野原から花を一輪摘み取り、食卓の花瓶に挿すという利己的な行いじゃ。
デニス・リフタジークと共に武器商人のアジトを叩いたテオたち。
そこで魔族「エウリュアレ」と遭遇する。
翌日、報告のためにテオは総司令官室へと赴く。
「リフタジークを戻したか。これは驚いたな」
クンツェンドルフ中将が天井を見上げて笑う。葉巻の煙も同時に部屋を舞う。彼の腰掛けている椅子が少し軋む。
テオは総司令官室に赴いていた。前に呼び出されたときと同じ革張りのソファに、同じ格好で座っている。
「彼も彼で、部下とともに自らの意志に基づいて、行動していたようです。今回は運よく、目的を一致させることができました」
デニス・リフタジークと接触した日の翌日。
テオは、同行した武器商人のアジトで遭遇した「エウリュアレ」について、直接報告を行っていた。
「なるほど――当時は、上層部としても苦渋の決断だった。軍人が本当に敵に回してはならないのは、となりの帝国でも得体の知れない魔族でもなない。世論と政治家なのだよ。そうだな、レーマン」
クンツェンドルフ中将は太い眉を曲げる。
テオの斜向かい。以前レオンが座っていたところには、頭の禿げ上がった白いひげの老人がちょこんと座っている。
「ともすれば、我々は愚かな国民の声に牙を抜かれよう。政治家のくだらん画策に無駄死にさせられよう。それらと対峙するには、清濁併せ呑む、度量と狡猾さが必要なのじゃよ。ザイフリート君」
レーマン准将はにこやかな笑顔で言う。
穏やかな声色とは正反対に、彼の眼光はなにもかもを見透かすような鋭さを持っていた。向けられると、森の中で猟銃を突きつけられたキツネのような気持ちを覚える。物理的には、すぐに近くの木々に身を隠すこともできる。しかしそうしたところで、結局は時間稼ぎにしかならないのだと思わせる。そういう目だった。
「デニス・リフタジーク、オットー・ゲイラー、ほか三名の計五名を特殊部隊に召集。承認しよう」クンツェンドルフ中将は言う。「主には兵站部門としての任務。軍用通信の共有と、物資流通経路の確保。随時配備を進める。士官室の用意はいらんということだが」
「ええ。リフタジークの意向で、マルシュタット郊外にあるねぐらで構わないと。ただ一方で、家賃を払ってくれと言ってきています」と、テオは苦笑する。
中将は豪快に笑う。「よかろう。総司令部宛てに申請を上げておけ」
それからテオは、エウリュアレを含めた「ゴーゴン三姉妹」という魔族に関して、知り得た限りのことを伝える。そのほとんどは昨日スズから聞いた内容だった。
六十年前のオルフ戦争において、反乱軍が喚び出したものの中でも最悪の部類に入るゴーゴン三姉妹は、ほかの多くの魔族を従えて操ることのできるほど知能が高く、当時から恐れられた魔族だった。
三姉妹は皆、毒々しい生き物の姿をしている。
長女のステンノー・ゴーゴンは蝙蝠の姿、次女のエウリュアレ・ゴーゴンは蜘蛛の姿、そして三女のメデューサ・ゴーゴンは蛇の姿であるらしい。
だが実際にはそれは、彼女らが力を解放し発揮するために化けた姿なのだという。元の姿は昨日のエウリュアレのように、人間の女性に近い容姿なのだと、スズは説明した。
三姉妹の中でも特にメデューサは、高い魔力と、はなはだしい残忍性を持ち合わせている。
「記録では、ゴーゴンと姓のある魔族はそれぞれ、当時の魔導部隊が撃破したとある。ラングハイムもそれは承知しているはずだが」
クンツェンドルフ中将は顎をさする。
「おおかた、封印が精一杯だったのじゃろう」レーマン准将は言う。「魔族にとって、魔力と生命力は同義じゃ。三姉妹については、高い魔力を誇っているがゆえに、当時からどう鎮静しようかとつまびらかに議論がされておった。もっともわしは当時士官になりたての末端じゃったから、詳しいことは知り得ぬがのう。とにかく、討伐はちとしんどかったんじゃろうて」
テオが身を乗り出す。
「となれば、もはや状況は一刻争うものかと愚考します。隣国と土地を獲り合っている場合ではありません」
「帝国も同じような考えであれば、それも一考に値しよう」中将が葉巻の先をテオに向ける。「状況はそう単純でもない。そもそも魔族襲撃の実行者が帝国であること、そしてイオニクとソルブデンが結託している可能性があることを掴んだのは、ほかならぬ貴公の部隊の者であろう」
テオは口をつぐんだ。
帝国と旧イオニク、そしてゴーゴン三姉妹。
これらの勢力がもしなんらかのかたちで一本に繋がっているとしたら、我がルーンクトブルグは水際まで攻められていることになる。外側から、内側から、時間をかけて侵食されていることになる。さながらチェスのように、自陣のキングが敵のポーンやルークに囲まれ、今にもナイトがチェックをかけようとしている、といった具合だ。
エウリュアレは自らの所属を明らかにしなかった。
それに、白銀の党とはなにか関係あるのだろうか?
