魔王と女ミノタウロスと角
それから数日後の昼下がり……。
「はぁっ! はぁっ! はぁっ!はぁあああっ!」
沢山の人で賑わうアヴァーシの中央街路を、黒いローブの裾を翻しながら、ひとりの牛獣人が、息を切らせて疾走していた。
それは……言うまでも無く、牛獣人に扮した真誓魔王国国王イラ・ギャレマスである。
「ぜぇっ! ぜぇっ! ぜぇっ!」
ギャレマスは、荒い息を吐きながら、驚いて立ち止まる人々の間を縫うようにすり抜けつつ、恐怖に駆られた様子で、チラリと背後を振り返る。
彼の目に、街路に上がる夥しい土煙が映った。
「ま……まだついてくるのか……!」
それを見たギャレマスは、ウンザリした声で吐き捨てると前に向き直り、さらにスピードを上げた。
もう30分以上も、こうして走り続けている。いかに魔王といえど、齢百五十を超えた身には、そろそろ限界だ……。
「も……もう、いい加減に諦めてくれえええっ!」
彼は、背後の土煙に向けて、思わず絶叫した。
そう、彼は今、追われているのだ。
……だが、凄まじい土煙を上げながらギャレマスの事を追いかけ続けているのは、魔王である彼の正体を見抜いた人間族族の兵士や冒険者などではなく――、
「モーッ! そんなにお逃げにならないでぇえ! いっしょに楽しくお茶しましょおおおおお!」
パンパンに膨らんだ四つの乳房をゆっさゆっさと揺らし、発情で目を血走らせ、通行人を次々と撥ね飛ばしながら怒涛の如く疾駆する女の牛獣人だった。
彼女は、すっかりハート形になった瞳を輝かせながら、前方を走る黒ローブの牛獣人に向かって、野太い声を張り上げる。
「アナタの頭に生えた、白くて大きくて逞しく屹立するお角に一目惚れしちゃいましたぁっ! 一緒にお茶しましょうよおおお!」
「い、いや! 角を褒めてくれるのは嬉しいが、何か言い方が卑猥だから止めてくれぬかぁぁぁッ?」
「あら、意外とウブなのねええん! でも、その無表情でクールなお顔とのギャップも萌えますうううう!」
「い、いや! 無表情なのは、この顔が覆め――あ、いや……」
「ていうかぁ、もう卑猥でも結構ですうううう! どうせお茶した後は、どこかの逢引宿にしけこんで、朝までシッポリ激しく陸み合うんですからぁああああ!」
「そ、そういうの間に合ってるから、大丈夫ぅぅぅぅぅっ!」
ギャレマスは、悲鳴の様な絶叫を上げると、必死で脚を動かし、さらにスピードを上げる。
だが、持久力と脚力に定評のある種族である女ミノタウロスとの差はなかなか広がらなかった。
(く……頭の角を隠せぬ故、人間族に化ける事は出来ぬからと、有角族である牛獣人に変装した事が完全に裏目に出てしまったか……!)
と、ギャレマスは走りながら臍を噛むが、もう遅い。
たまたま往来ですれ違った女ミノタウロスに、自分の角を見られてしまったのが運の尽きであった。
(というか、牛獣人族が角に性的魅力を感じる習性を持つ事など、知らなんだ……)
「あ~ん、もうたまらなぁい! その立派なお角、ペロペロさせてええええッ!」
「ひ、ひええええええええ!」
考え事をしている間に、女ミノタウロスとの距離が縮んでいた事に気付き、背中に悪寒が走るのを感じながら、慌ててスピードを上げるギャレマス。
(く……こんな大通りでなければ、サッサと飛んで逃げてしまえるのに……!)
思わず、そんな事が頭を過ぎるが、こんなに人の目の多い大通りで翼を広げては、苦労してミノタウロスに変装して街に潜入している意味が無くなる。
ミノタウロスに翼は生えない。
――だが、だからといって、魔族独自の技である呪術を用いて女ミノタウロスを撃退するわけにもいかない。そんな事をしたら、この町に魔族が紛れ込んでいる事がバレてしまう……!
だから、ひたすら人混みを掻き分けて、脱兎の如き勢いで逃げ続けねばならないのだ。
魔王なのに。
「お、おのれえええええっ!」
ギャレマスは、自分の運や星回りの悪さを呪うように咆哮すると、背中越しに発情真っ盛りの追跡者の気配を感じて身震いしつつ、さらに踏み出す脚を速めるのだった――。
◆ ◆ ◆ ◆
一方、その頃――。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
西街路の外れでは、ローブ姿のスウィッシュが、息を切らして走っていた。
「もう……少し目を離した隙に、勝手にどこ行っちゃったんだろ、サリア様……!」
アヴァーシ周囲の情報を集める為、スウィッシュが道沿いの店で聞き込みをしている間、疲れた様子のサリアを道沿いに置かれたベンチで待たせていたのだが、戻ってみると彼女の姿が消えていたのだ。
その為、スウィッシュは青ざめた顔でキョロキョロと周囲を見回しながら、サリアの小柄な姿を探し回っていたのだが、大きめの帽子を被った赤髪の少女の姿は、どこにも無かった。
「どうしよう……もしも迷子になってたら、こんなに人の多い中から探し出す事なんてできないよ……」
不安げな表情を浮かべて途方に暮れるスウィッシュ。
と、彼女は、ハッとした表情を浮かべると、口元を押さえた。
「迷子ならまだいいけど……ひょ、ひょっとして、柄の悪い連中に攫われてしまったりとか……っ?」
スウィッシュは、青ざめるを通り越して雪のように真っ白な顔色になると、慌てた様子で再び走り出す。
今までずっと、専ら王宮や城の中で暮らしてきたサリアには、生来の素直な性格も相俟って、他人に対する警戒心や疑心が薄いきらいがある。
そんなサリアがひとりになったタイミングで、悪意を持った輩が親し気に声をかけてきたりしたら……人を疑う事を知らない彼女は、いとも簡単についていってしまうだろう。
もしも、ひょんな拍子にサリアが帽子を脱がされて、その頭に生えた二本の小さな角を見られ、彼女が魔族だという事が分かってしまったら、かなり困った事になる事は確実だった。
――いや、そんな事以前に……
「サリア様の身に、何かあったら……あたしはもう……!」
ただの臣下である自分に対して、屈託の無い無邪気な笑みを向けてくれるサリアの顔を思い出したスウィッシュは、胸が締め付けられる思いに駆られながら、
「――サリア様! どこですかー! サリア様ぁ~ッ!」
臆面もなく声を張り上げ、かけがえのない主……いや、親友の姿を探して疾駆するのだった。




