わかんない。
「えっ?!」レナエラはロッキングチェアから飛び上がった。「ステンノーちゃん、それはまずいよ! 絶対だめ!」
ステンノーは目をまん丸にする。「どうしてですか?」
「どうしてって――ステンノーちゃん。あなたが殺そうとしている人は、共和国でいちばん偉い人なの。そんな人を殺してしまったら、世の中が大変なことになっちゃうよ」
少女はその白い頬を膨らませる。
「ステンノーは今までも偉い人を殺してきました」
「そういう問題じゃなくて――うーん、なんて言えばいいかな」
レナエラは言葉を探した。来週ステンノーがやろうとしていることがどのくらい重大なことかを伝える言葉を探した。
「メデューサは言っていました。コルネリウスという人は、いままで殺してきた人間のなかでも、特に殺されなければいけない人間だと。ステンノーはしくじれません」
レナエラが言葉を見つけるまえに、ステンノーは言う。
メデューサか――レナエラは眉間を指で強く押した。
もしステンノーがコルネリウス首相を「暗殺」でもしてしまったら、大規模な戦争を起こすトリガーになってしまいかねない。それに加えて、レナエラが共和国内で目撃でもされようものなら、このうえない開戦の口実だ。
メデューサは、西部戦線にとどまらない、さらに大きな戦争を引き起こそうとしているのだろうか。
でも、なんのために?
「ステンノーちゃん。メデューサさんはどこ?」レナエラは尋ねる。
「メデューサはもうここにはいません。メデューサにはメデューサのお仕事があります」
「そう。そうだよね――うーん、まいったなあ」
戦争の引き金になることなど、レナエラはごめんだった。
だが結局、ステンノーをうまく説得できるような言葉は見つからなかった。
ステンノーが「お仕事」にでかけるその日まで、レナエラはこの屋敷で粛々と生活をした。
それはおおよそ、規則正しい生活だった。
早朝目が覚めるとカーテンを開けて、ベッドのしわを伸ばす。顔を洗って、丁寧に歯を磨く。屋敷には日常的に必要なものがきちんと揃っていた。ステンノーが「自由に使ってください!」と言ってくれたクローゼットの中には、ずいぶん古いデザインの服ばかりだったが、ルームドレスや寝巻きになりそうな衣類、外着や礼服が取り揃えられていた。かなり昔に作られたもののようだ。でも、石鹸の香りがする、とても清潔な生地だった。
クローゼットの中に下着も見つけたが、さすがにつける気にはなれず、自分のものを夜寝るときには外して、洗濯して着回すことにした。
日に三度の食事は、ここへ来たときに案内をしてくれた礼装の老人が部屋に運んできてくれた。レナエラはそれをステンノーと一緒においしく食べた。
一日のほとんどの時間を部屋で読書をするか、庭を散歩するかをして過ごした。
ステンノーは自分で本が好きと言っていたとおり、朝から晩まで活字にかじりついている。ベッドでうつぶせになりながら真剣に読んでいるときもあれば、ロッキングチェアで笑い転げているときもある。ときどきレナエラを呼びつけて「これはどういう意味ですか?!」と尋ねる。
ステンノーが食事中も本を読みだすので、レナエラは生まれて初めて子供を「躾ける」ということをした。
レナエラは毎年十二月のケルニオス生誕祭の時期に(休暇が取れさえすれば)故郷に帰り、集まった親戚たちと食事を共にする。二人いる甥っ子が、そこでときどき癇癪を起こして料理をぶちまけたりしているのを思い出した。レナエラはいつもなにも言わずに、曖昧な笑顔を浮かべながらその光景を見ているだけだった。そんな猛獣たちの躾は、親である兄弟たちの仕事だったからだ。
それに比べてみれば、ステンノーは至極利口である。料理はちゃんと皿の上に乗っているし、床がソースの海になることもない。
レナエラは本を見ながら食べることなど別になんとも思わなかったが、なぜかそのときは、ステンノーに注意をした。一丁前に、まるで母親のようなそぶりで。
叱られたステンノーはしばらくむすっとしていたが、お腹がいっぱいになるとすぐに機嫌が直り、また本の世界に入り込んだ。
ステンノーはずいぶんレナエラに懐いた。
人質とその監視役の関係だとは、だれが見ても思うまい。食事のときは仲よくおしゃべりをし、ステンノーが本の中で出会った疑問のかなりの数を、レナエラは解消した。読書中はそれぞれ本の中に没頭していたが、ときおり用事もなく名前を呼んだりした。
ステンノーは、レナエラの膝を枕にして、本を読むこともあった。
そしてそのまま居眠りをしてしまうこともあった。
レナエラは彼女の滑らかな額に掌を滑らせる。金色の髪を指で梳く。その寝顔は、数日後に要人を暗殺する人間のそれには、とうてい見えなかった。
