責任が、始まる。
スズはその羽虫の群れを凝視する。
その集合体は、まるで液体のように羽虫を循環させる。表面に纏う虫は体内へと潜り込み、体内を埋めている虫は表面へと溢れでて、まるで呼吸するようにうごめく。ぶんぶんと不快な音が辺りに響いている。
その傍らに、さきほど白い車から降りてきたローブの人物がいた。相変わらずすっぽりとフードを被ってしまっているため、表情はおろか性別もわからない。
「あなたが召喚術師ですか? 名乗っていただけますかね?」
スズはすでに合計五つの指輪をはめている。右手に二つ、左手に三つ。両手を広げて、前に突き出している。
そのローブの人物は何も答えない。
ただ、かすかに上半身が揺れ動いた。口元が見える。一瞬テオには、その顎がぱっくりと横に割れてしまうかと思った。
その人物は、大きく口を横に開き、にたにたと笑っている。
「一階では派手にやったようだな」
デニスが二階から降りてきた。
彼はアルトマン准尉に肩を貸していた。
准尉の顔は青白く、眉間にしわを寄せて苦しそうにしている。右肩から血が流れている。
「准尉! 大丈夫か?」テオは駆け寄る。
「すみません、少佐。しくじりました――」アルトマン准尉が呻く。
「大した傷じゃねえさ。それにこいつのおかげでガウスのやつを仕留められた」デニスはそう言って、今度は目の前に広がる光景を眺める。「こんなもんが突然現れたんだ。油断するのも無理はない」
残り二人のフードの人物は見当たらなかった。それだけではなく、正門に寄せるように止められていた白い車もなくなっていた。
テオは訝る。
羽虫の群れはひときわ大きく渦を巻く。
黒々とした影はぶんぶんと鳴き、少しずつその姿をかたち作ってゆく。
そのシルエットは細長く伸び、うねうねと蛇のようにとぐろを巻きながら上昇する。
それは一体の龍の姿になった。
羽虫が擬態した単なる模倣ではない。鋭い眼光を持ち、硬い牙を剥き、鋼鉄の鱗で覆われた身体を持ち、凶悪な鳴き声まで上げる、龍になった。
暴風のように身体を回転させて、龍はスズへと急降下してゆく。
「まったく、無礼な蟲遣いです」
スズは両手を地面に当てる。
なにもない荒地の庭が光を帯びて、すぐ消える。
地鳴りが起き、砂埃を上げ、スズのまわりの土が一気に三メートルほど盛り上がる。
龍が牙を剥き、スズに食らいつこうと大きく口を開く。
その牙を、三つの刃がすんでのところで受け止めた。
がっちり牙を固定された龍は細長い身体をのたうち回らせて、何度か地面を叩く。
「なんだありゃ」
デニスが驚嘆の声を上げる。
間違いなく、スズの召喚術だ。
テオは息を飲んだ。
盛り上がった土は、今や二体の巨大な戦士になっている。
一体はサイの戦士で、もう一体はゾウの戦士だった。
「シュラム、パッチェ。ずいぶん身体がなまっているじゃないですか?」
スズは重戦車のような鎧をまとった戦士たちに言う。
「パッチェ、言われてるぞ? お前の下っ腹がぶよぶよで見るに耐えないってよ」
サイの姿をした戦士シュラムが言う。
「おぬしこそ、長いことツノの手入れを怠っているように見える」
ゾウの戦士パッチェは、シュラムの少し黄ばんだツノを見て笑った。
「これはツノじゃねえ。毛と同じ成分なんだよ。常識だろ? 母ちゃんに教えてもらわなかったか? この長っ鼻野郎」
二体の戦士はだだでさえ固そうな灰色の皮膚に、重厚な鎧をあてていた。サイのシュラムは片刃の剣「ファルシオン」を二刀流にしている。幅の広い刀身と大きな鍔がついてる。ゾウのパッチェはクレイモアの一刀流だ。およそ人間には振り回すことができないほどの、巨大な剣だった。
「運動不足解消といきましょう」スズはぱんぱんと手を叩く。「この龍の相手、お願いします」
「御意!」戦士たちは声を揃える。
