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シナプス交差点

作者: ストフィー

 ここはシナプス交差点。変わらぬ景色、変わらぬ匂い、変わらぬ風―――。風車(かざぐるま)がよく回る。交差点と名の付くとおり、この交差点からはそれぞれ4本の道が伸びている。

 しかし、交差点に立ってどの方向の道を見ても、最終的にどこへ辿り着くのかは分からない。道の途中までは視界に入るのだが、奥の方は(もや)がかかっていてよく見えないのだ。

 そんな交差点の中央に風車が1つポツンと立っており、どの方向から吹いてくるとも分からない風を受け、カラカラと小気味の良い音を立てて回っている。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 4つのうちの1つの道から老婆が歩いてきた。軽快ではないが、決して重くない足取りで歩みを進めると、5分と経たずに風車の地点まで辿り着く。ふぅ、と溜息をつくと老婆は今来た道を背にしてその場に座り込んだ。この場所の独特な景色を見、匂いを嗅ぎ、風を浴びると、老婆は過去のことを思い返し始めた。

 彼女が出発した地点は周りに住宅街があり、老若男女様々な声で賑わい活気づいた雰囲気があった。そこで最愛の夫と余生を満喫しようとしていたのだが、半年前に他界。以来、様々な声が響き渡るその街の中からひとつの音が消えた。それはあまりにも大きなもので、失って以降、彼女の人生は少しずつ色褪せていった。

 モノクロの余生を消費していた彼女だったが、そんな中、風のうわさで“とある交差点”の話を耳にした。街から遠く歩いたところに風車がぽつんと立ってある交差点があり、そこから続く道をさらに辿ると、待ち人に会えるというものだった。年の功もあり胡散臭さを無視することができないものであったが、これ以上失うもののない老婆にとっては、その胡散臭さに身を任せて人生に幕を下ろすのも悪くないと思えるだけの余裕があった。一休みしたら今来た道ではない、いずれかの方向へ歩きだすのだろう。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 老婆が交差点に着いてから、10分ほど経つと、老婆の正面の道から誰かが向かってくるのが見えた。初めは人の輪郭だけしか捉えられなかったが、交差点に近づくにつれ、その姿を確認することができた。

 どうやら若い男のようだ。彼は老婆の姿を目視すると、少しだけ動揺の色を見せたが、すぐに先ほどと同じ調子に戻った。男は風車の地点に辿り着くと、額の汗を拭い、老婆に声をかけた。


 「あなたはいつからここにいらっしゃるのですか」


 男が努めて優しい口調で尋ねると、老婆は柔和な表情を浮かべて、


 「ほんの10分ほど前ですよ」


 と答えた。


 そうですか、と相槌を打つと、男は先ほど来た道から見て左手にある道を見据えた。少し考えるような素振りを見せると、老婆の方に向き直った。


 「私はこれからこちらの道へ進みます。私の姿が見えなくなって間もなくしたら、私と同い年くらいの女性がここへやってくると思います。もしもその人から男の人が来なかったかと訊かれたら、来ましたとお答えください。そして、どちらの方向へ進んだかと訊かれたら、私が進んだ道ではなくその反対側の道へ行ったとお伝えください」


 それだけ言うと、若い男は老婆の右手の道へと消えていった。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 男が消えてから更に10分ほど経つと、また老婆の正面の道から人が近づいてくるのが見えた。どうやら若い女のようだ。先ほどの男が言っていた女性とはこの人のことだろうかと考えながら、老婆は女を見据えた。女は老婆の座っている地点に辿り着くと、切らしていた息を整えた。それからその様子を黙って見ている老婆に声をかけた。


 「あなたはいつからここにいらっしゃるのですか」


 既視感に似た感覚を覚えながらも、この場所なら誰だってする質問のひとつに過ぎないのだと、自分に言い聞かせながら、老婆は答えた。


 「ほんの20分ほど前ですよ」


 そうですか、と女は抑揚の無い声で納得すると、自分が来た道以外の3本の道をキョロキョロと見回し、続けて老婆に質問した。


 「あなたがここへ居る間に、私と同い年くらいの男性が来ませんでしたか」


 淡々とした口調で女が尋ねると、老婆は先ほど男に見せたような柔和な表情で答えた。


 「ええ、来ましたよ」


 その老婆の返事に間髪を入れずに、女は被せるように質問する。


 「その人はどちらの道へ行きましたか」


 老婆は少し考える素振りを見せた。確か先ほどの男は自分が進んだ道の反対側と伝えてくれと言っていた。この長い人生の中で小さな嘘もあまりついたことのない老婆は少し躊躇ったが、他人の事情に水を差す方が気兼ねすると思ったのか、男に言われたとおりの内容を伝えることにした。


