無能な蝙蝠ちゃんは、なにもしていない。
争いのない世界がやってくる。
それは人類の、古くからの希望であり夢だ。さあ、皆武器を捨て、かわりに色とりどりの花を掲げよう。それを愛する者へと、心を込めて贈ろう。その世界では容易なことだ。皆が皆を認め合い、理解し、肩を抱き合う世界で暮らそう。
「でもその前に、邪魔をする人間はきれいに処理しておかないといけないわ」ジャーナリストは歌うように言う。「フロイントはその足がかりだった。我々の党の票田としてうまく機能するはずの場所。手の込んだ小細工までしたのだから、そうなってもらわないと困るわ。でも愚かな村長ね。軍部へ駆け込むなんて、失望よ。ああ、あのあたりは私の担当なのよ。まったく余計な仕事を増やしてくれるわね」
デニスが目を閉じた。彼の豊かな黒いひげがまるで燃え盛るように広がった。少なくとも、フィルツ大尉にはそのように見えた。
「つまりあなたは」大尉は声のトーンを二つくらい下げた。「あの村には魔族が現れるとわかっていた。そういうこと?」
「ええ。命がけの取材だったわ」もはや彼女は、まるでこれまでの人生でいちばん輝かしい部分を語るように饒舌だった。「もっとも私は幹部に言われたとおりのことをしただけ。つまり、あの村であの日事件が起こる。それはおおむね、我々には追い風となる事件だ。それをしっかりカメラに収めろ。そんなようなことを言われた。それだけよ」
「白銀の党が魔族を使役して、村を襲ったというの?」
「さてどうかしら? 証拠はないでしょ? それに本当のところ、そこまで私は知らない。だって、あくまで私はフリージャーナリストだもの」
そしてその女はどっかりと椅子に座りなおし、大きな口でけらけらと笑った。
彼女は党の中心たる人物ではないにせよ、やはり白銀の党とは関係があった。そしてあのフロイントの事件は、決して偶然が重なって発生したことではなかったのだ。それは、人為的に引き起こされたのだった。
問題はまだ残る。つまり、白銀の党が実際に、魔族を直接使役できるのかどうか、ということだ。できるかもしれないし、できないかもしれない。しかしできなかったとしても、魔族襲撃についての情報を入手できるパイプを持っている。あるいは襲撃を行う力を持った組織がどこかにあり、白銀の党はそことつながっている。それは確実だった。
「それで、お前はどう思っている」デニスが口を開いた。
「どう思っているって?」ジャーナリストが首をかしげる。
「そのままの意味だ。フロイントでは村中の人間が操られて、混乱に陥った。二人は命を落とした。それについてどう思っているんだ」
ジャーナリストはため息をついた。「どうもこうも、さっきも言ったでしょ? フロイントは足がかりだった。それ以上の意味はない。もちろん人命は尊いわ。でも仕方がない。どちらにせよ私には関係ない」
デニスは飛び跳ねるように立ち上がった。
椅子が音を立てて後ろに倒れた。彼は顔に血を上らせて、荒く息をしている。太いしわが眉間に刻まれている。反射的にジャーナリストも椅子から立ち上がり、転げそうになりながら後ずさりする。
彼は大股で一気に間合いを詰めて、彼女の胸ぐらを掴む。
ジャーナリストは小動物が押しつぶされたような、痛々しい声をあげた。デニスは気にせず、そのまま背後の壁に押し付ける。
「デニス! 落ち着いて!」フィルツ大尉が叫ぶ。
「貴様がどういう信条で、どういう教義で生きようが、文句は言わん」デニスは唸るように言う。「だが、おまえはあの事件に関係しているんだ。責任から逃れようとするな。この先おまえは一生、フロイントの村の悲劇を抱えて生きなければならないんだ。おれと一緒にな」
今にも殴りかかろうかという剣幕のデニスを、フィルツ大尉は壁から引き離そうとした。しかし彼の巨大な身体は岩のように動かない。
「デニス、一度離れるのよ。冷静になる必要がある」
大尉がさらに訴えかけるが、彼の耳には届いていないようだった。
「あ、あなたが、殺したくせに」ジャーナリストが細くなった喉から声を絞り出す。「私がどう考えようと、その事実は、変わらない。あなたが殺した。二人の罪のない、男女を」
デニスがさらに彼女の喉を絞り上げる。言葉にならない呻きが部屋に轟く。
「ああそのとおりだ。おれが殺した。だがおれはその事実から目を背けたことは一度もない。おれはなかったことにはしない。一生、あの二人の最期の叫び声を聞きながら生きていく。そして残された子供の、冷たくなった目に睨まれながら、生きていく。それが責任だ」
ジャーナリストは必死に口を曲げて、笑った。
「拗れたマゾヒズムね。軍人はそうでもしなきゃ、やっていけないのかしら? ああでも、私の記憶が正しければ、あなたはもう退役したんだっけ?」
女は目をめいいっぱい剥き出して、吐き捨てた。
「ねえ、どうして辞めちゃったの?」
デニスがいつのまにか腰のホルスターから魔導銃を外していた。
とても慣れた手つきでそれを構え、女の口に突っ込む。そして瞬時に魔力が充填される。ジャーナリストは言葉を失い、驚愕の眼差しを向け、必死に訴えかける。
弾けるような、ぱんという痛烈な音が、部屋に響き渡った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
マルシュタットの北側の外れに、もう使われていない小型の砦がある。
