魔王と支配人と相談
「いや~、この根暗兄ちゃんは、実に優秀じゃぞ~」
「……根暗兄ちゃん言うな」
酔いの回った顔でそう言いながら、馴れ馴れしく背中をバシバシ叩いてくるヴァートスを迷惑そうな顔で睨むアルトゥー。
だが、彼のささやかな抗議の声など聞こえぬ体で、ヴァートスは言葉を継ぐ。
「こやつにかかれば、いかに厳重な警備だろうが、収容所の検問だろうが、館内のフロントだろうが、無いも同然じゃった! いやー、ここまで影を薄くする事が出来るのかと、ワシャ感心したぞ!」
「……何か、褒められているのか貶されているのか分からんのだが……」
「褒め摂る褒めとる! お主、若いんじゃから、もっと自信を持ちんしゃい!」
複雑な表情を浮かべるアルトゥーに、ヴァートスは上機嫌で頷いた。
そして、ニヤリと悪い笑みを浮かべると、湯屋を隔てる石壁を指さす。
「多分、お主が本気を出せば、あっちの女湯にも気付かれずに潜入――」
「な、何だとッ?」
ヴァートスの言葉に、ギャレマスは血相を変えた。
そして、憤怒に満ちた目でアルトゥーの顔を睨みつける。
「あ、アルトゥーッ! き、貴様……ま、まさか、女湯にも潜入し、サリアとスウィッシュの――!」
「す、する訳無いだろうがッ!」
さしものアルトゥーも、魔王の勘違いには慌てて首を横に振り、必死で身の潔白を訴える。
「お……己は、そんな事はしないし、する気も無い! む……むしろ己は、この老人が女湯の方へ行こうとするのを必死で止めてたんだ!」
「まったく……本当につまらん奴じゃのう。男ならば誰しも、そこに女湯があらば覗きたくなるもんじゃ。それが自然の摂理というもんじゃろうが」
「き、聞いた事無いぞ、そんな破廉恥な自然の摂理!」
不満そうに口を尖らせるヴァートスに、思わず声を荒げてツッコむアルトゥー。
だが、ヴァートスは悪びれる様子も無く、顔を真っ赤にしながら目を剥いているアルトゥーの顔を一瞥すると、大きな溜息を吐いた。
「まったく……男ならば誰しもが憧れるような稀有な能力を持っておるというのに、実に勿体ない。こういうのを正に『宝の持ち腐れ』と言うんじゃ。は~、嘆かわしい」
「あ、いや……その……スマン」
「い……いや、何でアルトゥーが責められてる感じになっているのだ?」
大げさな溜息を吐きながら、やれやれとばかりに肩を竦めるヴァートスを前に、逆にたじろいで思わず謝ってしまうアルトゥーを見て、ギャレマスは呆れ声を上げる。
――と、
ヴァルトーが、今度はギャレマスにジト目を向けた。
「根暗な兄ちゃんもそうじゃが、お主も大概じゃぞ、ギャレの字よ」
「え……?」
唐突に非難めいた声をかけられたギャレマスは、思わず戸惑いの声を上げる。
「よ、余も……? な、何がだ……?」
「そりゃ、その若さで涸れ過ぎじゃという話じゃ」
そう言いながら、手酌で酒を杯に注いだヴァルトーは、くいっと酒を飲み干してから言葉を続けた。
「そんな事では、ワシくらいの年齢になったら、涸れ果ててミイラに――」
「――あ、あの~、お寛ぎのところ、申し訳ございません、ドジィンド様。少々、宜しいでしょうか?」
ヴァルトーの言葉の途中で、湯屋の外――脱衣所の方からおずおずとした声が聞こえてきた。その妙に甲高い猫撫で声は、この日帰り温泉浴場の支配人・トーチャのものだ。
「「「――ッ!」」」
唐突に聞こえてきたトーチャの声に、三人は顔を強張らせ、息を吞む。
湯屋が沈黙に包まれ、天井から滴り落ちる水滴が上げる音だけがやけに大きく響き渡った。
――と、
湯屋からの返答が無い事に不審を抱いたらしいトーチャが、おずおずと声をかける。
「……あの~、ドジィンド様? お返事がございませんが、もしや……お加減でも悪くなされましたか?」
「あ! い、いや!」
湯気の向こうのトーチャの声が緊迫感を帯び、慌てて中に入ろうとする物音がした為、ギャレマスは慌てて声を上げた。
今、彼に中に入られては、何かと都合が悪い。
牛面の覆面を被っていない自分と、居てはならない無銭入浴者ふたりの姿を見られては、言い訳のしようが無い。
そう考えたギャレマスは、脱衣所の方に向けて大声で叫んだ。
「余……じゃなかった、儂は大丈夫だ! 心配には及ばぬぞ!」
「あ、そうでございましたか。それはようございました」
ギャレマスの元気な声を聞いたトーチャは、安堵の声を漏らす。