 「あちらの道を辿っていかれましたよ」


 ありがとうございます、と頭を軽く下げると、女は老婆に言われたとおりの道へと進んでいった。女が消えたあともしばらくその場に座っていた老婆はやがて、さてと、と軽く呟いて重い腰を上げ、正面の道へと消えていった。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 老婆が交差点を去ってからまたしばらくの時間が経過した。その間、誰一人として交差点に現れるものは居ない。ぽつんと1本立っている風車が変わらぬ速度で回っているだけだ。

 周囲の靄のせいか、この交差点だけが他の場所とは隔離された空間であるような気がしてくる。何も変わらない。景色も匂いも風も―――。

 老婆が交差点を去ってからどれくらいが経った頃だろう。老婆が交差点へ向かってきた道から小さな女の子が歩いてきた。歳は8歳前後といったところだ。女の子は首に何かを提げている。どうやら指輪に紐を括り付けてペンダントのようなものにしているらしい。この年頃の女の子の装飾品にしては、随分と不相応な気がしてくる。

 女の子は風車の地点まで辿り着くと、はぁ、と大袈裟な溜息をつき、その場に腰を下ろした。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 女の子が交差点に辿り着いてからしばらく経つと、先ほど若い男が去っていった道から女が向かってくるのが見えた。どうやら若い男を追っていた女と同一人物のようだ。女は交差点に座っている女の子を見つけると、駆け足で彼女の元へと駆け付けた。


 「お嬢ちゃん、ここにいる間、私と同い年くらいの男の人を見ませんでしたか」


 女が努めて落ち着いた様子で尋ねると、女の子は、にかっ、と笑い、


 「見なかったよ。ところでお姉さん、このネックレスを知りませんか」


 と尋ね返しながら、首から下げている指輪を手で摘まんで、女の方へ少し浮かせた。女は少し考える素振りを見せると、微笑みながら答えた。


 「いいえ、知らないわ。でも、素敵なペンダントね。もしかして男の子からのプレゼントかしら」


 女の子は一瞬ぽかんと口を開けていたが、すぐに元の調子に戻り、


 「違うよ。気が付いたらね、持ってたの。でも、私こんなの買った覚えも貰った覚えもないんだ。だからこうして訊いてるの」


 と屈託ない表情で答えた。


 女の子は本当に何も知らないようだ。しかし、女はこの指輪に何か感じるものがあった。前に持っていたものと同じだとか、前から欲しいと思っていたものだとか、そういうものじゃない。何となく自分と縁があるような、そんな漠然とした感覚だった。


 「お嬢ちゃん、もしお嬢ちゃんが良ければ、私があなたの代わりにそのペンダントの持ち主を探してあげる。だから、そのペンダントを預かっても良いかしら」


 女の子は今度はいつもの調子に戻ることなく、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。それから十数秒後にようやく口を閉じると、にかっと笑って、


 「お願いしていいの。じゃあお願いする。はいっ」


 女の子は首からペンダントを外し、女に手渡した。ペンダントを受け取った女はそれを自分の首に掛けると、今度は女の子の顔をじっと見つめた。この子は自分の幼い頃によく似た顔立ちをしている。自分の昔の顔を克明に覚えているわけではないが、女はなんとなくそう感じた。


 「じゃあ私、お(うち)に帰る。必ず届けてね」


 女の子はそれだけ言うと、元来た道へと消えていった。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 風車は回り続ける。少しの変化も見せず、ただひたすらに回り続ける。

 ペンダントを受け取った女はしばらくの間、深呼吸を繰り返した。このペンダントは誰かの元へ届けなければならない。だけれど、その相手が誰なのか実のところ見当が付かない。

