勇者と緊急事態と窮地
「……では」
と、ギャレマスは気を取り直すように咳払いし、シュータの顔を見て頷いた。
「あまり戦いの手を止めたままでいたら、地上の人間族たちから怪しまれてしまう。……そろそろ、芝居に戻るぞ、シュータ」
「ああ、そうだな」
魔王の提案に、勇者も頷き返し、軽く指を広げた右手を挙げて、魔王の攻撃に備える。
それを見たギャレマスは、人差し指を伸ばした右腕を真っ直ぐ上に伸ばし、高らかに叫んだ。
「――雷あれ!」
彼の声に応じるように遥か上空に黒雲が立ち込め、その中から一条の雷が閃き、導かれるようにギャレマスの人差し指へと落ちる。
落ちた雷は、バチバチと甲高い音を立てながら形を変え、やがて一抱え程もある巨大な光球となった。
時折表面に稲光が奔る光球を、開いた掌で支えるように持ちながら、ギャレマスはシュータの顔を睨みつける。
「……では、行くぞシュータ!」
「おう。サッサと投げて来いよ。その元〇玉のパクリみたいなやつをよ!」
「げ……〇気玉?」
ギャレマスは、シュータが口走った聞き慣れぬ単語に戸惑いの表情を浮かべるが、すぐにハッとしてブンブンと首を横に振った。
そして、上半身を大きく捻り、それと連動するように、滞空したまま左脚を真っ直ぐ上に上げ――、
「食らえぃッ! 光球雷起呪――!」
「――あ、やっぱタンマ」
「ツおおおおおおおぉぉぉぉぉっ?」
光球をシュータ目がけて投擲しようとした瞬間、緊迫とは程遠いシュータの呑気な声を耳にしたギャレマスは、裏返った声を上げながら空中でつんのめる。
その拍子に、彼が掲げていた巨大な光球はその手からすっぽ抜け、明後日の方向へと飛んでいってしまった。
バランスを崩した事で危うく墜落しかけたギャレマスは、背中の羽を必死で羽搏かせて何とか体勢を整えると、シュータに向かって声を荒げる。
「な……何だシュータ! 急に止めるな! 危ないであろうが!」
「うるせえな。緊急事態なんだからしょうがねえだろ」
「……緊急事態?」
自分の抗議に言い返してきたシュータが、珍しく顔を青ざめさせている事に気付いたギャレマスは、つと顔を曇らせた。
彼は不吉な胸騒ぎを覚えながら、おずおずと尋ねる。
「い……一体何が緊急なのだ? お主がそこまで焦るほどに重大な事か?」
「ああ……めちゃくちゃ重大で深刻な事態だ」
「な……?」
自分の問いかけに対し、微かに身を震わせながら頷くシュータを見て、ギャレマスは思わずゾッとした。
(……もしや、サリアの身に何か良からぬ事が?)と、焦燥と不安に駆られるギャレマスを前に、先ほどまでとは打って変わって真剣な表情を浮かべたシュータは、重大で深刻な事態の内容を口にする。
「……一時間以上も空の上にいたせいで、もう膀胱がパンパンだ。ちょっと、トイレ休憩にしようぜ」
「ファ――ッ?」
シュータの答えを聞いたギャレマスが、驚愕のあまり後方に仰け反った。そのせいで再び揚力を失って墜落しかけた魔王は、顔を真っ赤にして羽を羽搏かせる。
そして、ぜえぜえと肩で息を吐きながら、シュータに向かって叫んだ。
「と……トイレ休憩だとおおおぉぉっ? 貴様、ふざけておるのかぁっ?」
「ふざけてなんかいねえよ……ま、マジでもう限界なんだよっ!」
ギャレマスの怒声に苛立ち混じりの絶叫で応じたシュータは、股の間を両手で押さえ、モジモジと身体をくねらせている。
「い……いいから、今すぐ便所に行かせろ! で、でないと……漏れる……!」
「も……漏れると言われても……」
シュータの必死の訴えに、ギャレマスは困惑の表情を浮かべながら逡巡した。
「だからといって、中断するのは……。余とお主は、今まさに『雌雄を決する決戦』を演じておる訳だし――」
「ふ、ふざけんな! テメエは、このまま俺の膀胱が破裂しちまってもいいって言うのか……よっ?」
当惑するギャレマスを、耐え難い尿意を必死で抑えるあまりに顔面蒼白になったシュータが怒鳴りつける。
そして、焦点の定まらない目で地上を見下ろすと、おもむろにズボンのベルトを緩め始めた。
「も……もう、こうなったらしょうがねえ。ここで――」
「ちょ! ちょっと待てシュータ! 貴様、まさか……!」
彼の行動を見たギャレマスは、即座にその意図を悟って、顔を引き攣らせる。
「まさか……上空で――?」
「しょ、しょうがねえだろ! さっきから言ってるじゃねえかよ、もう限界だって!」
ギャレマスの問いに、上ずらせた声で怒鳴り返すシュータ。
「だ、大丈夫だって! こんな高い空の上なら、何をやってようと地上の奴らには分からねえよ! 何か降ってきたもんが顔に当たっても、“狐の嫁入り”かなんかだと思って、気にしないって!」
「い、いやいやいやいや! そ、それはイカンだろうがッ!」
色々な意味で追い詰められて、今にも超えてはいけないラインを踏み越えそうになっているシュータに向かって、ギャレマスは大慌てで首と両手を左右に振った。
「い……いくら緊急事態だといっても、“勇者”と呼ばれる者が、空の上で立ちショ……いや、飛びションをしたとあっては、色々とマズかろう!」
そう叫ぶと、ギャレマスは地上を指さし、大きく首を縦に振った。
「……相分かった! ここは一旦休戦だ! お主の希望通り、トイレ休憩を入れ――」
「分かッた――――!」
魔王の言葉が終わる前に、シュータは即座に身を翻し、夜闇の中を風よりも速いスピードで地上へと降りていった。
「……やれやれ」
急速に小さくなっていくシュータの紅い魔法陣を見下ろしながら、ギャレマスは呆れ顔でやれやれと安堵の息を吐く。
そして、表情を曇らせて、鋭い目で足下に広がるアヴァーシの街を凝視した。
その脳裏に、彼にとって何物にも代えられない、かけがえのない宝である赤毛の娘の姿が浮かぶ。
「……一体、この街のどこにおるのだ、サリアよ――」
彼は、焦燥に満ちた表情で、苦悩に満ちた声を漏らした。
――その時。
「……ッ?」
ギャレマスは突然顔を顰めると、キョロキョロと首を動かしながら、耳を欹てる。
「なんだ……今のは?」
彼は、訝しげな表情を浮かべながら、戸惑いの声を上げた。
「今……微かに聞こえた、甲高い音……あれは、一体……?」




