魔王と無賃入湯者と追加料金
「ヒョッヒョッヒョッ!」
風呂から上がり、『良き湯だな』の大食堂に入ったヴァートスは、目の前の大きなテーブルの上に並べられた料理と栓の開けられた数本の酒瓶を見て、満足げな笑い声を上げた。
「発泡酒にワインに――ほう、蜂蜜酒まで取り揃えておるとは。日帰り温泉も、なかなか侮れんのぉ~」
「は……はぁ」
上機嫌のヴァートスを前にして、頭に大きなたんこぶをこしらえた『良き湯だな』支配人のトーチャは、訝しげな顔をしつつ、ペコリと頭を下げた。
「ええと……一先ず、お褒めにあずかり恐縮でございます。――あの、ところで……」
そう言い淀むと、トーチャはヴァートスの顔をじっと見据えた。
そして、「つかぬ事をお伺いいたしますが――」と、警戒心を剥き出しにしつつ、ヴァートスに尋ねる。
「あのぉ……あなた様は、一体……どちら様ですか? ――確か、ドジィンド様のお連れ様は、女性の方二名様だけだったような気が……」
「あ!」
トーチャの問いかけに焦りに満ちた声を上げたのは、生乾きの牛獣人の覆面を被ったギャレマスだった。
彼はどもりながら、ヴァートスに訝しげな目を向ける支配人に向かって声を上げる。
「し、支配人! こ、この御仁はな……」
「ドジィンド様のお連れ様ですか? はて……、ご予約は三名様とお伺いしていて、料金も三名様分しか頂いていないはずですが?」
「いや……た、確かにそうなのだが。……というか、これには深い事情が……あったり無かったり……」
「もしや――こっそり館内に引き入れて、どさくさ紛れに一名分料金を浮かそうという……」
「い! いやいや! 余が、そんなみみっちい事をすると思うのか! 余は、真誓魔お――あ、い、いや……」
自分が無賃入湯の片棒を担いだと言わんばかりの口ぶりに、思わず激昂しかけたギャレマスだったが、勢いに任せて自分の身分を明かしかけた事に気付いて、慌てて口を噤んだ。
一方のトーチャは、そんなギャレマスの態度に、ますます眉間の皺を深くさせる。
「その狼狽っぷり……やはり!」
「いや、だから違――」
「ヒョッヒョッヒョッ!」
しどろもどろなギャレマスの言葉を遮ったのは、呑気な笑い声だった。
いつの間に着席していたヴァートスは、勝手に発泡酒の瓶を持ち上げてグラスに注ぎながら、尊大な態度で口を開く。
「まったく……黙って聞いておれば、このワシの事を無賃入湯者呼ばわりするとは。客商売をしとる身のクセに、随分と失礼な奴じゃのう!」
「あ……いえ、その……け、決してそういう訳ではなく……」
(呼ばわりっていうか、無賃入湯者そのものなんだよなぁ……)
覆面の下で、思わず呆れ顔を浮かべるギャレマスを尻目に、ヴァートスはトーチャに向かって、鷹揚に言った。
「まあ、そう固い事言うな。ちょっとしたアクシデントで頭数が増えただけじゃわい。気にせんでも良いぞい」
「いや……頭数が増えても気にしないでいいとか、そういう事を言える立場なのは、むしろこちらの方なのでは……」
老エルフの謎の押しの強さに圧されながら、トーチャはおずおずと言う。
「ま、まあ……元々、本日はドジィンド様の貸し切りだったはずのところを、勇者様のワガマ……ゴホン、こちらの都合で相湯にさせて頂いた事もありますので、急な人数変更は承りますが……その、追加分のお支払いが――」
「んな事ぁ知るかい!」
トーチャの言葉を途中で遮り、ヴァートスは禿頭に青筋を浮かせながら声を荒げた。
「別に、風呂に入る者が一人増えたところで、湯の量がそう極端に目減りする訳でもないし、元々食い放題なんじゃから、食う奴が一人増えても問題ないじゃろうが! さっきは、こっちがお主の都合に合わせてやったんじゃから、ジジイ一人分くらいサービスせんかいッ!」
