魔王と姫と光矢
「サリア! そこにいるのは、本当にお前なのかッ?」
グラグラと揺れ、ぼんやりとした視界の中で最愛の娘の姿を見留めたギャレマスは、血相を変えて身を乗り出した。
……だが、
「べぶしっ!」
その途端、足を縺れさせて盛大に転倒してしまう。
「くっ……! 目……目が回って……!」
グルグルと頭と目を回しながら呻くギャレマス。
遥か上空で古龍種のポルンに尻尾で叩き落とされた時の、三半規管へのダメージはまだ抜けないようだ。
彼は、眩暈による激しい吐き気と、転倒した際に強かに打った尻の痛みに苦しみながら、それでも何とか立ち上がろうとする。
「さ……サリア……待っておれ! い、今行くぞ……!」
「お……お父様! 大丈夫ですかっ?」
まるで生まれたての小鹿のように、プルプルと小刻みに震える脚で必死に踏ん張るギャレマスに、サリアは上ずった声で叫んだ。
その声を聞いたギャレマスは、娘を安心させようと、青ざめた顔に強張った笑みを浮かべながら大きく頷く。
「だ……大丈夫だ、サリアよ! すぐに助けてやる……ぶふぅおあっ!」
「あ、言ったそばから……! む……無理しないで下さい、お父様!」
自分の方に一歩踏み出した途端、派手に転ぶ父親の身を案じるサリア。
だが、そんな娘の声を耳にしたギャレマスは、再び膝に力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。
そして、さっきよりは揺れが安定してきて、ハッキリとしてきた視界で、もう一度サリアの姿を見た。
……と、その目が飛び出さんばかりに見開かれ、眦が吊り上がる。
「さ……サリア……! お主、そこに縛られておるのか……ッ?」
「あ……は、はい……」
低い声でギャレマスに問いかけられたサリアは、父親の雰囲気に気圧されながら、おずおずと頷いた。
彼女の答えを聞いたギャレマスは、砕けんばかりに歯を強く噛みしめると、更に問いを重ねる。
「お主にその様な真似をしたのは、あの女……エラルティスか?」
「は……はい……」
「……赦さぬ!」
ギャレマスは、サリアが躊躇いがちに頷いたのを見ると、顔を憤怒で歪ませた。
そして、ふらつきながらユラリと立ち上がると、ギリギリと歯噛みしながら声を荒げる。
「サリアを……この雷王ギャレマスの娘にこんな仕打ちを……! “伝説の四勇士”だか“聖女”だか知らぬが、やって良い事と悪い事があるわ! 赦せぬ……断じて赦さぬぞ!」
と、目を血走らせながら叫んだ魔王は、突然拳を握りしめると、自分の眉間目がけて打ち込んだ。
「お父様ッ?」
突然のギャレマスの奇行に、驚きと心配の声を上げるサリア。
「だ……大丈夫だ、安心せい。乱心した訳ではない」
だが、そんな娘に向かって、ギャレマスは安心させるように手を振ってみせる。
そして、微かに血の滲む額を指さしながら微笑んだ。……少しだけ、目が潤んではいたが。
「ま……まだ目が回っておったからな。その眩暈を止める為と、血が上った頭を冷ます為だ。……ふう、ようやく落ち着いてきた」
そう言うと、彼はサリアの方に一歩踏み出す。
「待っておれ。すぐにそのような無粋な縄を解いて、お主を助け出してやるからな……」
「あの……お父様。そっちは逆です……」
「……」
サリアの躊躇いがちの指摘を耳にして、僅かに顔を赤らめたギャレマスは、相変わらずフラフラと足元が覚束ない様子で振り返った。
そして、サリアの縛りつけられた柱に向けて、今度こそゆっくりと一歩ずつ歩き始める。
時々、足元に転がる瓦礫に蹴躓きながらも、ギャレマスはようやくサリアにあと数歩というところまで近付いた――その時、
「――聖光千矢!」
部屋の出口の方から凛とした若い女の声が響き、それと同時に夥しい数の何かが、空気を裂いて背後に迫る音がギャレマスの耳に届いた。
「――ッ!」
風切り音を聞いたギャレマスは、即座に着ていたローブの裾を翻し、襲い来る何かを叩き落とそうとする。
――だが、
「――ぐっ!」
彼の背後を襲った無数の光の矢の殆どをローブで打ち払ったものの、打ち漏らした数本の矢が彼の背中に突き立った。
「――お、お父様ぁっ!」
「だ……大丈夫だ。案ずるな、サリアよ」
父の身を案じて声を上げるサリアの事を安心させようと、ギャレマスは薄笑みを浮かべながら首を横に振る。
「ふん……こ、この程度、蚊に刺されたほども応えぬ――」
「――なぜ、あなたがここに居るのですか?」
「――ッ!」
自分の言葉を遮るように上がった、やや上ずった艶っぽい女の声を耳にした瞬間、ギャレマスの表情が変わった。
彼は、眉間に深い皺を刻みながら、ゆっくりと背後を振り返る。
「お主は――」
「……というか、今の聖光千矢には、聖女の法力をたっぷりと込めたんですわよ。並みの魔族なら、とうに浄滅し切っているはずですのに……。さすが、腐っても魔王。しぶとさはゴキブリ並みですわねぇ」
瓦礫まみれの固い石床にヒールの音を響かせ、鈴の鳴るような美しい声で、敵意と当惑と呆れが混じり合った侮蔑の言葉を紡ぎながら、ゆっくりと室内へ入って来た白い神官服の若い女。
翠色の長い髪を掻き上げた彼女は、ぷっくりとした瑞々しい唇を不満げに歪めながら、蹲るギャレマスの事を怜悧な光を放つ翡翠色の瞳で睨みつける。
そんな聖女の顔を憤怒で爛々と光る黄金色の瞳で睨み返しながら、ギャレマスは肚の底から絞り出したような低い声で、彼女の名を呼んだ。
「――“伝説の四勇士”聖女・エラルティス……ッ!」