 風に乱れる髪をそっと抑えながら、女は考え続けた。そもそも、自分が追っている男は誰なのか。それさえも分かっていない。この交差点へ向かう途中でその男を見つけて、何となく気になって声を掛けた。しかし、男はこちらを軽く一瞥しただけで交差点の方へと消えてしまった。追いかけた方が良い気がする。そんな何の脈絡も無い思いでここまで辿ってきた。今はとにかくこのペンダントの持ち主を探そう。 そんな結論に至った女は、どの道へ行くともなくその場に腰を下ろし、黙ってその誰かを待つことにした。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 女が先ほど来た道を背にし、首から提げている指輪を指で持て余し気味に転がしていると、正面の道から誰かがやってくるのが見えた。興味の対象を指輪から人影に移した女は、黙ってその影を見つめた。段々近づくに連れ、輪郭がはっきりしてくる。女は息を呑んだ。それは女が知っている人物だった。知っているといってもギリギリ顔見知りと言えるかどうかの瀬戸際なのだが、確かに女が先ほどまで追っていた男のようだった。

 女はふと、男が自分を発見したらまた逃げられるのだろうか、と危惧したが、予想に反して男は交差点に到着するとどの道へも行かず、女の前で立ち止まった。男はそのまま女を見下ろすと、ふっ、と微かに笑って口を開いた。


 「正反対の道へ進んでも、結局はこうして出会ってしまうんですね」


 男のその言葉の意味がよくわからなかった女は、すぐさま男に問いかけた。


 「私は今の今までずっと、あなたの後を追ってきました。親切なお婆さんにあなたが辿った道を尋ねましたから。正反対の道とはどういうことでしょう」


 女の問いに男はすぐには答えなかった。男は黙って空を見上げると、鳥1羽飛んでいない虚空をじっと見据え、小さく息を吐いた。この交差点に辿り着いてから随分と時間が経ったように思えるが、実際はどのくらいの時間が経過したのだろう。

 そんな長く感じる時の中で、自分には何かやらなくてはならないことがあるような気がした。やらなくてはならないけれど、自分にとってはとても小さいこと。しかし、誰かにとってはとても大切なこと。何の根拠も無いが具体的すぎるイメージ。男はもう一度小さな息を吐くと、目の前の女を見据えた。


 「これも何かの縁ということですよ。ところであなたは変わったペンダントを身に着けているのですね」


 男にそう言われ、はっとした女は身に着けているペンダントを首から外し、男の方へ向けた。


 「先ほど小さな女の子から預かった物です。持ち主を探しているのですが、心当たりが?」


 女が少し興奮気味に尋ねると、男は小さく首を横に振った。


 「残念ながら心当たりはありません。ですが、なんとなく―――。本当になんとなくですが、それに縁があるような気がします。もしよろしければ、私に預けてもらってもよろしいでしょうか」


 女は少し考えた。人から預かった物を簡単に他人に渡してしまって良いものだろうか、と。しかし、そもそもこのペンダントは持ち主に渡すという任の元で女の子から預かったものだ。この男は“縁があるような気がする”と言っていた。ならば渡すべきでは―――。

 女はもう一度男の顔を見た。澄んだ瞳に柔和な表情をしている。優しくて頼れる印象だった。この人になら託しても良いかもしれない。そんな漠然とした想いを胸に抱きながら、女は手に持っているペンダントの紐を広げると、男の首へ掛けた。


 「よろしくお願いします。きっとこのペンダントは持ち主に会いたがっていると思うのです。その持ち主があなたなのかどうかは分かりませんが、ここから先はあなたにお任せします」


 女が礼儀正しく頭を下げると、男は背筋を伸ばし真摯な態度で、


 「ありがとうございます。私の次で持ち主が見つかるといいのですが」


 と、女に笑顔を向けた。


 「それでは、よろしくお願いします」


 と重ねてお願いすると、女も男へ笑顔を返し、自分が最初に交差点へ来た道へ向かって歩き出した。その様子を目で追いながら、男は何か思い立ったように女の背に声を掛けた。


 「今度は、あなたのような女性に私の方から何かお渡しできれば―――。そんなことが出来たら―――」


 女は一瞬だけ男の方を振り返ると、


 「素敵ですね」


 とだけ言葉を添えて、そのまま道の向こうへと消えていった。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 老婆がこの交差点に辿り着いてから、だいぶ時間が経過したはずなのに、この場の景色も匂いも風も何も変わらない。青空が広がり、独特な匂いがし、風向きも分からない風が心地良く吹いてくる。風車は相変わらず小気味の良い音を立てながら、いつもの調子で回り続けている。男は先ほどの女と別れてから色々なことを考えていた。

