娘と頬っぺたと感触
「あー、気持ち良かったぁ~!」
大食堂へと続く廊下を歩きながら、サリアは満足そうな笑みを浮かべる。
「ほら、すごいよスーちゃん! 頬がモッチモチ~!」
彼女はそう言いながら、両手の指で自分の頬を摘まんでみせた。
そして、自分の傍らを歩くスウィッシュに笑みを向けながら言う。
「ほらほら、スーちゃんも触ってみなよ~」
「え……あ、いえ……」
サリアの言葉に、スウィッシュは困り笑いを浮かべながら、首を横に振った。
「あの、せっかくのお誘いですが……さすがに、主の頬っぺたに触れるのは、臣下として畏れ多いので……」
「別に気にしないでいいのにぃ~」
スウィッシュのつれない返事を聞いて、サリアはぷうと頬を膨らませると、彼女の顔をジト目で睨んで言う。
「主だ臣下だって、堅苦しい事を言わないでよぉ。サリアとスーちゃんは、裸の付き合いをした仲じゃん」
「は……裸の付き合いって、い、一緒にお風呂に入っただけじゃないですか! ままま紛らわしい言い方をしないで下さいっ!」
サリアの言葉を聞いたスウィッシュは、その紫瞳を大きく見開きながら声を上ずらせる。
「ほ、他の人に聞かれたら、変な意味に取られちゃうじゃないですか……」
「変な意味……って、どんな意味?」
「さ……サリア様は、知らなくていいんです!」
スウィッシュは、キョトンとした顔で聞き返すサリアの曇りなき眼から目を逸らしながら叫んだ。
そして、上気した頬を隠すように掌で押さえ、
「……ホントだ。何だか、すごく柔らかくなってる……。ま、まるで、自分の頬っぺたじゃないみたい……!」
と、驚きの声を上げる。
それを聞いたサリアが、満面の笑みを浮かべながら、大きく頷いた。
「でしょ~? すごいよねぇ」
「これは……すごいですね……」
あまりの感動で語彙が迷子になりながら、スウィッシュは自分の頬をしきりに指で擦る。
「何て言ったらいいのかな……? ぷにぷにですべすべで……まるで赤ちゃんの頬っぺたを触ってるみたいというか……」
「あ、そんな感じもするね~。サリアは、どっちかというと『スライムみたい』って思ったけど」
「いや、さすがに自分の頬っぺたの感触に対してその感想はおかしい……です」
自分の頬をモンスターに喩えるサリアに、思わずツッコミを入れるスウィッシュ。
それに対して、「そうかなぁ?」と呟いたサリアは、おもむろに手を伸ばすと、サリアの頬をそっと撫でた。
「キャッ! な……何をなさるんですか、サリア様ッ?」
「――うん、サリアとおんなじ触り心地だよ~」
ビックリして声を裏返したスウィッシュの頬をしきりに撫でながら、サリアはにへらあと笑いかけた。
「えへへ。なんか、自分の頬っぺたよりも、他の女の子の頬っぺたを撫でてる方が気持ちいいかも~」
「ちょ? さ、サリア様ぁ? ちょま……止め……」
「や~だ~! 止められない止まらない~!」
狼狽するスウィッシュの反応もお構いなしに、ひたすら恍惚の表情で彼女の頬を触ってくるサリア。
その内、スウィッシュは困り果てながら、かといって満更でもないような表情を浮かべ――、
「――ハッ! ちょ、ちょ! ストップストップ! もうおしまいですッ!」
危うく自分の中で新しい扉が開きそうになっているのに気付くと、大慌てで、頬を撫で続けているサリアの事を半ば強引に引き剥がす。
「ちぇー……」
引き剥がされたサリアは、手の指をわしゃわしゃと動かしながら、不満そうな表情を浮かべる。
だが、すぐに機嫌を直して、ニッコリと微笑んだ。
「すごいね、ここの香油エステ! こんなに効果があるなんて思わなかった!」
「まあ……えぇ、確かに……」
サリアの言葉に、スウィッシュは小さく頷いた。
そして、そっと自分の頬に手を添え、感触を確かめながら言葉を継ぐ。
「こんなに瑞々しい肌になった上に、肌の張りも前とは見違えるよう……。正直、半信半疑でしたけど……あたしは人間族の美容技術を侮り過ぎていたのかもしれません」
「そうだね~」
そう答えてコクンと首を縦に振ったサリアは、スウィッシュの顔を覗き込むように見ると、にやぁと微笑みかけた。
「キレイになったスーちゃんを、お父様に見てもらうのが楽しみだねっ!」
「ひ……ひぁあっ?」
サリアの言葉に、スウィッシュは顔をたちまち真っ赤に染め上げて、ブンブンと首を横に振った。
「さささささサリア様ッ! で……ですからあたしは、別に陛下の事を、そのようには……」