この屋敷はまだイオニク公国が国家であったころ、ある伯爵が別荘として持っていた建物であるらしい。当時のイオニクにおける爵位を持つ者たちはとてつもなく裕福だったらしいから、いたるところに飾られている高価な品々もそれで納得がいった。
レナエラがそれを知れたのは、ある日屋敷の中を見て回ってみたところ、写真や手紙などの遺品がたくさん出てきたからだった。
持ち主の伯爵がしたためたと思われる手紙のほとんどは、愛する女性へ宛てた恋文であった。二人はイオニクの首都に住んでいたようだが、頻繁にこの別荘に訪れていたらしい。手紙がこうして残っているということは、時勢によって、二人は会えないときを過ごしていたのだろう。
一方で、女性からの返事の手紙はひとつも見つからなかった。レナエラは不思議に思ったが、その真相を確かめる術を持っているわけでもない。故人に少しだけ思いを馳せてから、その手紙の束を丁寧に机の中にしまった。
レナエラがここにきて三日ほど経ったころには、ずいぶん屋敷での生活に慣れてきてしまっていた。不思議なことに、この屋敷から脱走して国に戻ろうとは一度たりとも思わなかった(そして、できるとも思わなかった)。そして逆に本国からなにか連絡が入るとか、使者が言づてを持って現れるとか、そういったこともまったく起こらなかった。
世界とは隔絶していた。
それは淡々と時間が進んでいくだけの生活だった。外の世界には銃がある。それは撃たれ、赤い血が流れている。外の世界には魔法がある。その力は行使され、人々は悲痛な叫びを上げている。
ここにいると、そういう出来事は皆、書物の中で描かれた物語のような気がしてしまう。
来たる日。レナエラはステンノーともに、屋敷をあとにする。
そのとき彼女は直感的に思った。
もうソルブデンには帰ることができないかもしれないと。
祖国とは、もうさよならかもしれないと。
ほんの一瞬だけ、屋敷に置き手紙を残しておこうかと思う。しかしすぐにやめた。宛先が思いつかなかったのだ。
いったいだれに? 家族へ? はたまた軍部の上司や同僚へ? なにを書けばいいのかさっぱりだ。この数日間あれだけ本を読んでいたのに、一つも言葉が思い浮かばない。
レナエラは突然、ここまでの人生がひどくのらくらした、中途半端なものだったというふうに思う。屋敷での生活で、これまで自分にこびりついていたよけいなものがそぎ落とされ、そして残ったのは、あまりに平凡で、嫌気がさすほど活力にかけた女である。それはある意味で諦めのつく結論だったし、そしてまたある意味では、絶望的な帰着だった。
まあまあ人当たりもよく、仕事上も壁を作らないこざっぱりした性格で、だれとでもそれなりにうまくやれてきたのに。へんてこな持病を抱えながらも、軍ではじゅうぶんそれを役立ててきたのに。なんなら戦争では、身を削るくらい、役割を全うしたのに。
――どうして、こうなっちゃうかなあ。
私はうまくやってきたのに。
ステンノーとともに、イオニクの森を歩く。
森はどんどん深くなっていく。知らない森の、知らない動植物が生きる、知らない世界を、レナエラは歩いていく。
彼女の知っている世界は、どんどん遠のいていく。
「彼氏のひとりでもいれば、また違ったのかなあ」
そう口にすると、まるで川が決壊するように、急に涙が溢れた。
両手でぐしゃぐしゃと拭う。それでも、次から次へと流れてくる。
私はうまくやってきたのに。
「なんで――どうして――」
手が、指が震える。歯ががたがたと音を立てる。
嗚咽が止まらない。
「レナエラ!」ステンノーが振り返って、心配そうに顔を覗き込む。「どうしたんですか?! 悲しいんですか? 怖いですか?!」
「わかんない。ステンノーちゃん。私、わかんないよお!」
レナエラは両手で顔を覆い隠す。
「待っててください! ステンノーがなんとかします! ええと――本で――そうです! 本で読みました! 涙は無理矢理止めるよりも、流してしまったほうが身体にいいんです! そう書いていました! レナエラ、だから――」
しゃがみこんでしまったレナエラの肩に、ステンノーは少し戸惑いながらも、ちょこんと手を乗せる。
「泣くがいいです! いっぱい!」
レナエラは自分の肩に暖かな体温を感じる。
「ごめんね、ステンノーちゃん。大人は本当は、泣いちゃだめなのに」
「そうなんですか? そんなこと、ステンノーが読んだ『涙の本』には書いてませんでした」
「そんな本、あるんだね。そっか――そうだよね」
レナエラはステンノーの細い胴に腕を回して、ひとしきり泣いた。




