魔王と請求書と請求額
「ふう……疲れた……」
シュータの後姿が大食堂の扉の向こうへと消えたのを見届けたギャレマスは、大きな溜息を吐きながら、座っていた椅子の背もたれに身を預けた。
「……お疲れ様でした、陛下」
と、疲労困憊といった体のギャレマスに声をかけながら、スウィッシュがティーカップを差し出す。
「ハーブティーをお淹れしました。少し温くなっているかもしれませんが……」
「あ、ああ……すまぬ」
ギャレマスは、スウィッシュに微笑みかけながらティーカップを受け取ると、牛面の覆面を被ったまま、仄かに湯気を立てている薄茶色のお茶を一気に飲み干した。
程よく冷めたお茶が彼の喉を潤し、ハーブの爽やかな香りが鼻奥へと抜けていく。
「……うむ、美味い。丁度良い熱さで、ハーブの心地よい香りが、口の中いっぱいに広がって……癒される」
「そうですか……それは良かったです」
満足げなギャレマスの様子に、安堵の表情を浮かべるスウィッシュ。
彼女は、手に持ったティーポットからティーカップに二杯目のハーブティーを注ぎながら、ギャレマスに向けてしみじみとした声で言った。
「それにしても……さすがですね、陛下」
「ん? ……何がだ?」
「それはもちろん……あの勇者シュータを、あたしたちの計画に参加させた事です」
「あ……あぁ……その事か」
スウィッシュの言葉に、ギャレマスは僅かに頬を引き攣らせながら頷いた。
それを聞いたサリアも、目を輝かせる。
「ホント! すごいですよね~! ついこの間まで激しく戦っていたシューくんの事を味方につけちゃうなんて!」
「シュー……くん……?」
サリアの言葉を聞いた瞬間、ギャレマスの眉がピクリと跳ね上がった。
が、彼はすぐに大きく息を吐いて気を落ち着けると、平静を装って言葉を継ぐ。
「ま、まあ……味方になったといっても、今回の“エルフ族解放作戦”の間だけだがな」
「それでもすごいですって~!」
そう朗らかな声で言うと、サリアはニッコリと笑った。
「これで、“エルフ族解放作戦”の成功は間違いないですね!」
「うむ……」
サリアの楽観的な言葉に、ギャレマスは頷きかけたが、「……いや」と小さく首を横に振る。
「まだ、そうと決まった訳ではない。こういう作戦には、常に“不測の事態”が起こるものだからな……」
そこまで言ったギャレマスは、ふと言葉を詰まらせた。
――“不測の事態”と言うなら、本日この“良き湯だな”において、たまたま来訪したシュータと鉢合わせしてしまった事こそが、不測中の不測である。
対応を一歩間違えれば、この場でシュータに十分の八殺しをされた上、エルフ族を解放する計画の全てが人間族側にバラされてしまう可能性も充分に有り得た訳だ……。
半ば以上は、たまたまシュータと同じ“ニホン”という世界から転生してきたヴァートスが、たまたま“良き湯だな”に居合わせたおかげではあるが、その結果、シュータの事を首尾よくこちら側に引き入れる事が出来た事は、かなり奇跡的な事なのは間違いない。
千尋の谷にかけられた細い綱を伝って、落下せずに向こう側まで渡り切ったように――。
「……」
改めて、自分の身がどれほど危険な状況下に置かれていたのかを思い知ったギャレマスは、内心でゾッとしながら、やにわに覚えた喉の渇きを癒そうと、ハーブティーを一気に飲み干した。
そして、ハーブの香りで気を鎮めてから、言葉を続ける。
「だから……今が上手くいっているとしても、油断は禁物だ。何が起こっても対処できるよう、常に心を構えておくのだぞ。作戦は、無事に王宮に帰るまでが作戦なのだからな」
「あ……はい!」
「はいっ! 分かってまーす!」
自分の言葉に素直に頷くふたりの顔を見回し、満足げに頷き返すギャレマス。
と、彼はおもむろに表情を曇らせると、サリアの顔を鋭い目で見据えた。
「――ところで、サリアよ」
「……はい! 何ですか、お父様?」
「あ……いや」
サリアの朗らかな返事に思わず気勢を削がれるギャレマスだったが、気を取り直すように咳払いをすると、険しい表情で言った。
「その……大した事ではないのだがな……あれだ……さっきから、シュータに対するお主の距離が、その――」
「……距離、ですか?」
ギャレマスの言葉に、サリアは自分が座っている椅子と先ほどまでシュータが座っていた椅子とを順番に見比べてから、怪訝そうに首を傾げる。
「別に、サリアとシューくんが座ってた位置は、そんなに近くなかったと思いますけど……」
「そ、そういう意味ではない!」
キョトンとした表情のサリアに、ギャレマスは思わず声を荒げた。
「よ、余が言おうとしているのは、お主がシュータに少し馴れ馴れしく接し過ぎているのではないのかという事だ!」
「馴れ馴れしい……シューくんと――?」
「それだっ!」
