魔王と主人とお約束
「へ、陛下……。本当に申し訳ございません……」
壁に無数の細かい穴が穿たれ、惨憺たる有様となった部屋を出ながら、ローブで覆った顔を真っ赤にしたスウィッシュが抑えた声で、前を歩くギャレマスの背中に向かって謝罪した。
「あられもない姿を見られてしまって、つい我を忘れてしまったとはいえ、よりにもよって陛下に向かって氷華大乱舞魔術を放ってしまうなんて……」
「あ……いや……気にするな」
半人族お手製の、牛の生革で拵えた牛面を被り、ミノタウロスに扮したギャレマスは、ゆっくりと階段を下りながら背後を振り返ると、平静を装ってスウィッシュに答える。
「余を誰だと思っておる? 泣く子も黙る“雷王”イラ・ギャレマスだぞ。あの程度の雹の嵐など、食らったところで屁でも無いわ。はっはっはっ」
胸を張って高笑いするが、実は牛の仮面の中では思わず顔を顰めていたギャレマス。
喋る度に、先ほどの氷華大乱舞魔術の雹片が当たった箇所がズキズキと痛む。ローブに覆われて見えないが、多分体中のあちこちに真っ赤な痣が出来ているに違いない……。
――とはいえ、素直に「痛い」などと漏らしてしまっては、スウィッシュがますます責任を感じてしまう……そう考えたギャレマスは、痛みを堪えて虚勢を張る。
「そ……そうですか? でも……申し訳ございません、陛下……」
彼が虚勢を張った甲斐もあって、安堵したスウィッシュの顔色が幾分か良くなった。
と、一番後ろを歩くサリアが、スウィッシュの背中をちょんちょんとつつく。
「え……?」
「ねえスーちゃん、もう部屋を出たから、“陛下”はダメだよー」
「あ……そうですね」
サリアの言葉にハッとしたスウィッシュは、小さく頷いた。
と、その時、
「おお、ミノタウロスの旦那、おはよう! いい朝だな」
階段の下から、威勢のいい胴間声がギャレマスに向かってかけられた。
「お、おお、おはよう、主人よ」
不意にかけられた声に心中で驚きながらも、平静を装って挨拶を返す。
幸い、宿の主人は彼の態度に疑念を抱くような事は無く、人懐っこい笑顔を浮かべながらギャレマスの背後の二人を見上げる。
「お連れさんたちもおはよう! よく眠れたかい?」
「あ……おはようございます……」
「お、おはよー! うん、ぐっすり眠れたよ~!」
主人の朗らかな声にわずかに顔を強張らせつつ、ぺこりと頭を下げるスウィッシュとサリア。
ふたりの答えを聞いた主人は、「おう! そりゃあ良かった!」と頷くと、つつとギャレマスの傍に寄り、ふたりには聞こえないくらいの声で囁きかけてきた。
「まあ……アンタはちいとお疲れかもしれねえけどな……うひひ」
「な、何の事だ、主人よ……?」
主人のいやらしげな笑みに、思わず頬を引き攣らせながら、ギャレマスは訊き返す。
「うっひっひ! しらばっくれてもムダだぜ」
主人はさも愉快気に肩を上下させながら、ギャレマスの背中をバンバンと叩く。そして、彼の肩を抱くように腕を回すと、横目でスウィッシュとサリアの方を盗み見ながら、小さな声で言葉を継ぐ。
「……朝方のすげえ揺れ。あれは、アンタらの仕業だろ?」
「う……!」
主人の言葉に、ギャレマスは内心でギクリとする。
「あ……す、すまぬ。朝早くから大きな音を出して、迷惑をかけたか……?」
「あーいやいや! 気にするな」
てっきり注意されてしまうと思って謝ったギャレマスだったが、意外にも主人は首を横に振った。
そして、さらにニヤニヤ笑いを募らせながら、ギャレマスの牛面の耳に口を寄せて、こっそりと囁く。
「大方……目覚めの一発でハッスルマッスルしてたんだろ、ウシシ」
「ふぁ、ファッ?」
主人の言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げるギャレマス。
そんな彼の狼狽も無視して、主人は更に言葉を継ぐ。
「いやー、さすがミノタウロスだねぇ。ボロいとはいえ、アレの動きでウチの建物をあんなに揺らすとは、ものすげえパワーだわ! ……ひょっとして、ベッドもぶっ壊れちまったか?」
「あ……い、いや……」
感心しきりの主人の様子に戸惑いながら、ギャレマスは小さく首を振った。
「べ……ベッドは無事なのだが……す、少し壁が……その、すまぬ……」
「あー、そのくらいなら別にいいや! どうせいつもは使わねえ部屋だしな!」
申し訳なさげに頭を下げるギャレマスの肩を不躾に叩きながら、豪快に笑い飛ばす。
そして、ウンウンとしきりに首を振りながら、興味深げに言った。
「……いや、それにしても面白ぇなあ。ミノタウロスは、壁を使ってハッスルするのか」
「あ? え? い、いや、違うって!」
主人に、とんでもない勘違いをされている事を思い出したギャレマスが、慌てて声を上げる。
「そうではない! よ……儂らは、そんな破廉恥な事をしていた訳では――」
「いいっていいって! 種族は違えど、同じ男だろ? 分かってるってよ!」
「……って、“ハレンチ”って……? い、一体、先ほどから何をコソコソと話してるんですか、へ……ご主人様!」
「ねえ、おと……ご主人さまー、“はれんち”って何て意味なんですか?」
「あ……い、いや……」
怪訝そうな表情を浮かべて尋ねてきたスウィッシュとサリアに対する返答に苦慮し、しどろもどろになるギャレマス。
――と、宿屋の主人が、ふと何かを思い出した様子でポンと手を叩いた。
「……おっと! そういや、うっかり言うのを忘れてたわ」
「え? な、何をだ?」
「いや……宿屋の主人が、男女連れだって泊まったお客にかけなきゃいけない“お約束”ってヤツだよ」
「お……お馴染みの、挨拶……?」
「そうそう」
宿屋の主人は小さく頷くと、ゴホンとひとつ咳払いをして、表情を引き締めてギャレマスの牛面を見上げた。
そして、先ほどまでとは打って変わった真面目な口調でギャレマスに呼びかける。
「お客様――」
「な、何だ? 急に改まって……」
突然口調を改めた主人の様子に嫌な予感を覚えつつ、ギャレマスは問い返す。
そんな彼をじっと見つめながら、主人は言葉を継いだ。
「――夕べ……じゃなかった、今朝はお楽しみでしたね……ぷぷっ!」
「だ――」
自分で言った“お約束”に耐え切れずに噴き出した主人を前に、ギャレマスは思わず絶叫する。
「だぁかぁらぁ……そうじゃないと言うにぃぃぃぃっ!」




