まあ今だって、ちっとも良好とは言えないが。
レナエラは返答に迷った。
ソルブデンの人間であること、そして軍人であることが、すでに知られている。
「今日の昼に、シナの木通りで話したとき」アルトマン准尉が続けた。「言葉のイントネーションが、この辺りとは少し違った。それにこのマルシュタットで、帝国軍支給のブーツを単なるファッションで身につける人間も、そうはいない」
レナエラはなにも言えずに、ただ彼の発する言葉を聞いていた。自分の甘さに嫌気がさすのと同時に、昼に話したことを覚えていてくれて、少し嬉しくなる。
しかし今はそんなときではない。帝国軍人が(操られていたとはいえ)首相を暗殺したとなれば、両国の関係は大騒ぎどころでは済まなくなるだろう。
「ええと、私は――」
なにか言わなければと思う。しかし適切な言葉が思い浮かばない。
「大丈夫。君が不安に感じていることはわかっている」アルトマン准尉は笑顔で言う。「帝国軍人の犯行という話が広まると、これはいささか厄介だ。幸いまだ、僕とバルテル少尉以外で君の素性に突っ込んで疑念を抱いている者はいない。しかし、この国の調査機関が議会の指示を受けてきみを徹底的に調べ上げるだろう。そしてこの事実を突き止めるまで、そう時間はかからないだろう」
「そして、やつらは都合のいいシナリオをでっちあげる」バルテル少尉が言う。「おまえが操られていたか、操られていないかにかかわらず、今回の事件を有効に活用する手段を考えるだろう。帝国軍人による首相暗殺。誤解を恐れずに言えば、こんなにわかりやすく、おいしい展開はない。『首相の死を無駄にするな』と声高に叫ぶ次期総裁の脂汗滲む顔が目に浮かぶ。当然のごとく両国の関係は最悪になる。まあ今だって、ちっとも良好とは言えないが」
レナエラはこの二人の言い回しが少し気にかかった。
国の中枢――つまり連邦議会や総司令部、参謀などに対して、少なからず敵対するような態度だった。そこには単なる士官たちの愚痴以上のものが伺えた。
「とにかくだ」バルテル少尉が続ける。「うちの部隊はなんていうか、普通じゃない。異質だ。極めてへんてこりんと言ってもいい。そしてうちの少佐は訳あって今地方にいるが、まあまあやばい情報を掴んじまった。それは控えめに言って、とても込み入ってる。ただ結論として、おまえをここから逃すことになっている。いいな?」
レナエラはぽかんと口を開けていた。彼の話はなにも具体的なことを含んでいなかった。まあまあやばい情報? わけがわからない。
「詳しいことはそのときが来たら話す。今は僕たちを信じてほしい」
アルトマン准尉が自然にレナエラの右手を握る。大きな彼の手の温度が伝わる。
その後、一人の看護師が食事を運んでくる。アルトマン准尉は一時的に枷を取り外し、食事が終わるとそれをまたはめなおした。「申し訳ないけど、あやしまれないように逃げるぎりぎりまでつけておこう」と彼は言った。レナエラは彼に従った。
看護師が出て言ったあと、レナエラは二人に名前を告げる。直接、帝国軍人であることも白状した。もっとも「元軍人」と言ってしまったほうが正しいかもしれない。そしてこれまでの経緯を、彼らに伝えた。
旧イオニク公国とソルブデン帝国が、数年前からつながりがあり、たびたび会合を行っていたこと。イオニクの樹海にある屋敷へ、要人たちの護衛のために赴いたこと。そこで、意識を失ってしまったこと。ステンノーという少女にであったということ。彼女は魔族であること。
結界を破り、ステンノーと一緒に共和国領土へと入ったこと。そしてこのマルシュタットまで訪れたこと。ステンノーとは中央広場で、いつのまにかはぐれてしまったこと。
「ステンノー・ゴーゴン。その子は昼にレナエラさんが連れていた、金髪の女の子だね?」とアルトマン准尉は言う。
「はい。その子は今回の首相暗殺のことを『お仕事』と言っていて、私はそれを見届けなければなりませんでした。今思えば、どうしてそのことに使命感を持っていたのか、うまく説明できません。ステンノーは誰かにその『お仕事』を言いつけられていたようなのですが、それもうまく思い出せないんです」
レナエラは正直に話した。
「それ自体が、あんたにかけられていた魔法の効果なのかもしれないな」バルテル少尉が言った。「いずれにせよそこが説明できないとなると、やはりあんたはこの国で不利な立場に置かれる。おそらくは『自らの意思でマルシュタットに赴いた』ということになる。細かい言い分は言い訳として見做され、ひと言も記録されない」
