姫と凶運と強運
【イラスト・作者様】
魔王イラ・ギャレマスの一人娘――サリア・ギャレマスは、魔族の民たちから“飛雲姫”と呼ばれ、広く親しまれていた。
その愛称の由来は、彼女が自分の背中に生えた漆黒の翼を以て、大空に浮かぶ雲を渡るが如く縦横無尽に飛び回る様子から付けられたものだったが――実は、それ以外にもうひとつ、隠された意味があった。
それが――“非運姫”。
即ち、『運に見放された姫』という意味である。
要するに、彼女は桁違いに運が無いのだ。
とは言っても、生まれてからしばらくの間は、そんな事は無かった。
サリアは、厳格だが、愛妻家であり親バカ……子煩悩な父親と、美しくどこまでも優しい母親に慈しまれながら、ごくごく普通の魔族の姫君として、すくすくと育っていった。
だが……30年前、流行り病に倒れた彼女の母親が、あっさりと亡くなってしまってから、異変が起こり始める。
サリアの身に、次々と不幸な出来事が降りかかってくる様になったのだ。
最初の内は、彼女が出掛けると決まって雨に降られたり、乗った馬車が決まって道の脇の排水溝に車輪を落としたりする程度だったが、徐々に、その不幸の度合いは酷くなっていった。
何の変哲もない舗装された街道が、サリアが通り過ぎた直後に何の前触れもなく陥没したり、なだらかな丘の斜面から、唐突に巨大な岩が、サリアに向かって転がり落ちてきたり……。
しかし、そのような、度重なる不幸に襲われても尚、サリアはカスリ傷すら負う事は無かった。
もちろん、サリアの側近くで仕えていたお付きの者たちが、襲い掛かる危機から身を呈して彼女を護った事も少なくなかったのだが――それ以上に、サリア自身が無意識のうちに“運良く”危険を回避していた事が多かった。
つまり……サリアは、まるで招き寄せているかの如く、次々と不幸に見舞われるが、それと同時に、人並外れた運の良さを発揮して、その身に迫る危険を回避し続けているのだ。
もちろん、愛娘の身に起こっている奇妙な現象に気が付いた魔王ギャレマスは、その不幸の巻き添えを食って負傷する側近たちや、何よりもサリアの身の安全をいたく心配すると同時に訝しみ、国中の呪術師・魔術師を集め、その現象の正体を探らせた。
その結果、サリアの身に、呪いの様な呪縛などが一切かけられてはいない事はハッキリしたものの、肝心の“現象の正体”を究明するには至らず、
『サリア姫は、類稀なる“凶運”と“強運”を同時に持ち合わせた、実に珍しい体質の持ち主であると思われる』
――という、実に曖昧なものが、魔族の頭脳の粋を集めた調査団が出した最終結論であった……。
◆ ◆ ◆ ◆
「おお……! 主上、ご到着なされましたか! わざわざの御出座、恐悦至極に存じます!」
舞い散る大木の破片が降り積もる中、相も変わらず娘の身体を固く抱きしめていたギャレマスに向かって、野太い声がかけられた。
その声は、聞き間違えようもない。
「おう! イータツよ、待たせたのう。大儀であ……」
破顔しながら声のした方に振り返ったギャレマスだったが、部下を労う言葉は途中で途切れた。
彼は、目を大きく見開きながら、驚きの表情を浮かべつつ尋ねる。
「ど……どうしたのだ、イータツよ! そ、そのケガは……?」
「あ……は、はあ、これは……その」
その巨躯のあちこちに包帯を巻きつけた痛々しい姿の魔王軍四天王筆頭・轟炎将イータツは、赤髭まみれの魁偉な顔に引き攣り気味の困り笑いを浮かべながら、言葉を濁らせた。
そんな部下の反応を見たギャレマスの眉間に、深い皺が寄る。
彼は、イータツの顔をギロリと睨みつけながら、険しい声で言った。
「イータツよ……よもや貴様、余の命に背き、丘の上に籠もる“伝説の四勇士”に攻撃を――」
「い、いえ! そ、そうではございませぬ!」
ギャレマスの鋭い視線に射すくめられたイータツは、ブルリと身を震わせると、慌てふためきながら首を千切れんばかりに左右に振る。
そして、上ずった声で言葉を継ごうとする。
「しゅ、主上! こ、この傷は、その……戦によるものではなく……その……」
その巌の様な顔面と同様、豪胆で勇猛な性格で、魔王軍の中でも威名を轟かせていたイータツだったが、魔王の瞋怒の前にしては、ひたすら恐縮し、困ったようにペコペコと禿頭を下げるばかりだった。
そのような、部下のオドオドした態度は、ギャレマスの心を更に苛立たせる。
彼は、金色の眼を血走らせ、イータツを一喝せんと、深く息を吸う。
「イータツ! 貴様――」
「――陛下、お待ちを!」
「お父様、違うんです!」
「――は?」
イータツを怒鳴りつけようと大きく口を開けたギャレマスだったが、それを遮るように上がったスウィッシュとサリアの声に、口をあんぐりと開けたまま、パチパチと目を瞬いた。
そんな魔王の傍らに寄ったスウィッシュが、押し殺した声で囁く。
「……陛下。このイータツ様のご様子……何やら事情がありそうです。あたしがイータツ様から事情を聞き出しますので、少々お待ち下さい」
そう告げると、彼女はスッとギャレマスの横を離れ、その巨躯を小さく丸めているイータツの方へと歩いていく。
だが、ギャレマスは、彼女の言葉に返事をするどころではなかった。
その胸に抱かれていたサリアが、その可愛らしい顔に真剣な表情を浮かべて、彼に向かって必死に訴えかけていたからだ。
「違うの、お父様! イータツがケガをしたのは、お父様の命令を破って、勇者たちと戦ったからじゃないの!」
「そ……そうなのか? じゃ、じゃあ……あやつは一体どうしてあんな大ケガを――」
「それは――」
ギャレマスに問いかけられたサリアは、まっすぐに腕を伸ばして、少し離れた所に散らばっている無数の茶色い物体を指さした。
その物体は見るからに固そうで、その上、ホカホカと湯気を上げている。
「何でだか知らないんだけど、急に空から大きなフンが落ちてきたの。それで、当たりそうになったサリアを庇ったイータツが、身代わりになった感じで……」
「あ……」
サリアの言葉を聞いたギャレマスの頭の中で、ある思考が雷光の様に閃いた。
娘が指さしている物体が、この地方でしばしば姿を見せる古龍種が、飛行中に落とした排泄物だという事。
そして、愛娘の持つ“非運”という特異な運命の事――。
――全てが、繋がった。
「あ、あの~……」
ギャレマスは、片頬を引き攣らせながら、おずおずとイータツの方に目を向けた。
「ひょ、ひょっとして……イータツは、空から落ちてきた古龍種の糞からサリアを護ろうとして……直撃を食らったって……感じ?」
「……」
ギャレマスの問いかけに、心なしか涙目のイータツは、コクンと頷いた。
更にその横で、こっそり鼻をつまんだスウィッシュも頷いている。
……そういえば、イータツ方面から、そこはかとなく鼻をつく臭いが――。
「あ……そ、そうなんだ……」
ふたりの反応を見たギャレマスは、オロオロと目を泳がせ――イータツに向かって、深く頭を下げるのだった。
「あ、あの……イータツ……。ろ、ロクに事情も聞かぬまま怒鳴ってしまって……ゴメン……」