シュラムとパッチェは剣に力を込め、龍と押し合う。金属のぎりぎりと擦れる音が響く。戦士たちの太い足が地面にめり込む。
合計三つの刃を振り切り、龍を空中へ押し返した。長い胴をくねらせながら、龍は咆哮する。空気を揺らすような叫びだった。
そのあいだに、テオはフードを被った召喚術師らしき人物へノヴァを向ける。相手に特別反応はない。じりじりと詰め寄り、撃てば外しようのない距離まで近寄る。
「もう一度尋ねよう。貴様は何者だ?」テオは凄んだ。
フードの下で、その人物はけたけたと笑っている。
そして、ひと言だけ口にした。
「責任が、始まる」
女性の声だった。なにかを引っ掻いたようなうわずった響きで、その声は発せられる。つぶやくような小さな声だった。すぐそばで龍と戦士たちが土埃りを上げてやりあっているのにもかかわらず、その声ははっきりと聞こえた。
「なんの話だ?」テオは聞き返す。
「責任。それは、人間ならば皆、背負わなければならない」彼女は言う。「我々は、そのときを待っている。そのときを」
まったく、わけがわからなかった。
「貴様は、白銀の党の人間じゃないのか?」
そのとき、けたたましい羽音が聞こえた。
シュラムとパッチェが龍を両断したのだった。
傷口からは血ではなく、羽虫が大量に溢れ出していた。
「我が名は、エウリュアレ。人ならざる種族」
フードの女は片手を上げて、うねる羽虫の群れに向ける。
ローブから現れた彼女の腕は、人間のものではなかった。テオは息を飲む。少し後ろでフィルツ大尉が小さく悲鳴をあげる。
それは蜘蛛の節足だった。
真っ黒な毛で覆われ、不気味に折れ曲がりながら伸びている。その腕だけで、彼女の背丈の二倍ほどの長さがあった。
「エウリュアレ?!」スズが叫んだ。「少佐! 彼女を逃してはなりません!」
羽虫はすでにエウリュアレの周りに集まり、竜巻のように渦を作っている。
「あの魔導師は、死なない人間か」エウリュアレはつぶやくように言う。「まあいい。あれは、マリアの仕事」
テオは魔導銃を可動し、最速で発射する。
閃光が羽虫の群れを貫く。無数の虫たちが焼かれ、わずかに火花が散る。
しかし、みるみるうちに羽虫は数を減らし、視界が晴れてゆく。
すっかり虫がいなくなったころには、エウリュアレと名乗った女も消えていた。
辺りには静寂が訪れる。
「あっけなく逃げられちまったな」サイの戦士シュラムがその大きな鼻から息は吐き出す。「ラングハイム。いつでも喚んでくれ。コボルグラントのときみたいにまた暴れようぜ。あと、別にパッチェとセットじゃなくていいんだけどな」
そう言ってまた互いに睨み合っている二人の戦士をスズはあっさり返戻する。
建物内を制圧したデニスの部下たちが玄関から数名現れて、状況を報告している。短くやりとりしたあと、すぐに建物の中へ消えていく。アルトマン准尉は肩を抑えながら壁にもたれている。そばにはフィルツ大尉が心配そうな表情でしゃがみこんでいた。
いなくなっていた二人の部下らしき人物も、あの真新しい白い車も、再度現れることはなかった。おそらくは羽虫が化けていたのだろうと、テオは思った。
「あのエウリュアレと名乗った女も、魔族なのか?」
テオは魔導銃をホルスターに収める。
「魔族の中でも、最高位の部類です」スズは帽子についた埃をはたきながら言う。「オルフでは、討伐されたと聞いていましたが――正直、エウリュアレが現れたとなれば、かなり問題です。ゴーゴン三姉妹が生き残っている可能性も」
「ゴーゴン三姉妹?」
テオは聞き返した。
「魔族たちの、言ってみれば『幹部』のような存在です」スズは続ける。「エウリュアレはゴーゴン三姉妹の次女。見たとおり、蜘蛛の魔族です。ほかに長女ステンノー、そして大問題なのは、蛇の三女、メデューサです」




