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小さなショットグラス程度の器なのでごぜえます。

 テオが総司令官室へ報告へ報告を行った日の夜。

 黒いローブを(まと)った男がひとり、マルシュタットの中央広場に現れた。


 彼はローブと同じような黒色の傘をさし、夜の闇に溶け込んでいる。すらりと背が高く、肌は病的なほど色白で、陰気な目つきをしていた。小さなレンズの丸眼鏡をかけており、それがときどき街灯の明かりを反射している。


 黒い髪を一度かき上げてから、彼は中央広場を横切っていく。

 石材が敷き詰められた円形の広場を、止め()なく雨が叩く。そこには人間はもちろん、ハト一匹いない。ケルニア大聖堂が、まるで大きな山のように鎮座する。それは世界中の闇という闇を一手に引き受けたかのごとく、黒々とそびえ立っている。


 彼は広場の(すみ)の、ひときわ暗い場所で、足を止める。

 そこにはこじんまりとしゃがみこんで、じっと広場を見つめている老人がいる。生きているとも、死んでいるともわからないような目で、じっと見つめている。


 老人は、昼間はそこで布を広げ、ハトの餌となる豆を売っていた。それが、彼自身が自分で決めた仕事のひとつだった。今は店仕舞(みせじま)いを終え、薄汚い毛布をすっぽりと被って、雨を(しの)いでいる。老人は黒いローブの男に気づくと、数秒そのすがたを観察し、そして笑う。そこへ男が来るのを知っていたかのように、待っていたかのように、笑う。


「――ドフェール卿」

 老人はしゃがれた声で、男を呼ぶ。


「レオンでいいよ。いつも、そう言っているだろう」

 ローブの男は口元を緩ませて言う。


 老人は恐縮したような顔で、しばらく押し黙る。

 レオンは老人に目線を合わせるようにしゃがみこむ。


「アヒム、雨の日は身体が冷えるだろう。近くの店へ入って、温かいコーヒーでも飲もう」


「いいえ、ドフェール卿。わしはここで、この石畳(いしだたみ)の上で、じゅうぶんでごぜえます」アヒムと呼ばれた老人は言う。「それはたしかに、こう寒い日は、身体のいたるところの関節が、ひびでもはいったかのように痛んだりします。しかし、わしにはそのくらいどうってことごぜえません。もともとは、もう何年も前に死んでいたも当然の人間でごぜえます。それに、迂闊(うかつ)にわしなんかを連れて店に入ったら、ドフェール卿の立場も、危なくなるかもしれません」


 レオンは無言で、アヒムを見る。

 小さくしぼんだその身体を(こす)り、寒さに耐える老人を見つめる。

「私の父は、決してきみに、そういう人生を歩ませようとしたわけではないのに」


 アヒムはぎゅっと目を閉じて、何度も大きく頷く。

「ええ、ええ。それはもう。お父上の考えは、このアヒムもわかっているつもりでごぜえます。しかし、わしはあまり頭がよくない。身体が老いるのも早い。お父上のその想いを受け止めるだけの(うつわ)も、ずいぶん足りないわけです。それはもう、ウォッカを飲むときの、小さなショットグラス程度の器なのでごぜえます」


 アヒムという老人がこの世に生を受けたのは、今より四十年近く前の話になる。

 まさに「この世界に」生を受けたのは。


 彼は、当時の大召喚術師によって、この世界とはべつの世界から「召喚」された。まだ幼かった彼は、もともと前の世界では少年兵だった。内戦の絶えない砂漠地帯で、(いくさ)の炎に焼かれ、彼は絶命した。


 本来であれば、水属性の魔鉱石「ナーキッド」の力を授かり、このユールテミアに生まれ、彼は二回目の人生を歩むはずであった。

 だが、召喚は不完全なものだった。彼の身体は五体満足ではあったものの、いくつかの骨や筋肉がうまく機能せず、当時の軍部は「およそ戦力にはならない」という判断を下した。


 そして、アヒムにとって二回目の「死」が始まる。

 もっともそのときはまだ、この世界での名前を持っていなかった。彼は単なる被験体(ひけんたい)として、数字とアルファベットを組み合わせた呼称を与えれる。


 彼の中から魔鉱石を取り出す実験は成功する。

 しかし、実験台の上に残った彼の身体は血で汚れ、糞尿にまみれ、およそ人間としての機能を失っていた。痙攣(けいれん)を起こしているその身体からは、声なのかどうかもわからない、おぞましい音が聞こえた。


 その処理を任されたのはレオンの父親だった。当時研究所に属する召喚術師の中で、彼はほとんどの雑用を押し付けられるような下っ端だった。


「そうか――もしかしたら、きみがなにか哲学のようなものを持って生きてくれさえいれば、それでいいのかもしれないね。たぶんそれなら、私の父も、きみを助けた意味を見出せるだろう」

