第1章 魔の海域 2
「うん、今日も絶好調!」
海原を走るように進む、帆船の一番高い場所。マストの上で、遠くを見渡しながら若い船乗りが大らかに伸びをしている。
海上の天気は上々。心地よい風が帆船を進ませている。順調な航海だった。
「おぉ~い、シェールよ!お前、またそこに居るのか~?」
マストの下の方から、若い船乗りにベテランらしい船乗りが大声で話しかける。
「ここ、気持ち良いっスよ~? 一緒にどうっスか~?」
「シェール」と呼ばれた若い船乗りは、屈託のない笑顔で返事を返すものの、ベテランらしい船乗りは肩をすくめて「勘弁してくれ」と言いながらその場を離れた。
帆船のマストの上なのだ。相当に高い上、風が吹けば落ちる危険性もある。もちろん、命綱は欠かせない。それでも展望台のある場所までが精一杯なのだが、この若い船乗りはそれ以上高いてっぺんに居るのだ。登るのも一苦労だが、それよりも降りる方が怖く感じ、足がすくむ。
「ほんっと、気持ち良い~。」
シェールは両腕を広げて伸びをしながら空を見上げる。
「風は穏やか、波も良好。この分なら何事も無く、無事にこの航海が終わるっかな。」
シェールは気楽に言った。だが、彼を取り巻く風は、少し怪しげに彼の周りの空気を舞い上げる。
「そっか。。。 やっぱ一筋縄じゃいかないっか。・・・まぁ、それも仕方ないっかな~? 任務も完了してないもんな~。」
シェールは腕を組んで少し考えるそぶりを見せた後、今は考えたところで自分の力ではどうしようもない事だと開き直ってマストから飛び降りた。
他の船乗り達は「相変わらずだ」という視線を向けている。
シェールは風を受けて脹らんだ帆を、滑り台のように次から次へと飛び移りながら滑り降り、デッキに近づいてくると手首につけている腕輪を鞭のように形を変え、それをマストに固定して回転しながら降り立った。
「お前のその腕輪、ほんと便利だな。」
「最初に飛び降りたのを見た時は、マジで肝が冷えたぜ。」
「わるい、わるい。」
シェールは屈託のない笑顔で、他の船乗り達に言った。
シェールは今年成人を迎え、17歳になる。彼にとって、今回は成人して初めての仕事であり、初めての航海だった。慣れないながらも甲板での作業、荷物の整理等、必要な知識や作業を身に付け、また立ち寄った各港での見慣れない景色や光景も新鮮で、出会った人々との交流から、様々な事を学び、知識を得ていった。
それから、彼には他の者達とは違う特別な能力を持っていた。先ほどマストの頂上から飛び降りる時にも遣った、風を読み、まるで風を味方にし、操っているように思えるほどの能力だ。また、風を読む能力に優れているだけでなく、風の力を借りて物を持ち上げたり、風向きを調整して船を進めたり、また風が運んでくる“香り”で危険を察知したりする事が出来た。
「俺は、風の祝福を受けているみたいだから(笑)」
シェールはそう言って、また屈託のない笑顔で笑う。
「風の祝福」と言ってはいるが、もし、その能力を王家の者が有していたのなら、間違いなく聖獣または聖霊が守護する「王」たる資質を備えているとことを意味する。
だが、シェールはそんな事、微塵も思っていなかった。
爽快な風が、彼の周りを駆け抜けていく。シェールもその風を受け、気持ち良さそうに前方を見ていた。
「そろそろだな。。。?」
年老いた船乗りが言った。
「例の海域のことっすか?」
「あぁ。。。」
年老いた船乗りの声は沈んでいる。この海域を通り、生きて帰った者は居ないと言われている場所なのだ。生きた心地がしないのも当然である。
『この海域を通った者は皆、人魚の餌となる』
そんな伝承が残っているからだ
「んだども、『人魚』なんて、本当に居んのかのぉ・・?」
シェールは、話を聞きながら手を休めずに作業を続ける。
この海域で『人魚』に出会い、生きて帰ったものは居ないのだから、実際に『人魚』の姿を見た者は居ない。『人魚』に遭遇されたと思われる者達は、死ぬか、または生きて帰ってきたとしても、皆記憶が無かった。
だが、この海域を通り、何事もなく航海を終えた船がある事も事実だった。
