの丈を告げた後、ギャレマスは何かを言いかけていた。それは、自分の告白に対する返事だったに違いない。
――その直前に、彼女が彼の顔面に胃の中身を吐きかけてしまったせいで、そのまま有耶無耶になってしまったが……。
「あ――――ッ、もう! まったく、ホントあたしってバカ……ッ!」
と、自分のゲ〇のせいで、ギャレマスの心を知る千載一遇の好機をむざむざと逃してしまった事をいたく悔やんで、地面に突っ伏したスウィッシュだったが、それから数分後にムクリと起き上がった。
「……よし! もうやっちゃった事を、いつまでもここで悔やんでてもしょうがないっ! もうこうなったら開き直って、グイグイ押していこう、マジで!」
そう叫んで両手で自分の頬を叩くスウィッシュ。
パァンという破裂音と鋭い頬の痛みで気合が入った彼女は、手早く衣服を着ると、じんじんと痛む頭を手で押さえながらテントから出た。
そして、村長のヴァートスの小屋に向けて歩きながら、自分に向けて言い聞かせるように呟く。
「ええと……まず、普通に『おはようございます』って挨拶をし……ううん、もう『おはよう』って時間じゃないから、ここは『こんにちは』……いや、寝坊したんだから『すみません』か……。それで、何とか陛下と二人きりになって、昨日の晩の事を謝って……その流れで、自然に昨日の続きを……」
小声で呟きながら、ギャレマスに会った後の予習をするスウィッシュだったが、その心の中には、黒雲のような不安が徐々に立ち込めてくる。
その黒雲は、ヴァートスの小屋の前に立った時に、彼女の心を完全に覆い尽くした。
(も……もしも、陛下の返事がNOだったら……あたし……)
そう考えると、足が竦む。
考えてみれば当然の事だ。自分がギャレマスの事をどんなに想い慕おうと、ギャレマスが同じ感情を自分に向けてくれるとは限らない。
昨夜は、『陛下からどんな御返事を頂いたとしても、明日からもちゃんと陛下の部下として忠誠を尽くしますから』と言ってみせた彼女だったが、それは多分に強がりが混じっているのは否めない……。
「……怖い」
彼女は、小屋の扉の前で立ち竦んだまま、震える声で呟いた。
どうしても、扉を開けて、ギャレマスと顔を合わせる勇気が出ない……。
と、彼女が逡巡していた、その時――、
――ぎぃぃ
「……ふぇっ?」
不意に目の前の扉が軋みながら開き、スウィッシュは驚きの声を上げた。
「……何をいつまでも突っ立っているのだ? さっさと入れ、氷牙将よ」
開いた扉の隙間から顔を出したのは、呆れた表情を浮かべたアルトゥーだった。
彼は、スウィッシュを手招きしようとしたところで、ぎょっとした表情を浮かべ、訝しげに尋ねる。
「どうしたんだ? 顔が真っ青だぞ?」
「え……あ、ううん、大丈夫……」
アルトゥーの問いかけに、スウィッシュは力なく頭を振る。
そんな彼女の様子に、アルトゥーは察した顔で頷いた。
「あぁ……お前も二日酔いなのか」
「……“お前も”?」
訝しげに訊き返すスウィッシュに対し、アルトゥーは何も言わず、ただ彼女を手招きする。
彼の手招きに、一瞬躊躇ったスウィッシュだったが、覚悟を決めて小屋の中に入った。
そして、次の瞬間、彼女は直角に腰を折って、深々と頭を下げながら叫ぶように言う。
「へ、陛下ッ! そ、その……昨日は大変申し訳ございませんでした! え、えと……あと、おはようござ……じゃなくって、こんばんは……でもなくって、こんちわわぁっ! ……あ、じゃ、じゃなくって……ッ!」
「お、おい、落ち着けスウィッシュ……」
