第1章 魔の海域 5
(やれやれ。。。)
シェールは眼前に迫る大波を見て、少し焦っていた。
「さて、どうしたものか。。。」
余裕はないけれど、そんな言葉が口に出た。
「ほぉ? 他の者は皆意識を手放したというのに、お前はまだか?」
赤い目を細め、女は不気味な笑みを浮かべ、その右腕を髪で隠している右眼の前にかざした。よく見ると、その爪も血のように赤い。
「ヤバっ!!」
シェールは女に見えない様に後ろに回した右手に急いで真空を作り、女がいる方へと腕を振り上げ投げた。
その真空は球体のまま徐々に大きくなり、直径1メートルほどとなった頃、女の足元の海を物凄い勢いで突き抜けた。
それにより女はバランスを崩し、それまでの間に左手で作っていた真空を女の上に放り上げた。
「流星群!!」
放り上げた真空と、大波を突き抜けていった真空は小さく分裂し、そしてそのまま女と大波に向かって勢いよく降り注いだ。
足元を崩され、バランスを失っていた女は、それをまともに喰らってしまった。
「ギャーーー!!!」
悲鳴を上げた女は、全身に傷を負いながらも体を起こして反撃しようとしていた。
(これは。。。 全力でいかなきゃ、やられる。。な。。。)
シェールはそう感じた。
「我が精霊、ここへ。。。」
シェールは波の音に消え入るような小声で呟くと、ほんの少しの間はあったが、シェールの左後ろに白銀の光が現れた。
「これはこれは・・。厄介な状況よの。」
白銀の発光体は呟いた。シェールは女から視線を逸らさず苦笑した。
「わるいな、ちょっと余裕無くなってね。」
「で? 我は何をすれば良いのかのう?」
「あいつは俺が相手するから、船を頼む。」
「承知。」
発光体はフワフワと浮かびながら船に近づき、そしてその光で船を包み始めた。
「それは逃さぬ!!」
女は光で包まれた船がこの海域から離脱し始めたことを見て、止めようとシェールから視線を逸らした。
その隙をシェールは狙っていた。すかさず右手首のブレスレットを長い鞭に変え、女の左足首に巻き付けた。そして、そのまま引き倒した。
「きゃあ!」
今までの威圧するような声色ではなく、女性らしく叫んでそのまま体制を崩した。だが、体制を崩しても海中に沈もうとはしない。どうやら簡易な結界を張っているようだ。
シェールは再度鞭を引っ張り、体制を立て直そうとしている女を引き倒した。
「おのれ!!!」
女は怒りに満ちた、その赤き左眼を見開き、顔半分を覆っている髪をかき上げた。その右眼は瞑っているが、徐々に目を開こうとしている。どうやら、急に見開いて光に目を痛めないようにしている様だった。
女の右眼は徐々に開いていく。左眼と同じ様に赤い。だが。。。
(普通(の瞳)じゃない!)
徐々に開かれていく瞼の下から現れる眼球。それは左眼と同じく血のような色なのだが、瞳には幾何学的な模様が描かれていた。その模様は魔法陣のように見える。
(ダメだ! あの目を見ちゃダメだ!! あの目を開かせてちゃダメだ!!!)
そう直感した。
シェールはまだ女の足に絡まっている鞭に力を入れて引き寄せ、女の体制を崩した。
バランスを崩した女は倒れた衝撃で両目を閉じたものの、すぐに反撃するために上半身を起こしてシェールの方に向き直った。
シェールは両手で鞭を力一杯引き寄せて女の体制を再度崩した。そして、相手を威圧するために左二の腕にある腕輪を短剣に変え、その瞳に引き込まれないように自身の両目を閉じたまま引き寄せた女に向け、風の力を借りて跳躍した。
それは、一瞬だった。
女は足に絡まったままの鞭からシェールの行動を予測していたのだろう。思っていた以上に素早く体制を整え、前髪を掻き上げながらシェールに向かって飛び込んできた。
それを知らず、シェールは威嚇のための短剣を逆手に持ち、ブレないように左手を添えた。
そして、相手の位置を確認すると目を閉じたまま目測で跳躍をした。
その瞬間、二人は交差した。
女が怒りのままにシェールに向かって飛び込んだが、予測以上に早くシェールが動いた。しかも、自分に向かって突進してくる上に、その手は短剣を握っている。右眼は完全に開いているが、相手が目を閉じているため効き目がなく、女は正面衝突を避けるため、左方向へ体をひねった。
だが、間に合わなかった。
シェールは右手で逆手に持った短剣がブレないように左手を添えていたが、得体の知れぬ「圧」を感じた。目を閉じているため、それは相手が突進してくる風圧だとすぐには感じ取れなかった。だが、周りの風の動きは、これは「敵」だと言っている。このままだと、正面からぶつかると教えてくれている。
(ぶつかったとしても、この剣ならある程度は大丈夫だよね?)