それは堡塁と呼ばれ、石を組み上げて作られた小さな民家くらいの大きさの砦だった。作られたのは何百年も昔のことで、今はほったらかしになっており、中は土埃で荒れ果てている。近くには深い森があるだけで、人間はほとんど寄り付かないところだった。
「世論は予想どおり大混乱。ここから人間がどんな愚劣な行動にでるか、とっても楽しみだわ」
女が嬉々とした表情で笑う。
紫色の髪を後ろでまとめ、肩に流している。おなじような色のゆったりしたローブを纏い、砦の内側の壁に寄りかかっていた。
「間違いなく、世界は動いていく。自動的に」そばに立っていた、ほっそりとした長身の女が言う。「我々はただ傍観するだけ。それよりもマリアだ。未だエリクシルを追っている。例の魔女に狙いを定めているが、まだもうひとりの居場所はつかめていないようだ。どうする、メデューサ」
金属を擦るような、奇妙な響きかたのする声を持っていた。真っ黒のローブを着て、頭はフードですっぽりと覆われてしまっている。
「正直望み薄ね」とメデューサはため息をついて、目を細める。「どうせあの子も石を帝国側に渡す気など、微塵もないでしょうし。まったく、とっくにくたばってる男にこだわり続けるなんて、人間くさいわね。反吐が出る」
「だが、我々の封印を解いた恩はある」長身の女性が言う。「ただそれを反映させるかどうかは、選択できるわけだ」
「少し懸念があるとしたら、例の似非政党の党首役のことだけよ。いなくなっても大丈夫だと思うかしら? エウリュアレ」
エウリュアレは口を大きく広げ、にたりと笑う。
「すでにあの党の教義は隅々まで浸透し、国の約半分はじゅうぶんに熱せられている。党首が消えても、どこかで自動的に火がつき、勝手に走り出すだろう。今回の事件で、あるいはもうすでに、どこかで暴動が始まっているかもしれない――」
そのとき、砦の外で大きな羽音が聞こえる。
入口から一陣の冷たい風が吹き込み、彼女らのローブをはためかせた。土埃が舞い上がり、二人は目を細める。
「マリアの利用価値が見つからなくなっちゃったわね。あの蝙蝠と同じように」とメデューサは言う。
外の羽音が消え、風も唐突に止んだ。
そしてぱたぱたという無邪気な足音が、砦の中に駆け込んでくる。
「メデューサ! エウリュアレ!」
現れたのは少女だった。腰までとどきそうな金色の髪を揺らして、顔いっぱいに笑みを湛えている。その身丈にあったダッフルコートに、羊毛のブーツを履いていた。少しだけ息を切らしている。
「ステンノーは先ほど仕事を終えました!」少女は嬉しそうに報告する。「予定どおりの時間に、コルネリウス首相を殺しました。たくさんの人の前で、ステンドグラスの破片が刺さり死にました。念のためにそのあと喉元を喰いちぎっておいたので、大丈夫です。絶対に死んでいます。レナエラを置いてきてしまったので、ステンノーはすぐ迎えに行かなければいけません」
「その必要はないわ」メデューサは退屈そうな顔でため息をつく。「もう、まったくどこから突っ込めばいいのかしら。ばかすぎて嫌になる」
それからメデューサはすたすたとステンノーのそばまで歩いていく。まるで道端で出会った隣人に挨拶にでも行くような、日常的な所作だった。
そして右手を軽く振りかぶると、おもむろにステンノーの左肩を貫いた。
コートが避け、肉が避け、背中からは血まみれの右手が飛び出す。
びちゃびちゃと血が地面に落ちる。
あまりに突然のことで、ステンノーの顔はまだメデューサを見て笑っている。「ひぇ」という滑稽な音が、彼女の喉から漏れる。笑顔がだんだんと驚愕に変わり、やがて恐怖の滲んだ、青ざめた顔になる。
「ステンノー。あなたと話していると、イライラしてたまらない。悪いけど視界から消えてもらえる? お姉ちゃん」
そう言ってから、メデューサは勢いよく右手を抜いた。
たくさんの赤い血が同時に吹き出す。彼女のローブに音を立てて返り血が飛ぶ。
ステンノーは後ろによろめき、そのまま尻餅をついた。とっさにその小さな手で傷口を抑える。
「――メデューサ?」と、ステンノーは掠れた声で名前を呼ぶ。
メデューサは血で濡れた右手を見て、顔をしかめる。
「あなたが殺したのは偽物。共和国の召喚術師かだれかが作ったダミーよ。ああ、でも安心してちょうだい。あの帝国人の女がちゃんと仕事をしてくれた。蛇を一匹忍ばせておいたら、近くに術者本人の反応があったわ。あとは私の蛇ちゃんを通して周りを探すだけ。ホテルの三階にて、本物発見。入力感度が高いのもこういうときには役に立つわね」
「――お仕事は、失敗ですか?」とステンノーは言う。
「いいえ、大成功」メデューサは大きく口を広げて笑った。「予定どおり首相が死んだ。国中大混乱。目的は果たされた。素晴らしいわ。でもそれは全部私の蛇ちゃんのおかげ。無能な蝙蝠ちゃんは、なにもしていない」
メデューサの後ろではエウリュアレが、空中の一点を見つめて立っている。糸を張り巡らし、餌がかかるのをじっと待ち続けている蜘蛛のように、微動だにしなかった。
ステンノーは数秒間、じっと二人の魔族を見つめていた。砦の中には彼女の浅い息遣いだけが響いている。
「ステンノーは、レナエラを迎えに行きます」
傷を負った少女は渾身の力で地面を蹴り、砦の外へと逃げ出す。
「哀れな子」とメデューサは退屈そうにつぶやく。
そして首都マルシュタットの北の空を、一匹の巨大な蝙蝠は飛んでいく。彼女はよろめきながら、必死に羽ばたいている。ときおり赤い血を滴らせて。
空にはどんよりとした厚い雲がかかり、今にも雨が降り出しそうだった。