スウィッシュの声に対して返ってきたのは、聞き慣れた彼女の主の声ではなく、弱々しい女の力無い声だった。
「そ……そんなに大きな声を出さないで……あ、頭に響く……痛たたた……」
「……ファミィ……だけ?」
小屋の中に、顰め面でこめかみのあたりを押さえている二日酔い真っ最中のファミィしか居ない事に気付いたスウィッシュは、キョトンとした顔をする。
彼女は、小屋の中を見回しながら、訝しげに尋ねた。
「あの……陛下たちは? 居ないの?」
「あ、あぁ……」
スウィッシュの問いかけに、ファミィは気まずそうに眼を泳がせる。
そんな彼女の反応に眉を顰めながら、スウィッシュは問いを重ねた。
「あ……ひょっとして、まだ寝ていらっしゃるとか? そっか。昨日はいっぱい飲んでらしたもんね」
「いや……王たちは、もう起きた。――だが……」
スウィッシュの問いに答えたのは、後ろ手に扉を閉めたアルトゥーだった。
彼は、どことなく言いづらそうにしながら、おずおずと言葉を継ぐ。
「その……今は、もうこの村には居ない」
「……え?」
アルトゥーの言葉を聞いたスウィッシュは、ポカンと口を開けた。
「……はい? 村にもう居ないって……ええと……アル、それってどういう意味?」
「氷牙将……その……落ち着いて聞けよ」
アルトゥーが、彼には珍しい焦りの表情を浮かべながら、スウィッシュの肩にそっと手を置く。
一方のスウィッシュは、目をパチクリさせながら、彼に尋ねた。
「……何よ、アル? 落ち着いて聞けって……何があったのよ?」
「……怒るなよ?」
「だからっ! 何があったかって訊いてんの!」
念を押すように言ったアルトゥーに業を煮やしたスウィッシュが、思わず声を荒げる。
と、アルトゥーの代わりに、ファミィが答えた。
「あのな……魔王は、もう発ったんだ。ヴァートス様を連れて、魔王城へと……」
「はぁ?」
ファミィの言葉を聞いたスウィッシュは、思わず耳を疑い、信じられないと言いたげに首を左右に振りながら、自分の事を指さした。
「そ……そんな訳無いでしょ? だって……魔王城には、陛下とヴァートス様と……あたしが向かうって決めたじゃない! なのに、あたしがまだここに居るのに――」
「……朝、ここを発つ前に、魔王が言い残していったんだ。――『スウィッシュは、ファミィたちと共に、人間族の国都へ向かい、エラルティスを連れてくる任務に回るように』……って」
「え……?」
スウィッシュは、ファミィから伝えられたギャレマスからの言付けを聞くや、唖然とした表情を浮かべる。
「どうして……? どうして、急にそんな事を……?」
「……己たちも、王に言ったんだ。『そんな事、氷牙将は承知しないぞ』『戦力的に考えても、昨日話し合った組分けの方がいい』と。だが……王は頑として聞かず、ただただ『スウィッシュの事を頼む』と己たちに言うばかりで……」
「挙句、お前が目を覚まさないうちにと、渋るヴァートス様を引き摺るようにして、まるで逃げるように出発してしまって……」
「……逃げるように?」
アルトゥーの後を継いだファミィの言葉を耳にした瞬間、スウィッシュはピクリと眉を動かした。
そして、「そっか……そういう事か……」とブツブツ呟きながら、顔を俯かせ――、
「…………あんの気弱ヘタレ男ッ! 逃げやがったぁッ!」
鬼も裸足で逃げ出しそうな憤怒の形相で、天を劈くような怒声を上げるのだった……。
――そう。
“地上最強の生物”と称され、畏敬と恐怖を込めて“雷王”と呼ばれた真誓魔王国国王イラ・ギャレマスは、自分に愛の告白をした一人の少女と、その彼女の想いから、尻尾を巻いて逃げ出したのだった……。




