魔王と愛娘とヒウン
【イラスト・ペケさん】
「――お父様ぁ~ッ!」
ようやくヴァンゲリンの丘の麓に到着し、スウィッシュに促されながら馬車から降りたギャレマスの耳に、聞き間違いようの無い愛らしい声が届いた。
「――むっ!」
その声を聞いた途端、疲労と馬車酔いでゲッソリとしていたギャレマスの顔がパッと輝く。
彼は、先ほどまでの疲弊っぷりが噓のようにシャンと背筋を伸ばすと、声の主の姿を求め、周囲を見回した。
そして、深紅の長い髪をまるで燃え盛る炎のように靡かせながら、こちらへ向けて駆け寄ってくる一人の少女の姿を見止めると、満面の笑みを浮かべ、大きく両腕を広げる。
ギャレマスと同様に、左右の側頭部に小ぶりの角を生やした赤髪の少女は、そのスピードを緩めぬまま、まるで火矢の如き勢いで疾走し、魔王の胸の中へと飛び込んだ。
「お父様ぁっ! お久しぶりでございますっ!」
「おお、サリア! 息災であったかッ?」
輝く様な笑顔で、胸の中から自分を見上げる深紅の髪の少女に、普段の彼からは想像も出来ない様な締まりのない顔で笑みかける魔王ギャレマス。
父親の胸の中に埋もれて、久方ぶりに感じる温かい体温を満喫しながら、魔王イラ・ギャレマスの一人娘――“飛雲姫”ことサリア・ギャレマスは、元気よく頷いてみせた。
「はいっ! ご覧の通り、サリアは元気モリモリでございます!」
「おお、そうかそうか! 元気モリモリであるか! 重畳、重畳! ハッハッハッ!」
少女から女性へと移り変わる間際の年頃ながら、どこか幼さを感じさせる愛娘の答えに、ギャレマスはますます表情をだらしなく緩ませる。
と、
「――ですが……」
突然、それまで満面の笑みを湛えていたサリアの表情が曇った。
彼女の表情の変化を見たギャレマスの表情も強張り、オロオロと狼狽え始める。
「ど……どうした、サリアよ? 何か、辛い事があったのか?」
「いえ……」
心配顔で自分の顔を覗き込んでくるギャレマスに向かって、はにかみ笑いを浮かべながら、サリアは首を左右に小さく振った。
「この一年……、お父様にお会いする事も能わぬままでしたので……少しだけ、寂しかったなぁ……って」
「……ッ!」
娘の答えを聞いた魔王は、思わずハッとすると、たちまちその金色の眼を潤ませる。
そして、娘の背中に回した腕に更に力を込め、彼女の身体を強く固く抱きしめた。
「それは……すまなんだ! 事態が事態ゆえ、やむを得ぬ措置であったのだ。だが……お前が父に会えぬ事で、斯様に寂しい思いを抱いておるとは思わず――!」
「ううん……サリアは大丈夫です、お父様」
と、詫び言を口にする父に向かって、サリアは気丈にも微笑みを浮かべてみせながら、小さくかぶりを振ってみせる。
「――サリアも、もう何も分からぬ子どもではありませぬ。お父様の御配慮の意味も、キチンと理解しております。……正直、お父様に会えないのは寂しいですが、我慢します。……でも」
サリアはそこで一旦言葉を止めると、髪と同じ色をした紅瞳に浮かんだ、透明な滴を手の甲で拭うと、おずおずと言葉を続ける。
「――お父様を困らせている憎っくき勇者一行がこんな僻地に現れたという事と、お父様が奴らを討ち払う為に御出座なされるという事を聞き及んだら、矢も楯もたまらず……ひとっ飛びしてここまで来てしまいましたわ……」
そう言うと、彼女はギャレマスに向かって深々と頭を下げた。
「お父様、申し訳御座いません……。本来でしたら、お父様にお伺いを立て、許可を頂くのが筋でございますのに、それをせずに勝手に動いてしまって……。サリアは、悪い子です――」
「わ、悪くないッ! お前は全然悪くないぞ、ウン!」
しょげ返って項垂れるサリアを見たギャレマスは、慌てて首をちぎれんばかりに横に振る。
「お前の様な良い娘に、悪い事などあるものか! わざわざこんな所まで、父に会いに来てくれた事……余は嬉しゅうてたまらぬぞ、ウム!」
「あぁ……それは良うございました……!」
ギャレマスの言葉を聞き、サリアは安堵の笑みを浮かべた。
その笑顔を見たギャレマスは、自分の周囲に護衛の兵が居る事も忘れたかのように、憚りも無く滂沱の涙を流し続けている。
「……やれやれ」
そんな父娘の様子を、二人から少し離れた所に立って見守っていたスウィッシュは、苦笑いを浮かべながら独り言ちる。
「サリア様の前では、陛下も形無しね……。『雷王ギャレマス』も、ただの親バ……子煩悩なお父さんだって事か……」
少しだけ羨ましげな眼差しを二人に向けていたスウィッシュだったが、つと表情を引き締めると、配下の兵に向けて叫んだ。
「さあみんな、努々油断しちゃダメよ! そろそろ来るからね! “飛雲姫”のヒウン――」
――その時、
ゴウッという轟音を立てながら、一陣の突風が魔王軍の陣を吹き抜けた。
「――ッ!」
その風の勢いの凄まじさに巻き上げられた土埃が、その場にいたスウィッシュと兵士たちに襲いかかる。
「くっ……!」
思わず、スウィッシュたちは腕で顔を庇い、固く目を閉じる。
――と、
……メリ ……ミシミシ――ミシシィッ!
どこからか、何かが軋むような奇妙な音が聴こえてきた。
「――ッ!」
飛来してきた細かい砂粒を受けて、思うように開けない目を懸命に見開いたスウィッシュの視界に飛び込んできたのは――先ほどの突風によって幹が真っ二つに裂けた、ふた抱え程もありそうな大木が、固く抱き合った魔王父子目がけて倒れ込んでくる光景だった。
「き――」
主とその娘に襲いかからんとしている危険を目の当たりにした彼女は、痛む目を見開き、右手の指を虚空に向けて伸ばしながら叫ぶ。
「来たわッ! 総員、迎撃ッ!」
彼女が虚空に魔法陣を描きながら絶叫した瞬間、周囲の親衛隊兵も各々の得物と術を用いて、倒れ来る大木に向けて、一斉に攻撃を放った。
――バシュゥッ!
――ドドドドドッ!
――ガガガガガガガガガッ!
大木の太い幹に、兵たちが放った様々な属性の攻撃が次々と炸裂する。
そして、
「――阿鼻叫喚氷晶魔術ッ!」
最後にスウィッシュが放った無数の氷雪弾が、遂に大木を粉々に吹き飛ばした。
無数の木片と化した大木のなれの果てが、まるで雪のように周囲に降り積もる。
「……ふぅ」
自分たちが、主を襲った危機を首尾よく退けた事を確認し、スウィッシュは安堵の息を吐き、額に浮かんだ冷や汗を拭った。
そして、
「やれやれ……相変わらず――っていうか、前よりも悪化してるじゃない……」
頬を引き攣らせながら、ギャレマスの胸の中で甘え続けているサリアの無邪気な笑顔を見つめ、彼女はぼそりと呟いた。
「――“非運姫”サリア……」