アルトマン准尉が足を組み、鼻から軽く息を吐いた。
「ステンノーに仕事を指示したのは、メデューサという魔族だろう。レーマンもそう言っていた。実際に首相を殺したのは、蛇の使い魔だった――レナエラさんは、聞き覚えは?」
メデューサ。
レナエラはその名前を頭の中で反復した。実際に口に出してもみた。しかし、その名前に該当する映像が立ち上がってくることはなさそうだった。
そして一定時間以上その名前を検索すると、蛇がやってくる。
黒い大蛇だ。動悸が始まり、身体がまだ冷たくなっていく。
「ごめんなさい――」とレナエラは浅く息をしながら言う。
「大丈夫。もしかしたら、記憶に鍵をかけるような特殊な魔法なのかも」とアルトマン准尉は言う。
レナエラは目が眩んで、とっさに顔をしかめた。准尉たちがなにか声を上げているが、うまく聞き取れない。ずっと遠くのほうで、その声はただのノイズとしてしか再生されない。
前にはまた大きな池が広がっていた。
夢で見ていた、たくさんの蛇がいる池だ。
〈レナエラは今どこにいますか? ステンノーは会いたいです〉
ステンノーの声が聞こえた。
すぐとなりを見ても、彼女の姿はない。その声は夢で聞いたときよりもさらに鮮明に響いた。しかしその声は掠れて、とても傷ついていた。
「ステンノーちゃん!」レナエラは叫んだ。「ステンノーちゃん、どこ? どうしてそんなに傷ついているの? ステンノーちゃん!」
その声は少しずつ遠のいていく。
レナエラは気づいた。これはステンノーの魔力だ。
私の入力感度が回復して、彼女の魔力を感じ取っているのだ。
レナエラは心を研ぎ澄ませて、場所を探る。
魔力の波に乗って訴えている彼女の叫びに、耳をすませる。
暗く細い道。傷ついた身体を引きずって歩いている。
首都だ。あの子はまだ、マルシュタットにいる。
「レナエラさん?」
アルトマン准尉が不思議そうな顔をして覗き込む。
「今行く」レナエラは言う。「ステンノーちゃんが苦しんでるんです。私、すぐに行かなくちゃ。お願いします。ここから出して欲しい」
准尉は腕時計を見る。夜の十時を回っている。
「そろそろ警備も薄くなるころだ――きみには、ステンノーの場所がわかるの?」
「はい。入力感度が高いおかげで、魔力の流れを読み取れます」
「おいラルフ。厄介なことになりそうだ」
バルテル少尉が苦々しい声を出した。
彼は静かに警戒心を纏い、病室の入り口を見ている。
軍の制服を着た男が二人、入ってくるところだった。
「いや失礼」ひょろり痩せた背の高い男が、右手を上げて言う。「魔導軍参謀のネーポムク中佐だ。こちらは同じく参謀のトビアス少佐。よろしく」
ネーポムクと名乗った痩せ形の男は、海苔のような口ひげを生やし、短い黒髪は油でテカテカに光っていた。年は四十手前くらいだろうか。
彼がまとめて紹介したトビアス少佐は、対照的にずんぐりした体型の男だった。ネーポムク中佐より若そうだったが、細く縮れた髪の毛はかなり薄くなってきている。四角い縁取りの眼鏡は、絶妙に似合っていなかった。アサルトライフル型の魔導銃を肩にかけている。
アルトマン准尉とバルテル少尉は敬礼し、それぞれ所属を言い、名乗った。ネーポムク中佐は「ああ、例の部隊か」と口元で嘲笑した。
それから中佐はかつかつと靴を鳴らして、レナエラのベッドの脇まで行く。准尉たちが張り詰めた空気を作っているのが、レナエラにもわかった。
「連邦議会の判断で、今夜からこの参考人の女の面倒は、我々参謀が見ることになった」ネーポムク中佐は朗々と告げる。「首相殺害の重要な人物だ。正しい判断だな。そこの二名。ここまでの監視ご苦労だった。任を解く」
「しかし中佐――」
アルトマン准尉がなにか言いかけたが、バルテル少尉が肩を抑えて制した。
「なにかね?」ネーポムク中佐が准尉を睨みつける。
「いえ、なんでもありません」准尉は顔を伏せる。
ネーポムク中佐が退屈そうな表情で笑い、口ひげをいじる。
「クンツェンドルフ中将はこんなわけのわからない部隊を創隊なすって、まったくお遊びが過ぎるな。まあ、それが結局自分の首を絞めたわけだが――トビアス少佐。二人を正門まで丁重にお送りしろ」




