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今ごろは書類整理に追われて残業ですよ。

 スズは、ザイフリート少佐の許可を得て、明日の朝早くにラインハーフェンへ向かうことを決めた。


 向こうには、寝泊りするあてもある。前日に特別準備をすることはない。簡単な荷作りで済んでしまうだろう。そしてマルシュタットからラインハーフェンへ向かう道のりは、スズにはもうずいぶん通い慣れたものだ。


 仕事が片付いたのは夜の七時を過ぎたころだった。スズはなんとなくまっすぐ帰る気になれず、バルバラの店へ寄って、少しだけビールを飲むことにした。


 店はいつもどおり活気があり、外からでも賑やかな笑い声が聞こえる。ベルを鳴らして中に入ると、ソーセージが香ばしく焼けるにおいがした。ビールの芳醇(ほうじゅん)な麦の香りと、おそらく明るいうちから飲み始めているであろう、男たちの汗のにおいも混じっている。そのうち何人かがスズを認めると、軽く手をあげて挨拶をする。スズも会釈(えしゃく)を返す。


 狭い店内を、バルバラはひとりで注文をとったり、ビールを注いだりと、ずいぶん忙しそうにしている。それでも、来店したスズを見つけるなり「あら! スズちゃんお久しぶり! カウンターでいいかしら?」と、声をかけてくれる。


「バルバラ、お久しぶりです。(すみ)っこに座ってますね。手が空いたら、ビールください」


 前回はザイフリート少佐と訪れ、たしかずいぶん飲みすぎてしまい、迷惑をかけたのだった。酒というのは一度飲み過ぎると「もう二度と飲まない」と心の底から思うくせに、しばらく経つと、まるでなくてはならない飲み物のように感じてしまう。明日はまあまあ早いし、量は控えなければと、スズは思う。


 バルバラはほどなくして、ジョッキ一杯のビールとローストされたナッツの盛り合わせを運んできてくれた。


「あれ? 今日はひとりなのね。一緒にいた男前さんは?」

「彼は私の上司です。今ごろは書類整理に追われて残業ですよ。今日は、ひとりで飲みたい気分だったので」

「置いてきちゃったの? 図太い性格してるわね、スズちゃん」

 バルバラはカウンターの空いている席に寄りかかる。


「いずれにせよ彼が目を通さないといけない書類ばかりなんで、私が残っていても邪魔なんですよ――いただきますね」

 スズはジョッキを頭の高さに持ち上げて、ぐいっとひと口飲む。深い苦味が、心地よく喉を潤していく。


「また連れてきてよね。大麦が豊作のおかげで安いうちはいいけど、うちも口コミ広げていかないといつ潰れるかわかんないんだからさ。まあ、ゆっくりしていって」

 バルバラはニッコリと笑い、ほかの客に呼ばれてまたばたばたと店を回し始める。


 また連れてきたい。スズは思う。


 ザイフリート少佐もそうだし、まだあまり酒を飲み交わしたことのないフィルツ大尉も。バルテル少尉や、アルトマン准尉だって、きっとここで一緒に飲めたら、とても楽しいだろう。リフタジークとその部下たちも誘いたい。その場合はトマトジュースを持参してもらわなければならないかもしれない。いや、ウォッカと塩で「ブラッディ・メアリー」というカクテルになるらしいから、バルバラに頼んでメニューに加えてもらおうか。


 スズはローストされたカシューナッツを口に放り込む。ゆっくりと味わうように噛み砕く。食感を口の中で、めいいっぱい楽しむ。もうひと口ビールを飲む。ふーっと、天井に向かって息を吐く。


 なんとなく、この店に来れるのは今日で最後のような気がした。


 最初にこの店にふらりと訪れて、何気なくビールを一杯注文したその日から、もう三年以上が経っている。もうそろそろ付き合う人間の入れ替えどきだ。バルバラのことだから、たとえなにもかもを話してしまったとしても、きっとこれまでと同じように接してくれることだろう。だが、そういう問題でもない。下手をしてしまえば、被害を受けるのはバルバラであり、この店であり、顔なじみになっているこの店の何人かの常連客だ。皆の迷惑になるようなことには、したくはなかった。


 そしてスズは、ラインハーフェンに住んでいるリンのことを思う。


 明日の朝の列車に乗れば、正午を過ぎたころには村に到着できる。ラインハーフェンの駅からは十五分ほど歩き、小高い丘をひとつだけ越えたところに、緑色の屋根の家がある。とびらを開けると、ちょっぴり気の強そうな声が応答し、ゆっくりと車椅子(くるまいす)の車輪を回して、彼女は出迎えてくれる。私の顔を見ると、きっと満面の笑みを見せてくれる。