シェールは確かに風向きを調整して船を進めたり、また風が運んでくる“香り”で危険を察知したりする事が出来る。しかし、いくら危険を察知するといっても、この海域を通ることは、実は内心穏やかではなかった。常に気を張ってはいるが、何が起こるか判らない。
今のところは順調であった。風も穏やかで、海面も波立ってはいない。順調すぎるほどだ。それが返って不気味に感じられていた。
「『人魚』かぁ・・。」
年若い船乗りが、ポツリと呟いた。
「なんだ? 人魚に会いてぇのか?(笑)」
他の船乗り達に茶化された。
「噂じゃその姿を見た途端に我を見失うほどの絶世の美女だとも言うぞ?」
「いやいや、魚の体におどろおどろしい顔をした、見ただけで気を失うような妖怪だとも聞いたぞ?」
「儂は、その海域で不明になった船乗りの幽霊だと聞いたぞ?」
話を聞くだけで、シェールは何だか寒気を覚えた。元々、この海域から誰も生きて帰った者が居ないと言われているのだから、どれもただの噂だとわかってはいる。
だが、誰も知らないから、噂だけが不気味さを増して伝えられているのだ。
それは頭ではわかっている。わかってはいるのだが、これから先、何が起こるか判らない不安がより不気味さを増し、皆意気消沈してしまった。
「『人魚』など、所詮心弱き者の作り話に過ぎぬ!!」
静寂を破る、金切り声に近い声がした。
皆、その声の主に注目する。声音、口調から、誰の言葉かは察しがついていた。アイルダシュだ。
相変わらずの派手な格好。剣を握る手とは思えないほどの華美な装飾品を身に着け、いつも一緒に行動している、ニヤついた4人組を引き連れて現れた。
船乗り達は皆、頭を垂れて跪いた。
「居もしない、妖しの生き物など、何を恐れる。」
アイルダシュの言葉に、ニヤついた4人組が輪をかけて嘲笑を始めた。
「そんなものを恐れるのは、お前達が弱いからだろ?」
「違うな、弱いではなく、弱っちいんだよ。」
「そりゃ仕方ないさ。こいつら、海の男の癖に海賊とまともに戦うことも出来ないし。」
「そうそう。それに、港じゃ陸に打ち上げられた魚以上に、なぁ~んにも出来ない腰抜けときた。」
アイルダシュの取り巻き達は、見下し、どこまでもあざ笑った。
彼らは自分達に逆らうことを許されないのを知った上での挑発だった。
海賊が襲ってきた時に、何もしない船乗りではなかった。彼らは勇敢に戦い、相手を決して殺すことなく捕縛していった。きちんと裁判にかけ、更生させることが目的だからだ。
だが、アイルダシュと取り巻き4人組は違った。海賊達を殺すことに快楽を得、殺さない船乗りを『殺せない』と見下した。
また、各港で陸に上がった船乗り達は、各地の情勢、海域の情報等、これから先の航海に必要な情報を得るため、酒場で仲間達と語り合った。久々に出会った仲間達だ。たまには羽目を外す事もあったが、決して酒に溺れることはしなかった。
だが、アイルダシュ達は領主を表敬訪問し、ありとあらゆる贅を尽くさせた。誰も逆らうことの出来ない状況にし、酒色におぼれたのだ。
アイルダシュ達は、それらが出来ない事を『弱っちい』だの『腰抜け』だのと嘲笑する。
航海開始からそうやって挑発し、その挑発にのってしまった者達を全て自分達の退屈凌ぎだと、遊び感覚で切り捨て、海に放り投げ見捨てていったのを皆知っている。
二ヤついた4人組はアイルダシュの護衛でもあるので、剣の腕もたつ。おまけにその後には王族であるアイルダシュがついているのだ。反論出来る訳がなかった。
「まぁた、お前らはダンマリか。海の男が聞いて呆れるぜ。」
「まぁまぁ、こいつらなぁ~んにも出来ない腰抜けだしな。言い返せる訳ないだろ。クックックッ。」
(聖獣を持たぬ王族のくせに。。。)
何処からか、アイルダシュを蔑む声が聞こえた。
「誰ぞ!!!」
アイルダシュが怒りの形相で声のした方へと振り返ったが、その方向には誰も居ず、ただ穏やかな海原が広がっているだけだった。
「おのれ。。。 よくも我を侮辱したな?」
アイルダシュの手が、口が、ワナワナと怒りに震えている。
「出て来い。姿を見せ、我を前にしてもう一度言ってみろ!!」
アイルダシュは、おおよそ実用性のない剣を抜き、声のする方を向いて奇声に似た声を上げた。
だが、そこには海原が広がるだけ・・。 もちろん、返事が返ってくる筈などなかった。