あなた方は名将として、後世に語り継がれることになりましょう。
第十話は、ソルブデン帝国のレナエラ・エスコフィエ大佐の視点です。
旧イオニク公国との会合の護衛で向かった彼女を待ち受けていたのは。
レナエラ・エスコフィエ大佐が感じた嫌な予感は、残念ながらあたっていた。
旧イオニク公国の国境線に組まれた結界。
天高く積み上げられた岩石は、数ミリの隙間すらない強固な大地の守りだった。六十年前に魔族が氾濫したとき、帝国軍のみならず各国の魔導師が協力し造り上げたもので、その後幾重にも補修を繰り返し、現在に至っている。
レナエラがそれを見るのは三度目だった。いずれも帝国の要人護衛のために同行したときだ。今回もまた、両国の政治的な交渉のための会合が行われる。
結界の内側と外側では、まるで流れる時間すら別々であるかのように、隔絶していた。
外側では帝国軍と共和国軍が互いの戦力をぶつけ合い、わずかな面積の土地を争う。作物が収穫され、家畜が育てられ、人間の食料となってゆく。少年は国のためにたくましく教育され、少女は少年に一抹の誇りを与えるために、ほどよい儚さを持ち合わせてゆく。
そのあいだ、結界の内側ではより原始的な営みが繰り返されている。
より強い生き物が、より弱い生き物を生きる糧とする。さらに弱い生き物は、身を隠すなり、コロニーを形成するなりして、その命をできるだけ長らえさせる。動ける生き物はより適当な住処を見つけ、動けぬ生き物はその身を硬くしたり、毒を持つなどして身を守る。
そうした永続的でいっさいの無駄が省略された営みが、それ自体に意味があるにせよないにせよ、繰り返されている。
結界を行き来する術を、レナエラはひとつしか知らない。ソルブデン領から地中深くに掘られたトンネルがあり、それがイオニクまで伸びているのだ。ほんの百メートルほどの、大人が数人通れる幅の洞窟だった。
森の中に建てられた小屋に入り、梯子を使って縦穴に潜る。すぐに底にたどり着き、横穴が伸びている。ひとりの若い兵士がランプに明かりを灯し、洞窟を照らしながらゆっくりと進んでゆく。ところどころに木の根が垂れ下がっており、触れると湿っている。濃い土のにおいがする。生き物の気配はない。ざくざくと地面を踏む足音が反響しているだけだった。護衛も含めて人員は十五名。レナエラ以外は全員男だった。
地下を歩いていたころから、少しずつ寒気がした。
以前訪れたときは、これほど芯まで冷たくなるような感覚はなかった。
嫌な予感がする。
レナエラは数年前の西部戦線を思い出す。
大量に放出される魔力が、戦場のいたるところで塵のように舞い上がり、そして消えていく感覚を思い出す。
他の護衛の兵士と要人たちに、彼女は念のために報告を行う。だが、魔族の住むイオニクなのだから、君の体質なら仕方がないだろうと、一蹴されてしまう。
聞く耳を持たないのなら、なんのために私は同行したのか。レナエラは少し不満に思う。
イオニク側の出口も、鬱蒼とした森の中だった。
見渡してみる限りでは、帝国側の森と変化はない。同じように木々がさざめき、同じように鳥が鳴く。
しかしそこは結界の内側である。レナエラは寒気を振り払い、要人の男たちを囲うようにして陣形を組む。魔導銃をローレディ・ポジションで構え、周囲を警戒しながら森を進む。魔族の気配はなかった。
ほどなくして、唐突に森が終わる。
そして、大きな屋敷が現れる。
真っ白な壁で覆われた、まるで教会のような穏やかな雰囲気を持つ建物だった。それまでの生い茂る森が嘘だったかのように、柔らかで明るい太陽が差し込んでいる。その屋敷はもう何年ものあいだそこに佇んでいるはずなのに、外壁はくすむことなく、滑らかな光沢を放っていた。
周りには、よく整えられた庭が広がっている。植え込みは寸分のずれもなくシンメトリーに作られていたが、草木ばかりで花は植えられていない。この屋敷の持ち主が優秀な庭師を雇っているようにはどうしても思えず、レナエラは首を傾げていた。
屋敷のエントランスは天井が高く、寒々とした空気が滞留していた。
大きなシャンデリアが吊るされており、壁面にはステンドグラスがはめ込まれている。ところどころに置かれている装飾品から階段の手すりにいたるまで、すべてがとても高価なものに見えた。つるりとした床は、大理石が敷き詰められている。
まもなく、黒い礼装の老人が音もなく現れる。腰がひどく曲がっており、階段では転げ落ちてしまうのではないかと心配になるほど、ぎこちない歩き方だった。しかし老人は足を踏み外すことなく、階段を登り、廊下を進んだ。十数名分の足音がこつこつと建物内に響き渡る。
そしてレナエラたちは二階にある一室に通される。