ギャレマスは、ビシッと指を突きつけて叫んだ。
「な……何故、シュータの事を“シューくん”なんて気安く呼ぶのだっ? も、もしや……お主はあの男の事を――」
「あの~、御歓談中のところ、失礼いたします、ドジィンド様」
「あぁっ、何だッ? 今、余は大切な話をしてお……を?」
激昂しかけたところで、唐突に横から話しかけられたギャレマスは、苛立ちながら声を荒げたが、ふと違和感を覚えて振り返る。
「あ……こ、これは、支配人殿……」
そして、自分の横に、総支配人のトーチャがふくよかな顔に満面の営業スマイルを湛えて立っているのに気付くと、慌てて覆面の位置を直した。
そして、誤魔化すようにゴホンと咳払いをすると、トーチャに向けて尋ねかける。
「な……何かな、支配人殿?」
「あ、はい。大変申し訳ございませんが、もうご予約のお時間を過ぎておりまして……」
「あ」
トーチャの言葉に、ハッとして壁面の掛け時計を見上げたギャレマスは、時計の短針が“3”の文字を通り過ぎている事に気が付いた。
「おお……これはすまぬ。うっかりしておった」
「いえいえ」
と、慌てて詫びるギャレマスに、トーチャは微笑みを湛えた顔を左右に振ると、おもむろに細長い紙を彼の前に差し出した。
支配人の仕草に、ギャレマスは訝しげな表情を浮かべる。
「……これは?」
「先ほどご了承頂きました、追加料金の請求書でございます」
「あぁ……」
ヴァートスとアルトゥー二人分の入湯料金を追加で支払う事になっていたのをすっかり忘れていたギャレマスは、一瞬渋い顔をしたが、すぐに気を取り直して頷いた。
「そういえばそうだったな……。迷惑をかけたな、支配人殿」
「いえいえ! 当方としては、料金さえお支払い頂ければ、それで結構でございますデス」
ホクホク顔のトーチャから請求書を受け取り、軽く目を通すギャレマス。
……だが、たちまちその眉間に深い皺が寄った。
彼は、ぐるりと頭を巡らせると、努めて平静を装いながら、揉み手をしながら控えているトーチャに訊ねる。
「……おい、支配人殿。何だこれは?」
「はい? 何かございましたでしょうか、ドジィンド様?」
ギャレマスの低い声に不穏な響きを聴き取ったトーチャは、営業スマイルを引っ込め、緊張を孕んだ声で応える。
そんな彼に、ギャレマスは請求書の一点を指さしながら声を荒げた。
「ここ……人数欄が間違っておるぞ! 追加は二名分だけのはずであろう? なぜ、三名分の請求になっておるのだッ?」
「……はて? 別に間違ってはおりませんが?」
「何……?」
キョトンとした顔で答えるトーチャに、思わず当惑するギャレマス。
彼は、苛立ちを抑えて指を折りながら訴える。
「間違っておるだろう! ヴァートス殿とアルトゥー……明らかにふたりだけだったではないか!」
「いえいえ……」
ギャレマスの言葉に小さく頭を振りながら、トーチャは指を一本立て、ニッコリと笑った。
「もうおひとりいらっしゃいましたでしょう……勇者シュータ・ナカムラ様が」
「しゅ、シュータだとっ?」
トーチャの答えに、ギャレマスは思わず声を裏返す。
「な……何故、儂があやつの分まで払ってやらねばならぬのだ? アイツは別口であろうがッ!」
「いえ……それが……」
ギャレマスの剣幕に、トーチャは当惑の表情を浮かべながら答えた。
「シュータ様は、先ほどお帰りになる際に『あの牛獣人がすっかり俺に心酔して、俺の分もまとめて払わせてほしいって言ってきかないから』とおっしゃっておりました。ですから……てっきり、ドジィンド様がシュータ様の分までお支払いになるのかと……」
「な……何だと……ッ?」
トーチャの答えを聞いたギャレマスは愕然とするが、すぐに千切れんばかりに激しく首を横に振った。
「そ……そんな事、あやつの出まかせに決まっておるだろうが! 何故、儂があの傲慢勇者の分まで金を払わねばならぬのだッ? ええいっ、儂は銅貨一枚たりとも絶対に払わんぞ! あやつの分の請求は、あやつに直接――」
「あ、ドジィンド様がそうおっしゃった時にお伝えするようにと、シュータ様より伝言を預かっております」
「は……?」
トーチャの言葉に当惑して、目を丸くするギャレマス。
そんな彼に、トーチャは淡々と言葉を継いだ。
「ええと――『払わないと、全部バラすぞ』……だ、そうです」
「ぐ――ッ!」
トーチャからシュータの伝言を聞いたギャレマスは、思わず言葉を失う。
そして、ガックリと肩を落とすと、力無く頷いた。
「……分かった、払う……。スウィッシュよ、すまぬが、清算を頼む」
「あ……は、ハイ。かしこまりまし……って、うわ、こんなに……?」
ギャレマスから渡された請求書の額を見たスウィッシュが上げた驚きの声を聞きながら、ギャレマスは大きな大きな溜息を吐くのだった……。




