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愛の逃避行には、まずしっかり食べて、体力をつけないと。

「トルーシュヴィルは、首都から近いがゆえに、いくらかではありますが恩恵を受けているほうの農村です。しかしながら、お世辞にもあまり裕福な村とは言えませんね。大豆と大麦の耕作を主たる生業(なりわい)としていて、南のほうではいくらか果物も栽培しておりますが、総じてもともと肥沃(ひよく)な土地ではありません。多くの村民は、マルシュタットへ出稼ぎに」


 ゲイラーは車を進めながら、村の経済状況を簡単に説明する。

 実際のところそれは、説明されるまでもないほどありふれた話だった。そして、今まさにそうしているように、トルーシュヴィルの村をぐるりと眺めてしまえば、あらかたは想像できることだった。


「リストに示された住所のとおりであれば、このあたりだ」

 テオは車の窓からあたりを見回しながら言う。


 トルシューヴィルの中心部に向かうにつれ、だんだんと人通りが増えてくる。

 茶色の屋根の家が身を寄せ始め、中心部では広場を囲むようにして隣接していた。民家のほかに、簡素な飲食店や農作物の直売所のようなものも立ち並んでいる。建物は一様にして飾り気がなく、ぱっと見ただけでは店が開いているのかどうか判別がつかなかったが、ある飲食店からはちょうど痩せ細った老婆がひとり出てきたところだった。


 村で唯一舗装されている広場には、灰色の石材が丸く敷き詰められていた。

 ほんの十数メートルの円形の広場だ。そこでは子供たちが五人ほど走り回り、なにかの遊びに興じている。皆薄い布切れのような服で、膝小僧が丸出しになったズボンを履いている。昼間とはいえ外はずいぶん冷え込んでいるため、膝は茹で上がったように赤くなっていた。しかし彼らはそんなことを気にもとめずに、大きな声を出し、白い息を吐いて、はしゃいでいる。


 ジルはずっと子供たちのことを見つめていた。テオは、その目から感情を読み取ることはできなかった。ただただ、できるだけ長い時間をかけて、丁寧に視界に入れようとしている。マルタはジルの髪を()くようにそっと撫でた。


 真ん中には小さな噴水がある。今は木材の板で(ふた)がされており、使われていなかった。ただそれは、夏場だってちゃんと噴水として機能しているか怪しいように見える。ところどころ(こけ)がこびりついて、蓋にはびっしりとカビが生えている。杖をついた老人がひとり、呆然と空を見上げながら腰かけていた。

 広場の先、少し小高い丘になったところには教会が建っている。白い壁で装飾はなく、背もあまり高くない。首都のケルニア大聖堂とは比較にならないくらい、質素な造りだった。


 見たところ、この村の住人たちは、北の水辺に魔族が現れたことなど知るよしもないようだった。今回目撃情報があったケルピーは水棲(すいせい)の魔族だというから、すぐに襲撃されるとは考えにくい。しかしそれにしてもいくぶん牧歌的すぎると、テオは思う。


「すまないゲイラーさん、さっきの飲食店のようだ」

 一度通り過ぎた小さな飲食店が、リストに記載のある住所と一致する。


 店の前まで車を寄せ、停車する。

 曇りガラスがはめられた小さな入り口のドアには、開店中であることを示す札がかけられている。古ぼけた木のプレートに手書きだったが、とても丁寧な文字だった。よく観察してみるとその店は簡素ながらも手入れが行き届いているようで、ガラス窓には汚れひとつないし、こじんまりとした植え込みも、きちんと切りそろえられている。


「私は、車内でお待ちしています。大所帯では、かえって不都合もあるでしょう」

 ゲイラーはそう言って、葉巻に火をつけた。


 テオとシャントルイユ姉妹は車から降り、店のベルを鳴らす。


 店内はこじんまりとしていたが、想像したよりも明るかった。少しくすんだ焦げ茶色の家具はウォルナット材だろうか。いずれにせよ安っぽい素材で、かなり使い込まれていた。カウンターが数席と、テーブルが三つ。テーブル席にはひとつずつ、小さなペンダントライトがぶら下がっている。オレンジ色の暖かい色合いだ。ほかに来店客はいないようだ。