シェールは思っていた。今、自分の右手にある短剣は、もともと魔の物にしか効果が出ないように設定されている。だから、人身を傷つけることはない筈だった。
(だけど、あの女とぶつかるのは嫌だな。。。)
シェールはちょっと苦笑しながら、左手を振って体を左方向へ捻った。接近してきているだろう女の赤い瞳の魔法陣に囚われたくなかったので、目はまだ閉じたままだ。
そして、ぶつかると思われる瞬間、シェールは更に風を利用して跳躍した。
だが、間に合わなかった。
タイミングがどこかで少しずつずれていた。女が体を左に捻った瞬間と、シェールが跳躍した瞬間が重なった。そのスピードから、ましてやシェールは目を閉じているために両者とも避けようがなく、人の身ならば危害を与えられないように設定されている短剣が、女の見開いた右眼を捕えてしまったのだ。
「ギャアァァ~~~!!!」
(え?!)
本来、人には危害を加えられないように設定している短剣なのだ。だから、たとえ短剣が当たったとしても傷ひとつ付けられない筈なのだ。
だが、相手は断末魔のような叫びを上げた。
シェールは恐る恐る、目を開いた。
荒れ狂う波の上で、女は両手で顔を抑えて悶えている。
シェールは風に護られて宙に浮いているため、荒れ狂う波の影響を受けてはいないが、その様はおぞましい光景だった。
女の右眼から、血が噴き出していた。赤い、というより、赤黒い血だ。
(え?! 俺、そんなに深く刺した感覚なんてなかったけど?)
確かに、短剣が当たったのはほんの一瞬の事で、大きな怪我になる筈はなかった。ましてや人には危害を与えられない設定がされている剣だ。
(まさか、あの女、魔の物?)
シェールは女を注視した。女の周りに噴き出した赤黒い血が、靄のよう辺りを包み始めていた。
(いや、あの女の「気」は、間違いなく「人」のものだ。)
女はゆっくりと後方に倒れていった。女の周りにあった結界はなく、このままでは荒れ狂ったままの海中に飲み込まれることになるだろう。
シェールは助けるべきか迷った。今までの行動をみると、自分にとっては「敵」になるだろう。だけど、このまま放っておく事が出来ようか。。。
その一瞬の迷いが、判断を鈍らせた。
女の体が、倒れながらゆっくりとシェールの方を向く。気を失っているのだろう。両眼は瞑っていた。筈だった。
スローモーションのように、女の両眼がうっすらと開いていく。左眼は先に見たとおり、同じく赤い瞳だ。だが、右眼が。。。
「何だ? あれは!!」
シェールは思わず叫んだ。その右眼は、シェールの短剣に切られた筈の右眼は、もはや白目も魔方陣もなく全体的に真っ黒、いや黒に近い赤い色だけの眼に変わっている。
「まさか、元凶は、あの眼から吹き出したあの『靄』か!!」
シェールは気付いた。身構えようとしたが、遅かった。
女の右眼が見開いたと同時に、その赤黒い『靄』は一瞬で収束し、女が海中にその身を自ら沈めた瞬間、収縮された靄は爆発し、もの凄い勢いでシェールに襲いかかってきた。
海中に身を沈めた女は、その爆発の影響は受けていない。海中にまで高温の爆風は届かないからだ。
だが、シェールは一瞬の迷いが判断の遅れを招いてしまった。
風の助けを得て結界を張ろうとした。だが、爆発の影響が到達するのが早すぎて間に合わず、もろにくらってしまった。
「ぐぅぅ。。!!」
シェールは耐えようとした。完全な結界は間に合わなかったが、少しなら結界は作れた。いつもなら、ここから結界を組み直して思うとおりの大きさに構築出来る筈だった。だが、今回はあまりも巨大すぎた。爆風と、その勢いでさらに大きくなった波とで、吹き飛ばされてしまった。
「ぅわぁー!!!」
次の瞬間、シェールの体は海中に沈められた。ここなら爆風は来ない。高熱で焼かれる心配もない。
だが、荒れ狂う海の中である。どちらが海上か、海底かわからない。
風の助けを得ようにも、海中であるからこそ届かない。
空気を作ろうにも、海中に酸素はあまりない。
(しまった。。。 息が。。。)
シェールは自分の体の周りに、薄い空気の層は作れたものの、それでは酸素が足りなかった。しかも、どうやら海底に向かって沈んでいるらしく、いきなり水圧がかかったみたいで、耳鳴りと頭痛がしはじめた。
(俺、ここでやらなきゃならないことがあるのに。。。)
徐々にシェールの意識が遠のいていく。
(俺、このままもう終わっちゃうのかな。。。)
シェールは無意識に手を伸ばした。そうすれば何かが変わるかもしれない。そう思って手を伸ばした。だが、そこに何かある訳でもなかった。
体はどんどん海中深く沈んでいく。
周りが段々と暗くなっていき、耳鳴りも、頭痛もひどくなっている。
ふと、シェールはその伸ばした指先を見つめた。淡い小さな光が漂っている。
(ひか。。。り?)
ほんの小さな淡い光は、段々と近付いて来、やがてシェールを優しく包み込んだ。
海底に沈んでいくのが止まったみたいだった。
そして、その淡い光に包まれたら、呼吸も少しずつ楽に出来るようになってきた。
頭痛や耳鳴りも、少しずつ改善されていくようだ。
シェールは安堵し、気が緩んだのか意識が薄れ始めた。