「湯あたりでもされて、お客様にポックリ逝かれてしまっては、大変困った事になりますから……。当館が事故物件になってしまいますからねェ……」
「……そ、それより! な、何の用だ、支配人殿!」
「あ、そうでした」
狼狽え混じりのギャレマスの問いかけに、トーチャが手を叩くポンという音が湯屋の中に響いた。
それから、いかにも恐縮した響きの言葉が後に続く。
「あのですね……。大変申し訳ないのですが、ドジィンド様にひとつご相談がございまして……」
「相談?」
トーチャの声に、ギャレマスは首を傾げた。そして、訝しげに問い質す。
「何だ……? 申してみよ」
「ありがとうございます」
トーチャは、ギャレマスに向けて感謝の言葉を返し、それから「実は……」と続ける。
「本来ですと、今はドジィンド様とお連れ様の貸し切りのお時間なのですが、『どうしても今の時間に入りたい』とおっしゃるやんごとなき御方がいらっしゃっておりまして……」
「……やんごとなき御方?」
「ええ、そうなんでございます」
問い返すギャレマスに応えるトーチャの声には、困惑の色がありありと混じっている。
「も、もちろん、『現在は貸し切り中の為、ご意向には添えかねます』とお伝えしたのですが――なかなかワガマ……頑固な御方でして、なかなかご納得頂けないのです。その上……その御方の御身分が御身分で、無下にお言葉を突っぱねる事も出来ず……と、対応に苦慮しておる次第でして……」
本当に困り切っているのが、声の端々からも窺い知れる。
そして、湯気越しからも申し訳なさそうな表情が見えそうな声で、彼は更に言葉を続けた。
「で……、ここはひとつ、ドジィンド様にご慈悲を賜りまして、その御方との相席……いえ、合湯をお願いしたい……と」
「えぇ……? あ、合湯? そ……それは困る!」
とんでもない依頼に、ギャレマスは慌てて拒絶の声を上げる。
“合湯”などされては、自分の素顔はともかくとして、自分の後ろで息を潜めているヴァートスとアルトゥーの存在は到底隠し切れない。
「あ! も、もちろん!」
だが、トーチャは引き下がらず、必死な声で捲し立てる。
「ご予約の際に頂いていた貸し切り料金はお返しさせて頂きます! あ、あと、お昼には、最高級の地酒をサービスさせて頂きますし、マッサージの『人体破壊サービス』も七割引きでご提供させて頂きます!」
「……何じゃと?」
トーチャの必死の提案に、ピクリと長い耳を動かしたのは、ヴァートスだった。
彼は、やにわに真剣な表情を浮かべると、ギャレマスの背中をチョイチョイとつついた。
「な……何だ、ヴァートス殿? いかがなされ――」
「……のぅ、ギャレの字よ。相手は大層困っておる様子。ここは人助けと思うて、合湯のひとりやふたりくらい、赦してやってもいいんじゃないかの? 最高級地酒飲みたい」
「え、ええい、何が人助けだ! 最後で下心がバレバレではないか!」
ヴァートスの言葉に、ギャレマスは思わず呆れ声を上げる。
「と、というか! そもそも、誰のせいで余が必死で断ろうとしていると思っておるのだ、この無銭入浴老人めが――」
「……? あの、ひょっとして、他に誰かいらっしゃるので――?」
「い、いや、違う! い、今のは……ただの独り言だぞ、ウン!」
ふたりのやり取りを耳にして、訝しげな声で問いかけるトーチャに対し、慌てて大声で誤魔化すギャレマス。
――と、その時、
「――おい、俺の事をいつまで待たせるつもりだよ、テメエ」
若い男のものと思しき低い声が湯屋に反響した。
「ひ、ヒィッ!」
「ッ!」
そのぶっきらぼうな声を聴いた瞬間、驚いたトーチャが潰れたカエルのような悲鳴を上げる。
そして……ギャレマスも、何故か心臓が縮み上がり、背筋に冷たいものが走ったのを感じた。
温泉の熱い湯に肩まで使っているにもかかわらず、ギャレマスは顔面を紙のように白くして、ガタガタと震え出す。
(い……今の声……は……?)
彼の頭の中で、警鐘が狂ったように鳴り響き始めた。決して信じたくない直感と確信が、激しい吐き気と共にギャレマスを襲う。
(ま……まさか……い、いや! そんな事は有り得ない……はず! い、今ここに、あ、あの男が居るなど……そんなバカな事が――)
脳内で徐々にハッキリとした形を取り始める最悪の想像を打ち消そうと、必死で頭を振るギャレマス。
だが――、
次いで浴場に響き渡ったトーチャの声が、彼の必死の努力を粉砕した。
「も……申し訳ございません! ゆ――勇者シュータ様……!」




