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梅雨が明け、うだるような暑さでアスファルトの路面が揺らめく夏の日のことだった。
「神名フタバさん! 僕と、付き合ってください!」
土曜の昼下がり、部活を終えて帰りのバスを待つフタバの前に突然現れたその男は、道行く人々が振り返るほどの声を張り上げそんなことを言い放った。一瞬呆気に取られたフタバだったが、すぐさま彼に胡散臭げな目を向ける。
着ている制服を見るに、フタバと同じ高校らしい。校章を付けていないから学年は判らないけれど、多分、同じ学年じゃない。フタバよりも頭半分以上は大きいから年上に見える。三年生にこんな人がいただろうかと彼女は内心首を傾げた。何となく見覚えがあるような気はするけれど、少なくとも、『知人』ではない。
フタバが通うのは何か部活に所属していないといけない学校で、彼女は一応美術部に籍を置いていた。ギリギリ五人の部員は全員女子で、ものすごく地味な集団だから他の部との交流もない。だから、少なくとも、部活関連でフタバのことを知ったということはないだろう。
委員会、でもない。図書委員のメンバーは、全員把握している。
(完全に、『知らないヒト』よね)
微かに目を眇めて見つめるフタバに、満面の笑みを浮かべた彼は「どう?」というように軽く頭を傾けた。
屈託なく笑う顔立ちは割と整っていて、好感は持てる――けど。
「お断りします」
フタバはにべもなく期待に満ち満ちた彼の視線を一蹴した。フイと道路に顔を戻した拍子に、腰まで届く三つ編みが猫の尾っぽのように揺れる。
「ええぇ」
彼はわざとらしく見えるほどにガクリと肩を落とし、情けない声を出した。
「何でぇ?」
そんなふうにされると、年上には見えない。
「絶対、ダメ?」
軽く頭を傾け微妙に上目遣いで訊いてくる彼の頭上には垂れた耳が見える気がする。
あざとく憐れを誘うその姿に、フタバは若干揺れ気味な心の天秤を指で押さえた。
「そういうのに割いてる時間はないので」
フタバの答えに、一瞬――ほんの一瞬、彼は頬を歪めた。まるで、何かがチクリと指先にでも刺さったかのように。
「?」
フタバは眉をひそめかけたが、そうするより先に彼の顔にまた笑顔が戻る。
「じゃあさ、今日だけ。今日だけでも、ダメ? 夕飯の時間までには帰すから」
必死に食い下がってくるその様は、まるで、漂う水草にさえもすがろうとしている溺れる者のようだ。
(なんでそんなに……)
言葉どころか、多分、挨拶を交わしたことすらないはずだというのに、何をそこまで必死になるのか。
フタバはもう一度まじまじと彼の顔を見てみた。
(やっぱり、見覚えはある気がするけど)
彼女は内心首をひねる。
一介の高校生に過ぎないフタバの生活圏は、家と学校しかない。
家ではもちろん、校内でも関わりを持ってもいないのに、彼を見ていると何となく、そう――
(懐かしい……?)
どうしてそう思うのか判らないけれど、フタバは、頭ではなく胸の奥深くでそんなふうに感じていた。
(でも、じゃあ、どこで会ったんだろう)
考えてみても、行動範囲の狭いフタバにはさっぱり心当たりが見つけられない。
ほとんど睨みつけるようにして見つめるフタバの前で、彼はパンと両手を合わせて深々と腰を折る。
「お願いします!」
バス停に並ぶ人たちが、何事だろうと視線を向けてきた。
「ちょっと、やめてよ!」
わたわたと両手を振りつつ訴えても、彼の頭は上がらない。どころか、いっそう下がってもはやほぼ土下座だ。
「頼む、一生の、お願い!」
フタバはグッと奥歯を噛み締める。
「……名前は?」
ボソリと問うた彼女のその声で、彼がパッと顔を上げた。
「名前は、なんていうのよ」
繰り返したフタバに、彼はヒマワリの花が一気に花開いたような笑顔になる。
「ヨウ、だよ。ヨウって、呼んで」
図らずもその笑顔に気を許しかけ、フタバはムッと眉間にしわを寄せた。