 仕事が忙しく長い間連勤が続いていた今日(こんにち)。ようやく休みを貰えたのは良いが、仕事ばかりの日々だったため、特に何かやりたいことも思いつかない。とりあえず外へ出てみよう。そんな軽い気持ちで外出し、オフィス街を離れてぼーっとしながら歩いていると、気づいたときには田舎道へと入っていた。360度をビルが覆う空間で日々を過ごしていた男にとって、その光景は新鮮で心が洗われるようだった。もっと入り込んでみたい。男の歩く速度が少しだけ速くなる。周りの風景に目移りしながら、男は奥へ奥へと進んでいった。

 男が歩き続けてどのくらいが経ったのだろう。先ほどまで鮮明に見えていた周囲の景色が靄で虚ろになっていた。目の前には1本の道。当然先は見えない。男はこの世界に自分以外の人間が居なくなってしまったような錯覚を覚えた。

 そんな感覚でその場に立っていたからだろう。後方から人の足音が聞こえた時は、思わず体が硬直してしまった。なんとか首だけを後ろに向けると、男と同い年くらいの女性がこちらへ向かってきていた。綺麗な人だな、と思った。じーっとその女性を見ていると、ふと目が合ってしまった。気恥ずかしくなった男はそのままその1本の道へと逃げてしまった。女性が自分の跡を追ってきている足音が聞こえたが、後ろを振り向かず、ただひたすらに歩き続けた。

 それから、その道を辿っていくと風車が回っている交差点に辿り着き、老婆と出会い、先ほどの女性とは反対の道へ進んだが、結局は出会ってしまい、その女性からこうしてペンダントを託された。

 男は1度だけ大きく深呼吸をすると、考えることをやめ、自分が交差点へ来た道を背にしてその場に腰を下ろした。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 男が女からペンダントを預かり、風車のある交差点に腰を下ろしてからしばらくの時間が経った頃、後方から誰かの足音が微かに聞こえた。男はゆっくりと腰を上げ、そちらの方を向いた。

 小さなシルエットがこちらへ向かって走ってくるのが見えた。どうやら子供のようだ。段々とはっきりその姿が見えるようになった。小さな男の子のようだ。

 男の子は交差点に辿り着くと、男の顔をじっと見ていたが、少しだけ視線下ろしていき、男が身に付けているペンダントを見据えた。


 「お兄ちゃん、かっこいいの付けてる!」


 男の子は目を輝かせながら、男に近寄って行った。男は男の子と同じ視線になるようその場にかがみ込むと、男の子に笑顔を向けた。


 「こんにちは。かっこいい……のかな。君、これに見覚えあるかな」


 男がペンダントを摘まんで男の子の方へ向けると、男の子は少し考える素振りを見せて、首を横に振った。


 「ううん、わかんないや。でも、それって指輪でしょ。指輪は指に付けるものなんだよ。首から提げるなんて、変なの」


 男の子のその言葉を聞いて、男ははっとした。このペンダントを先ほどの女性から譲り受けた時から、ペンダントとしてしか見ていなかったため、指輪に紐が括り付けられているという発想が無かったのだ。

 男はペンダントを首から外し、紐を解いた。そしてその指輪を食い入るように見つめた。確かに指輪だ。裏には誰かの名前が彫ってあるが、擦れてしまってよく分からない。男はもう一度男の子の方へ顔を向けると、感心しながら声を掛けた。


 「すごいよ、君。確かに指輪だ。よく気が付いたね」


 男がうんうん、と首を縦に振ると、男の子は不思議そうな顔をした。


 「指輪くらい誰でも知ってるよ、変なの」


 「そうだね、変だね」


 男があはは、と笑うと、男の子も釣られて笑った。


 「ところでお兄ちゃん、それ誰かにあげるの?」


 男の子が首を傾げながら訪ねると、男は首を横に振った。


 「残念だけど、お兄ちゃんが誰かにあげるわけじゃないんだ。これの持ち主を探していてね。その人に返してあげたいと思っているんだ」


 男はこれまでで一番の笑顔を男の子に向けた。仕事ばかりで作り笑顔しか出せないと思っていたが、子供の前でこんなにも笑えるんだと、自分で自分に感心した。

 男の子もそんな笑顔を向けられて嬉しくなったのか、少しはしゃぎ気味になった。


 「僕、探したい!無くした人はきっと困ってる。だから早く返してあげなくちゃ!」


 その言葉を聞いた男は、少し驚いた様子を見せた。自分がまだ子供だった頃、この子と同じように、困っている人が居たら見過ごせないタイプだった。

 そして、親切事となるとウキウキしてしまうのだった。今時にもこんな子が居るんだな、と少しだけ感動すると、男は話を切り出した。


 「じゃあ君に預けるよ。はい。その指輪も色々な人の手に渡ってきたから、そろそろ持ち主の元へ帰りたがってるはずなんだ。だから、君の次で本当の持ち主のところへ帰れると良いよね―――ってちょっと難しすぎたかな」