「西部戦線は引けぬ」中将はきっぱりと言う。「もちろん、各駐屯地には通達を出そう。ゴーゴンの名前は伏せるが、魔族の襲撃に対しより一層警戒をさせる。貴公の部隊は、目撃情報に備えて即応できるようにしておけ」
「――わかりました」テオは応答する。「昨日遭遇したエウリュアレという魔族ですが、少し気になることを言っていました」
責任が始まる。
彼女はそう言っていた。
「なにかの警告か。魔族の分際で」
中将は吐き捨てる。
「だれの、だれに対する責任と言ったのかのう?」
レーマンが白いひげをいじりながら尋ねた。
「人間は、皆それを背負わなければならないと。そして彼女らはそれを待っている、というふうに言っていました」とテオが答える。
レーマンはふむふむと相槌を打ち、少し考えてから言う。
「いまさら、気にすることのない言葉じゃ。言ってしまえば、その責任は五百年前にユニス・ラングハイム卿が初めて人間を召喚したころから始まっておる」
「ラングハイム中尉が召喚されたころから?」
テオは目をしばたかせる。
「厳密にはそれよりも前、人間が初めて魔族の召喚を行なったその瞬間からとなろうが」レーマンは禿げ上がった頭を掻く。「つまり、生命についての責任じゃよ。召喚とは、次元を超えて命を移動させる行為にほかならん。それは言い換えれば、一度他者の命を放棄させ、こちらの都合により、再構築を行なっているということじゃ。野原から花を一輪摘み取り、食卓の花瓶に挿すという利己的な行いじゃ」
「花瓶に一度挿されたその花は、二度と野原には帰れない」テオは言う。「レオン・グラニエ=ドフェール卿も言っていました。自らが召喚した人間たちが、どういう生き方を選ぼうとも、否定することはできないと。自分のやっていることを否定するような言動をとってはならない、というようなことを」
レーマンは笑った。
「やつは特に神経質だからのう。ところで、ザイフリート君。花瓶に挿された花はただ枯れてゆくのみじゃ。それが見る者をいかに楽しませようとも、忘れ去られようとも。しかし、きみも知っておるように、まるで造花のごとく、永続的に咲き続ける花がある。きみは、その花をどう思う?」
数秒のあいだ、テオは考える。
目の前にあるローテーブルの、複雑な模様を見つめる。
「どうしようもありません。ただ、その花が忘れ去られることだけはないよう、見ていることしかできないでしょう」
レーマンは真剣な眼差しをテオに向ける。
「きみは、その花を終わらせることができる。そして花瓶の花は、それを受け入れるじゃろう」
その真意について、テオには図りかねた。
テオは総司令官室をあとにする。
長い廊下を歩き、中央本部の外へ出る。
冷たい雨が降っている。昨日夜からしとしとと小雨が始まり、この街を濡らしている。灰色の分厚い雲は、しばらくそこに居座りそうな気配だった。
いつのまにか季節は巡って、もう十一月。立派な冬だ。
木々は大急ぎで紅葉を脱ぎ捨て、マルシュタットの市街はずいぶんと殺風景な様子だった。雪が降り始めるのも毎年このくらいの時期だったかなと、テオは昨年を思い起こす。そしてあとひと月もすれば、今度はケルニオス生誕祭へ向けて賑やかにドレスアップされることだろう。
入り口の傍らでは、フィルツ大尉が黒い雨傘をさして待っていた。
「少佐。司令部への報告、お疲れ様です」大尉は持っていたもう一本の傘をテオに差し出す。「例のゴーゴンについてはなにか?」
テオは礼を言い、傘を受け取る。
「実質、司令部は動かない。西部戦線にかかりっきりだ。バルテル少尉からの連絡は?」
「いいえ。今朝の報告以降はまだ進展はないようです」
大尉が答える。栗色のポニーテールの先が少しだけ濡れていた。
テオはデニスに接触するのと同時並行で、フロイントへとバルテル少尉を派遣していた。村民を操っていたとされる魔族ゲーデと、例の女ジャーナリストについての調査である。四年前の出来事とはいえ、ゲーデのような危険性の高い魔族は一刻も早く叩いておきたかった。
「わかった。続報を待とう――フィルツ大尉、ラングハイム中尉と一緒にひとつ頼まれてくれないか?」
「――またコーヒー豆でも買いに行きますか?」
テオは笑って、自分の短い髪を片手で梳く。
「そうだな、士官室も引っ越したことだし――ただ、今回は別件だ」
もしかしたら聞き間違いかもしれない。
エウリュアレが去るときに「マリア」という名前を口にしていた。少なくとも、テオにはそう聞こえた。たしかにスズを見て「死なない人間」と言い、「マリアの仕事」とつぶやいていた。
ありふれた人名ではあるが、調べてみて損はない。