 そう思うと、スズは途端に彼女に会いたくなる。

 長く伸びた黒い髪は、私と似ている。リンが笑うたびに、そのさらりとした髪も揺れる。まっすぐに鼻筋が通っていて、意志の強そうな眉を持っている。

 少し大きめの耳のかたち、薄めの(くちびる)、白い頬、白い首筋、華奢な体躯。彼女の持っているものすべてに、彼女を構成している要素ひとつひとつに、私は触りたい。その温度を感じとり、私の温度を彼女に感じてもらいたい。


 スズはもう一杯だけ頼んでから、今日は家路につくことに決める。

 一時間ほど飲んだところで、代金とチップをカウンターに置き、スズは店を後にした。


 夜の街はかなり冷える。

 凍えるほどの風が吹きすさみ、スズの頰をひりりと逆なでて、すぐに路地裏に逃げ込んでゆく。吐く息が白く浮んでは、すぐに消える。スズは大きなつばの三角帽子を深めにかぶりなおす。厚手のローブをぐいっと引っ張って、身体に密着させる。


 官舎へ向かうに連れて道が狭くなり、道ゆく人々もだんだんと少なくなってゆく。街灯が減り、足元が暗くなる。最後の一本道を歩くのは、スズだけだった。彼女は以前に、ザイフリート少佐におぶってもらったことを思い出す。


 唐突に、スズは立ち止まった。


「もうすぐ官舎に着いてしまいますよ。そのまえに、なにか用事があるんじゃないんですか?」

 スズは、だれに向かうわけでもなく言う。


 おそらくは、バルバラの店を出たときからずっとだ。

 だれかに後ろをつけられている。

 スズは後ろを振り返る。


 だれもいなかったはずの通りの真ん中に、男がひとり立っていた。


 見たところ、あまり特徴のない服装をしている。中肉中背(ちゅうにくちゅうぜい)で、薄い顔をした男だ。グレーのジャケットを着込み、黒いジーンズをはいている。その目はじっとスズを見ている。


「なんでしょう? こんな時間に」

 スズはその男に質問を投げかける。


「不死身の魔女。貴様が、エリクシルの力を持つ転生者の()()()だな」


「言っている意味がよくわかりませんね。だれですか? あなた」

 スズは男を睨む。

 ローブからシガーケースを取り出し、いくつか指輪をはめる。


 この男は、転生のことを知っている。

 ただの暴漢(ぼうかん)というわけではなさそうだった。


「調べはついている。貴様のエリクシルはいただく。だがそのまえに聞かなければならないことがある」

 男は感情が排除されたような声で言う。

「リン・ラフォレ=ファウルダースは、今どこにいる」


 スズは目をみはった。

「さあ。聞いたことがない名ですね」


(しら)を切りとおせると思わないほうがいい、ラングハイム。貴様はオルフ戦争時に、反乱軍からリン・ラフォレ=ファウルダースを連れ出して、共和国内で(かくま)っている。私は、それを知っている」


「――何者ですか。名乗ってください。あなた、エウリュアレの仲間ですね。まったくあなたたちの界隈(かいわい)は、どいつもこいつも礼儀を知らない」


「名乗る気などない」男は繰り返す。「リン・ラフォレ=ファウルダースは、今どこにいる」


「だれですか? そのたいそう古めかしいファミリーネームの方は?」

 スズは男を睨みつけて言う。


「話す気はないのだな。まあいい。手間だが、こちらで探すとする。またオシュトローのように、村がいくつか半壊することになろうが」


 男は前傾姿勢をとる。

 右手をまっすぐ横に構える。

 その手がわずかに光ったと思うと、長い(つるぎ)が出現した。


 細くしなやかな剣身を持つレイピアだ。

 男はそれを鞭のように振りかざして、一気に間合いを詰める。

 羽でも生えたかのような動きだった。


 スズは魔法の発動が間に合わない。

 すんでのところで攻撃を避けるのに精一杯だった。


 レイピアの先が、スズの首筋をかすめる。


「くっ――」

 

 一旦距離を取ろうとするも、ローブにレイピアを差し込まれる。

 足で片手を踏まれ、動きが取れなくなった。

 いつのまにか、男の左手にはもう一本のレイピアが構えらえている。


「あっけないな。ラングハイム」男は言う。


 スズは首筋に妙な感覚を覚えた。

 燃えるように熱い。傷口から溶岩でも吹き出ているようだ。


 それは痛みだった。

 彼女の首筋からは一筋の血が伝っている。

 傷は、塞がる気配を見せなかった。


「驚きましたね。あなた、もしかして転生者ですか」

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