 レオンは言う。


 レオンの父は、実験台に残る彼に治癒(ちゆ)(ほどこ)す。

 きれいに身体を洗い、暖かい食事を与え、死に(ひん)していた彼を救った。そして、名前も与えた。


 ただ、身体の機能は完全に治らなかった。最初はうまく歩けないし、言葉も話せず、日常生活に必要な所作を学んでいくのは、彼にとってとても大変なことであった。

 それでも、レオンの両親は、アヒムを実の子供のように扱った。


「父は、あのとき以来、召喚術師をやめてしまった。あのようなことに関わっていたことを、後悔した。私の母にそれを白状して、ひと晩、しとしとと泣いたらしい」


 そして罪滅ぼしをするかのように、アヒムを育てたのである。

 まもなくして生まれたレオンにとっては、アヒムは兄のような存在だった。


 物心がつき始めたころ、レオンはアヒムの特質に気づく。

 幼いころから多方面の(がく)(ひい)でていたレオンとは対照的に、アヒムは基本的な計算もままならず、文字がうまく読めず、抽象的な思考を行うことがほとんどできなかった。

 レオンの家族と意思疎通ができないことも、日常的に起こった。母親は次第に疲れを溜め込み、ほどなくして両親は離婚することになる。


「わしのせいで、お父上は幸せなご家庭を手放すことになったわけでごぜえます。頭の悪いわしにも、そのくらいはわかります。だから、ドフェール卿に、これ以上情けをかけていただくわけにはいかないのでごぜえます」

 アヒムは小さなこうべを垂れる。


 レオンが召喚術師として軍に所属したその年に、父親は病に倒れ、亡くなった。

 床に伏せた彼は「使命を果たせ」と言った。


「スズ・ラングハイムは、変わらずハトの餌やりを日課にしているのかい?」

 レオンは尋ねる。


「ええ、変わらず。あの魔女さんは、いつもわしからハトの餌を買っていってくださいます。三十年間、変わらぬすがたで」

「きみがいったいだれなのか、彼女に気づかれてはいないね?」

「ええ、気づかれていません。わしは頭が悪いですが、()()()()()()()()()をするのは、得意でごぜえます」


 父が残した「使命を果たせ」という言葉には、明確に意味があった。

 その言葉は、レオンだけでなく、アヒムにも向けられた言葉だった。


「アヒム。僕たちの使命を、改めて言葉にしよう」

 レオンは静かに言う。


「ええ、ドフェール卿。わしらの使命は、あの実験を主導した、ボニファティウス・レーマンを討つこと」


 アヒムの言葉に、レオンは頷く。

「僕たちの使命は、ボニファティウス・レーマンを討つこと」


「そして、まさに今、わしと同じ恐怖に襲われている、スズ・ラングハイム殿を救うこと」


 レオンは繰り返す。

「僕たちの使命は、スズ・ラングハイムを救うこと」


 レオンの父親は、軍に所属していたとき、レーマンの策謀(さくぼう)を知る。強力な「悪魔」を使役するレーマンは、スズの小指に「呪い」のかかった指輪をはめ、弱みを握り、脅し、泳がせている。だれにも助けを求められない状況に追い込んでいる。そして来たるときに、魔鉱石「エリクシル」を取り出そうと企てている。

 それを、知ったのである。


「――同じ(あやま)ちが、繰り返されないように」

 レオンは誓いをたてるように、言葉を締めくくった。


 それからレオンは、アヒムからいくつか情報を得る。


 スズとレーマンがこの中央広場で接触したこと。西部戦線(リオベルグ)の状況悪化に伴って、レーマンが動いたこと。ラインハーフェンにある、もうひとつの「エリクシル」にも言及したこと。今年中に動きがなければ、強硬手段に出ると明言したこと。


「レーマンは、わしの顔などまったく覚えておりませんでした。ほんの数メートルのところに、おりましたのに。わしのことは気にせず話を進めるのです。きっと()()()()()()を、見下しているのでしょう。会話を聞かれたとて、どうにもなり得ないと、思ったんでしょう」

 アヒムはそういって小さく苦笑する。


 そしてすぐに声を落とす。

「会話の全部を聞き取れたわけではごぜえませんが、ラングハイム殿は、かなりうろたえておりました」


「今、軍部ではザイフリート少佐が新しく部隊を編成している。多少は時間稼ぎになると思っていたが」


 アヒムは首を横に振る。

「どうやら、あまり意に介さないようでした。とにかく、力が必要だと。帝国にいいように攻め込まれてしまったことに、腹を立てているのかもしれません」


 レオンは立ち上がって、肩についた水滴を軽く(はた)く。

「こうなると、(かれ)も巻き込むほかないかもしれないね」


「わしとしては、これ以上転生者の方が危険な目に遭うのは、辛いところではごぜえますが」


「もちろん、僕もそうだよ」レオンは頷く。「でも、彼女の『救い方』を聞いてきたのは、彼のほうなんだ」

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