「はいはい」
「そ……それに……陛下はあたしの事なんか、別に何とも思ってらっしゃらないと思いますし……」
「相変わらずだなぁ……」
サリアは呆れ交じりの声を上げると、廊下の突き当たりにある大きな扉のノブに手をかけた。
「じゃあ、お父様がスーちゃんの事をどう思っているか、面と向かって訊いてみればいいよ~」
「はひゃっ?」
スウィッシュは、ようやく自分たちが目的の部屋――大食堂の目の前に立っている事に気が付き、裏返った声を上げる。
この分厚い木の扉の向こうに、今しがた話題にしていたギャレマスが待っている――そう考えた途端、彼女の左胸が激しく脈打ち始めた。
そんな彼女の事もお構いなしに、サリアは大食堂の扉をあっさりと開け放った。
「エステを受けてきました! お待たせしました、お父様~!」
「あッ! ちょ、ちょっと待って下さい、サリア様ッ! ま……まだ、心の準備が……ッ!」
スウィッシュは素っ頓狂な声を上げて、慌ててくるりと背を向けた。
そして、氷系魔術で慌てて創り出した氷の手鏡で、自分の顔におかしい所がないかチェックする。
「うぅ……やっぱり、お風呂上がりだからっていって、すっぴんじゃ恥ずかしい……。薄くでもいいからお化粧しておいた方が良かったかなぁ……」
「あれれ~? 何でこんな所にいるんですかぁ?」
「え……?」
鏡とにらめっこしていたスウィッシュは、サリアが上げた声に違和感を覚えて振り返った。
彼女の目に、大食堂の中の光景が映る。
部屋の真ん中に据えられた、色々な料理が盛りつけられた大小様々な皿が所狭しと並ぶ大きなテーブル。その席について、微笑みを浮かべているギャレマスと――。
「……と?」
スウィッシュは、一瞬状況が理解できずに目をパチクリさせる。
そして、すぐに自分が感じた違和感の原因に思い至って、その目を大きく見開いた。
「って! な、何でここにあなたがいらっしゃるんですか、ヴァートス様ッ?」
「ヒョッヒョッヒョッ! 久しぶりじゃのう、蒼髪のお姐ちゃん! 元気そうで何よりじゃ」
「いや……だから、何でエルフ族の収容所にいるはずのあなたが、ここに居るんですか……って」
手にしたグラスを掲げながら、上機嫌で声をかけてきた老エルフのほろ酔い顔をジト目で睨むスウィッシュだったが、
「……あら?」
その隣にもうひとり、黒髪の人物が座っているのに気付いた。
あいにくと、スウィッシュのいる方からは、角度の関係で顔が見えない。
スウィッシュは訝しげに眉を顰めると、ギャレマスに訊ねる。
「あの、陛下……? そちらに座っている人は……?」
「あ……ああ、こ……この者は――」
「あぁん? 俺の事か?」
おずおずと答えようとするギャレマスの声を遮って、黒髪の男がスウィッシュたちの方へと顔を向けた。
「……あ」
その時、彼女の前に立っていたサリアが上ずった声を上げる。
「あれ? あなた……勇者シュータ?」
「ッ?」
呆然としたサリアの声を耳にした瞬間、スウィッシュは目を飛び出さんばかりに見開き、改めて黒髪の若い男の顔を凝視した。
ぼさぼさの黒髪に漆黒の瞳の、彫りの浅い顔立ち――その顔の特徴は、確かに以前聞いた勇者シュータ・ナカムラのそれと一致している……!
目の前に座っている男が“魔族の宿敵”本人であることを確信したスウィッシュは、即座に行動を起こした。
「お下がりください、サリア様ッ!」
そう叫ぶと、彼女は両腕を前に掲げ、指を忙しなく動かしながら、中空に魔術陣を描き始める。
「何であなたまでここに居るのかは知らないけれど、ここで会ったが百年目よっ! 覚悟しなさい、勇者シュータぁッ!」
「ちょ! ちょっと待つのだ、スウィッシュ! これには事情が――!」
ギャレマスが慌てて制止するが、スウィッシュは聞く耳を持たなかった。
魔術陣が完成し、白い光と夥しい冷気を放ち始める。
「食らええええええっ! 究極氷結魔術んんんんッ!」
彼女の声とともに魔術陣の中から飛び出した、何物をも瞬時で凍らせる凄まじい冷気の塊が、シュータ目がけて一直線に飛んでいく――!
――と、究極氷結魔術とシュータの間に、何かが飛び込んできた。
「ぎゃ、ぎゃああああああああああっ!」
「へ……陛下ああああああっ?」
シュータを庇って身体を割り込ませ、究極氷結魔術の直撃を受けて凍りついたギャレマスの断末魔と、驚いたスウィッシュが上げた悲鳴が、だだっ広い大食堂に響き渡るのだった――。