「いらっしゃい」

 店の奥から、(ほが)らかな男の声が聞こえた。


 現れたのは、まさしく探していた特徴を持っている男だった。

 ミディアムショートの白髪の髪に、ちょうど年齢も二十代半ばごろ。ただ、写真で見たような鋭い目つきではなかった。白髪という特徴がなければ、まったくの別人と言われてもわからなかったかもしれない。おまけに、こじゃれた角度で整えられたあごひげを持っている。


 テオはにこやかに笑顔を作る。

「ええと――あんたがユージーン――」


「おいおい、こりゃあ驚いた」

 その白髪の男はテオを遮って、目をまん丸にして言う。淡いブルーの瞳をしている。


「朝起きたときから、今日はなんかいいことがあるような気がしたんだ」男はテオをすっかり無視し、マルタを見ながら、朗々と語り出した。「そりゃあ毎日僕は幸せさ。今朝だって、モーニングセットに出したソーセージの火加減は完璧だった。ぱりっぱりに焼けてね。みんな美味しいと言ってくれたよ。でもそんなことは比較にならないくらい、僕は今幸福の絶頂(ぜっちょう)にいる。ああ、マドモアゼル。なんて美しい銀色だ。きみは天使か、もしくは女神様なんだろうね? 今ごろ、天国は大騒ぎだろう。たぶん、捜索願が出ていると思うね」

 

 そして男はジルもちらりと見て、ウインクする。右手の指を二本立てる。

「それも、二人分の」


 ウインクの瞬間、なにかがその目から飛び出たような気さえする。ジルは身体を縮めて、そのなにかを()ける。


「あー、すまないが」テオは肩をすくめる。「おれたちは用があってここを訪ねたんだ。あんたは――」


「なんだね。僕は今忙しいんだよ。見てわからない? 二人の愛の逃亡者を、天界の追っ手から(かく)わなければ」

 男はぶっきらぼうに言う。

 愛の逃亡者? 意味不明だ。


「なんていうかな。とにかく、二人を匿う必要はないんだ。捜索願も、おれが知るかぎりでていない。残念だけどね。とりあえず、話を――」

 テオの声などもう届いていないようだ。

 白髪の男はカウンターから躍り出て、マルタの両手を握り、ぐいと顔を近づけている。


「ちょ、ちょっと――」

 マルタは顔を背けながら後ずさりする。眉をひん曲げて、露骨に嫌そうだ。


「とにかくまずは食事だね。うん。愛の逃避行(とうひこう)には、まずしっかり食べて、体力をつけないと。そうだな、ブラックペッパーの効いたポテトフライにチョリソー。オニオンスープには揚げたてのクルトンを乗せよう。飲み物はケルシュ? ピルスナー? そうだ赤ワインもある。ソルブデン産だが、あいにく僕は美味しいものなら国は問わないのでね――」


 そう言いながら、いちばん近くのテーブル席にマルタとジルを座らせた。テオには、一瞥(いちべつ)もくれない。


 テオは両手を上げて、ため息をつく。

「――うん。おれは、カウンターでいいよ」

「ああ、できればそうしてくれ」白髪の男はすばやく言う。


 彼はてきぱきとグラスを(マルタとジルのぶんだけ)用意し、着ていたシャツの上からデニム生地のエプロンをつける。厨房に戻ったかと思うと、すぐに香ばしいにおいが広がる。


「思っていたのと、ずいぶん違う人物みたいだ。ユージーン・エイヴリングという男は。あんな軟派野郎だなんて、リストにはどこにも書いていなかった」

 テオはカウンターに腰をかけ、脚を組んだ。


「少佐、どうにかしてくださいよ」

 マルタが小声で言う。


「そうしたいところだが、彼にはおれの言葉が聞こえないようだ」

「このままだと、私、あの人の股間(こかん)を蹴り飛ばしそうです。ああいう人だめなんですよ。本気で」

「ああいう人が平気なほうが珍しいだろ」

「私の場合はもう、尋常じゃなく無理なんです! この前も諜報活動中に、夜道で男に()()()()()ので、衝動で刺し殺しちゃったくらいなんです」


 テオは目をしばたかせて、明るい茶色の髪をかりかりと掻く。

「それは困るな」


 白髪の男がふんふんと鼻歌を鳴らしながら、ポテトフライを運んできた。

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