 

 「ううん。僕、背が低いけどもう6年生なんだ。だから大丈夫」


 何から何までそっくりだな、と男は思った。自分もこのくらいの時、背が低くてよく友達にからかわれてたっけ、と少し可笑しくなった男は、男の子の手をすくい、もう一方の手で男の子の掌に指輪を置いた。


 「じゃあもうお兄さんだ。だったら安心して預けられるかな。一人で大丈夫?」


 「もちろん!」


 男の子が大袈裟にガッツポーズを決めたので、男はすっと立ち上がると、同じポーズを取った。


 「男と男の約束だ」


 「うん、約束!」


 男の子が風車のある交差点へ腰かけると、男は元来た道へと引き返し、男の子の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

 男の子も男の姿が見えなくなるまで手を振った。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 男の子が交差点で1人になってから、だいぶ時間が経った。男の子は足をぶらぶらさせながら回りをキョロキョロと見渡している。誰も来る気配が無い。

 でも、先ほど男と男の約束を交わしたばかりだ。だから、頑張って人が来るのを待とう。そう自分に言い聞かせながら、男の子は手に持っている指輪に目を向けた。

 かっこいいなぁ、と呟きながら、男の子は指輪を掌で転がした。


 「ちょっと付けてみようかな。えっと指輪は……左手の左から2番目の指!」


 と独り言を口にしながら、男の子は自分の薬指へと指輪をはめた。


 「大きすぎて、すっかすかだ」


 どうやら小学生の指には大きすぎるらしく、指輪は男の子の薬指を出たり入ったりしていた。

 そんな調子で男の子が指輪で遊んでいると、正面の道から誰かが向かってくるのが見えた。男の子は誰か来た、と嬉しくなって立ち上がると、向かってくるその誰かをじっと見据えた。

 その人物は交差点へ辿り着き、目の前にいる男の子の前に立つと、柔和な表情でほくそ笑んだ。


 「あらあら、可愛らしい男の子だこと」


 そう言って男の子の頭を撫でているのは、この交差点に最初に辿り着いたあの老婆のようだった。あれからだいぶ歩いただろうに、その顔に疲れの色はほとんどなく、相も変わらない柔和な表情を浮かべている。

 老婆は男の子の頭を撫でるのをやめると、その場へそっと腰を下ろした。

 その様子を見ていた男の子は、老婆の横に腰を下ろすと、


 「おばあちゃん、この指輪知らない?」


 と、薬指につけている指輪を老婆の方へ向けた。


 「あら、その指輪は」


 老婆は言葉を切ると、男の子が指に付けている指輪をじっと見据えた。


 「坊や、その指輪、見せてもらっても良いかしら」


 老婆がそう声を掛けると、男の子は指から指輪を外し、はいっ、と老婆へ手渡した。

 それを受け取った老婆はしみじみと眺め、やがて裏側に目をやった。そして、驚いたような顔をした老婆は、男の子の方を向き、質問をした。


 「坊や、あなたのお名前を訊いてもよろしいかしら」


 尋ねられた男の子は、一瞬ぽかんとした様子だったが、すぐに自分の名前を老婆へ伝えた。

 それを聞いた老婆は、指輪をしっかりと握りしめ、ほんの少しだけ枯れた涙を流した。こんなことってあるのかしら、とひとり呟くと、老婆はもう一度男の子の方へ向き直り、少し難しい話をし始めた。


 「よくわからないかもしれないけれど、年寄りの戯言だと思って聞いてちょうだい。あなたがもう少し大きくなった時、あなたの前に1人の女の子が現れるわ。その子はね、おせっかいでわがままで、おまけにドジなところがあってね、あなたはきっと鬱陶しいと思ってしまう時があると思うわ。でもね、その子はあなたを心の底から愛してくれるわ。楽しい時、悲しい時、嬉しい時、辛い時。どんな時でもあなたの側で一緒になって笑ったり、泣いたり、怒ったり……そういうところが鬱陶しかったのかもしれないけれど」