その部屋には、中央に大きな丸テーブルが据えられていた。
奥に暖炉があり、室内はほの暖かい。壁一面には凝った彫刻や肖像画が並んでいる。それらのモチーフは人間ではあるが、どこか欠落のある芸術だった。四肢がすべて描かれていないものが多い。すべてのモデルの表情に感情が不在という意味でも、不完全だった。どれひとつ完成していない作品なのではないかと、レナエラは思った。
その部屋で、赤い眼の女を見る。
彼女は鋭い刃物で縦に刻みをいれたような、濃い瞳を持っていた。それは呼吸をするように膨らんだり、三日月のようにまた細くなったりを繰り返している。
その眼は部屋に入った礼服の老人を捉え、連れ立った三名の要人たちを捉え、そしてレナエラを捉えた。女の口元はかすかに微笑んでいる。赤い舌が小刻みに動くのが見えた。彼女は発色のよい紫色の髪を後ろでまとめ、肩に流している。おなじような色のゆったりしたローブを纏い、円卓の一番奥の椅子に腰掛けていた。
過去二回の会合においては、イオニク側の代表であるらしい初老の男が出迎えた。今回、代表の男には急用ができたために、自分はその代理なのだと、赤い眼の女は説明をする。静かで落ち着いた声だったが、部屋にいるすべての人間がはっきりと聞き取ることができた。
要人の男たちは三人とも数秒驚き、そのあとすぐに不快な表情をつくる。顔の筋肉が歪む。彼らの台本にもともと書かれていたかのような動きだった。政治家は交渉ごとにおいて、どういうタイミングでどのような感情を表すべきかを熟知している。それを彼らは自らの台本に書き込んでいる。イオニクの代表がこの会合よりも大切だと考えるなにかを優先したときは、「速やかに嫌悪を示す」と、台本には書かれている。
しかし、赤い眼の女は意に介さなかった。無表情のまま、要人たちに座るよう促す。案内役の老人に飲み物の用意を指示する。
一連の室内の動きのあいだ、レナエラは入り口のそばで固まっていた。額に冷たい汗が浮き出ているのがわかる。要人たちは平気な顔で挨拶をし、出されたアールグレイを無表情で啜っている。
レナエラのその様子をすっかりわかっているかのように、赤い眼の女は一瞥する。彼女と目が合う。女は口角を上げて、にっこりと笑う。強い吐き気がした。胃液の味が喉まで上がってくる。
我慢しなければならない。レナエラは思う。
彼女は「マウラ・グランドーニ」と名乗り、イオニク側の要請を、ひとつひとつ丁寧な言葉遣いで伝えていく。
「我々が貴殿らに期待している動きは、次の四つです。第一に、西部戦線の終結を、最小限の被害で実現すること。第二に、その国民の自治権を保証し、独立を支援すること。第三に、貿易については自由化を図り、互いに関税障壁を撤廃すること。そして第四に、我らイオニク公国の再建へ向けて、そう遠くない将来、結界の破壊にご協力いただくこと」
要人たちはいずれも退屈そうな表情で、こくこくと頷いている。
「四つ目については、無条件には飲めない話だ」ひとりの男が言う。ずんぐりした身体で、大きな黒いあごひげを生やしている。「兎にも角にも、ここに魔族がはびこるかぎりは、壁を崩すわけにはいかん。それは以前にも、代表のフィリベルト氏に伝えているはずだが」
「もちろん。聞き及んでおります」マウラがにこやかに返す。「我々は長い時間をかけて、イオニクの魔族の捕捉を行ってきました。現存する個体の数や種族の詳細は、おおよそわかっています。そしてその鎮静化は、ソルブデン帝国の戦力を持ってすれば、じゅうぶんに可能だということも、わかっています。イオニクの魔族を殲滅し、壁の崩壊を実現する。これは、確実に歴史に残るのではありませんか? そしてあなた方は名将として、後世に語り継がれることになりましょう」
「まあ、そううまくいくとは思えんがね」
黒いあごひげの男は歯をむき出しにして、下品ににやける。
あとの二人も低い笑い声を発する。
右側に座っている細身の老人が言う。
「我が国の優秀な召喚術師がうまく魔族を使役し、適切なタイミングと場所へ、魔族を放っている。先日の奇襲作戦は、オーガーたちがうまく機能した。時が来れば、我が国の戦力を魔族殲滅に力を貸すこともできよう。しかし、条件は以前伝えたとおり」
「ええ。着々と」マウラは言う。「先日、我が同志の術師がやっと見つけたところです」
三人の男たちは身を乗り出す。
「本当かね?」あごひげの男が言う。
「ルーンクトブルグに放っていたコカトリスが、ある魔女に反応を示しましてね」
マウラは上弦の月のように、口を横に広げた笑う。
舌の先が二つに割れて、尖っている。それがちろちろと小刻みに動いているのが、レナエラにははっきりと見えた。
まるで獲物を狙う、蛇のようだ。