「い、いや……誠に申し訳ございませんが、そういう訳には……」
「誠意を見せんかい誠意を!」
「い、いえ……誠意と申されましても……もちろん、大変申し訳なく思っておりますが、無料にするのはさすがに……」
「ええい、分からんのかい! 誠意とは、言葉ではなく無料サービスじゃぞい!」
「おい、ジジイ! そりゃ、いくら何でも無茶苦茶だろうが! つか、微妙に“銭闘士”の名言じゃなくなってるし!」
弱みを衝いたヴァートスの過大な要求にタジタジとなるトーチャを見かねて、思わず口を挟んだのはシュータだった。
「サービスを受けようとするのなら、相応の対価を払うのがスジだろうが! サービスっていうのは、受けるモンがサービスする側に強要するモンじゃねえんだよ!」
「うっさいわ、若造ッ! かの三波〇夫が唱えた『お客様は神様です』という格言を知らんのか!」
「アレは元々そういう意味じゃねえよ! っていうか、そもそも、金を払わねえ奴は客じゃねえッ!」
と、ヴァートスを怒鳴りつけるシュータだったが、ふと生温かい視線を感じた。
彼はギロリと視線の方を睨むと、低い声で言う。
「……って、何だよ、その目は? このクソ魔お――クソ野郎」
「いや……歩く非人道のようなお主の口から、そんなまともな言葉が出て来ようとは思ってもいなかったので、ほんのちょっとだけ感心し――アダッ!」
「誰が歩く非人道だクソが! 十分の九殺しにすんぞゴラ!」
「い、一応褒めたつもりだったのだが……」
具現化した鋼鉄のハリセンでぶっ叩かれた脳天を擦りながら、ギャレマスはぼやいた。
そして、小さく溜息を吐くと、三人のやり取りを唖然として見ているトーチャに向かって声をかける。
「……相分かった。すまぬな、支配人殿。ヴァートス殿とアルトゥーのふたりの料金は、儂が出そう。それで良いな?」
「あ……ハイ!」
ギャレマスの申し出を聞いたトーチャは、明らかにホッとした表情を浮かべて、大きく頷いた。
「もちろんでございます。お支払い頂けるのであれば、こちらとしては結構でございます」
「そうか……」
「あれ? ですが――ええと、お二人分……ですか?」
「?」
キョトンとしたトーチャの様子に怪訝な表情を浮かべながら、ギャレマスが、
「いや――だから、そこのヴァートス殿と……こっちのアルトゥー……」
「うひゃああっ! 出たああああっ!」
背後に立っていたアルトゥーの事を指さした瞬間、トーチャが素っ頓狂な悲鳴を上げた。
その悲鳴に、ギャレマスも驚く。
「ど……どうされた、支配人殿?」
「ひ、ひぃいいいっ! ぼ、ぼぼぼ亡霊だぁ! ドジィンド様の背後に、真っ白な顔をした黒装束の悪霊があああああっ!」
そう叫ぶと、トーチャは腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「……あ、悪霊ッ?」
トーチャの絶叫に度肝を抜かれたギャレマスが振り返ると、そこには確かに顔面蒼白の幽鬼の姿が――!
「ひぃっ! ――――って、何だ、アルトゥーではないか……」
「……悪霊で悪かったな」
トーチャの見た“悪霊”の正体にギャレマスは安堵の息を漏らし、“悪霊”呼ばわりされたアルトゥーは、先ほど湯舟の中で溺れかけたせいで血の気の引いたままの顔を不満げに歪める。
一方、
「……あ~あ、黙ってれば、もう一人いる事に気付かれなんだのに。そうすれば、料金が一人分浮いたのにのう。本当に、魔王のクセに要領の悪い奴じゃて」
「つーか、ちょうどいいじゃん。そいつはそのまま幽霊だって事にしておけよ、くくく……」
ニヤニヤ笑いながら、好き勝手な事を言うヴァートスとシュータ。
「お主らなぁ……」
ギャレマスは、そんなふたりに対してジト目を向けながら、思わず呆れ声を上げるのだった。