 老婆が涙をハンカチで拭きながら、話をしていると、男の子が心配そうに老婆の顔を覗き込んだ。


 「おばあちゃん、泣いてるの?悲しいの?」


 男の子のその言葉を聞いて、老婆の口元が緩んだ。


 「いいえ、これは嬉しい時に出る涙よ。まったく、昔から鈍感なのね……そうだわ」


 老婆は涙を拭き終わると、何かを思い立ったように立ち上がり、男の子を正面から見据えた。


 「坊や、良かったらその指輪、坊やの手で私の指にしてもらえないかしら」


 小学6年生ともなると、こういった意図を解釈できるのか、それともただなんとなくなのかは分からないが、男の子はすくっ、と立ち上がり、老婆の方を向くと、うんっ、と屈託の無い笑顔向けて、老婆の薬指へ指輪をはめ始めた。

 その様子を見てたまりかねた老婆は、せっかく拭き終えた瞼から先ほど以上に涙を零し、自分の指を見つめた。


 「まさか、2度もプロポーズされるなんて思わなかったわ」


 その言葉の意味を男の子が理解できたのかは分からない。それでも男の子は茶々を入れることなく、黙って笑顔を返した。


 「その指輪、おばあちゃんのだったんだね。だって、おばあちゃんの指にぴったりだもん」


 そういって男の子がもう一度にかっと笑うと、老婆は何かを思い立ったように周りを見渡した。


 「坊やからこんなに素敵な贈り物をいただいたんだもの、私からも何かお返しがしたいわ」


 老婆が何かなかったかと服の上から手探りで探し始めたが、これといって渡せるようなものは持っていなかった。

 その様子を見ていた男の子は、


 「僕、あれがいい!」


 と言って、老婆の後ろの方を指さした。

 老婆が男の子の指の先を辿っていくと、そこには風車があった。この場所に来てからずっと変わらぬ調子で回っている風車。特に気に留めたことはないけれど、こうした経験をすると、この風車にも何か意味があるんじゃないかと思えた。

 老婆は風車をそっと手に取ると、男の子へ手渡した。


 「はい、どうぞ。この風車みたいに元気な子に育ってね」


 「うん、ありがとう。そうだ!」


 男の子は老婆に礼を言うと、何かを思い立ったように老婆の手を引いた。


 「おばあちゃん、あっちの方から来たよね。じゃあ僕とおんなじだ。一緒に帰ろ」


 そう男の子に言われた老婆は、今度は涙は流さず、胸いっぱいの笑顔で返事をした。


 「ええ、一緒に帰りましょう。久しぶりのエスコートに甘えちゃおうかしら」


 老婆と男の子は仲良く手を繋ぐと、交差点を出て靄の中へと消えていった。


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男の子と別れたあと、老婆は自宅へ帰り、今日の出来事を思い返していた。話半分で出向いたはずが、こんなに素敵なことが起きるなんて。長生きしてみるものね、と嬉しそうにお茶を注いでいると、どこからか聞き覚えのある音が聞こえてきた。


 カラカラ―――。カラカラ―――。


 驚いた老婆は、音のする方へと足を運んだ。音は2階の方からする、夫が生前使っていた書斎の方からだ。

 2階へ駆けあがり、書斎へ入った老婆は耳を澄ませた。どうやら窓辺の方からだ。本棚の脇を通り抜け、机と椅子の後方にある窓から顔を出すと、そこには1本の風車が刺してあった。その風車はボロボロで、羽もほとんどが朽ちてしまっている。それでも風車は残った羽だけで一生懸命に回っていた。

 老婆は堪らず風車を手にし、胸元へ添えて泣きながら笑みを浮かべた。


 「最期まで大切に持っていてくれたのね。ありがとう」


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 ここはシナプス交差点。変わらぬ景色、変わらぬ匂い、変わらぬ風―――。交差点と名の付くとおり、この交差点からはそれぞれ4本の道が伸びている。

 しかし、交差点に立ってどの方向の道を見ても、最終的にどこへ辿り着くのかは分からない。道の途中までは視界に入るのだが、奥の方は(もや)がかかっていてよく見えないのだ。

 ここはシナプス交差点。変わらぬ景色、変わらぬ匂い、変わらぬ風―――。風車は―――もう無い。

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[良い点] 引き込まれる雰囲気 過去回想やその時分の性格の説明がスッキリしている [気になる点] 若者時代の男女が交差点から別々の道に進んだシーンがどういう意図だったのか(こちらの頭不足で申し訳ないで…
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