そのまま全部、食べ尽くして。
オシュトローを訪れたエルナ。
パウルの見舞い中、病室の外では物音が。
先ほどの医者と、誰かもうひとり男がいる。
病室の外の廊下で、早口で話している。
けたたましい音を立てて、病室のドアが開く。
「貴様! どの面下げて来やがった!」
病室へどかどかと入ってきたその男には、見覚えがあった。
「お、親父?!」
パウルが驚きと呆れの混じったような声で言う。
男は、パウルの父親だった。
以前に派兵部隊の野営地に殴り込んできた農夫たちの中心人物だ。大柄なその身体を揺らして、一気にエルナに詰め寄る。無精ひげで覆われた大きな顔はしわで歪み、噴火しそうなほど真っ赤だった。
「なんとか言ってみろ?! なんの用だ?」
パウルの父親は声を上げる。
突然のことに驚いたエルナは、すぐに応答ができなかった。
「親父、やめてくれ」代わりにパウルが言う。冷静だったが、ひと言ひとことが突き刺すような言い方だった。「少尉さんは、ただ僕の見舞いに来てくださっただけだ」
父親はパウルをほとんど無視した。
「あんたら軍人はろくに責務を果たさずに、こういうときだけしおらしい顔しやがる。怪我をしたのは息子だ。被害者だぞ!」
頬を痙攣させて言う。
「おいやめてくれ!」
パウルがベッドから起き上がろうとする。
エルナはそれを手で制した。
押し寄せるグロテスクな感情を胸の奥に感じる。
流すんだ――
「パウルさん、寝ていてください」彼女は胸を落ち着かせて、父親のほうへ向きなおる。「おっしゃる通り、大切な息子さんに大きな怪我を負わせてしまったのは、私たちの落ち度です。村に駐留し、警護する立場でありながら、村の皆さんを危険な目に遭わせてしまいました」
申し訳ありません。彼女はこうべを垂れた。
「おかしいですよ、こんなの」パウルのつぶやきが聞こえる。
父親は大きく息を吸っては吐いてを繰り返していた。
「うちは家内を失った」彼は低い声で言う。「毎日、真面目に家畜の世話をして、普通に暮らしていた。それを脅かされる理由が、俺にはわからない。そして今回、息子まで失いそうになった」
エルナは頭を下げ続ける。
「この国では、なにも考えずに自分の生活だけ営んでいてはだめなんだとわかった」父親は続ける。「おれは軍縮を主張してきた。これからも声を上げ続ける。兵器や魔力、そんなものを使えるおまえらがいるから、いつまでたっても平和に暮らせない。耐えきれん」
「極論すぎる」パウルが疲れ切ったような声で言う。「頭を冷やせよ親父。僕に怪我を負わせたのは軍人か? 魔族だろ」
「黙ってろ」
父親は奥歯を噛み締めた。
「お前の代わりに、この女がその魔族にぶっ飛ばされていればよかった。ローゼの代わりに、こいつが殺されていればよかった――」
エルナは身体中が一気に熱を失うのを感じた。
彼女の中にある憎しみの感情が、鎌首をもたげる。
流すんだ。ちゃんと冷やして、沸騰を抑えるんだ――
腰にくくったダガーに、震える右手が伸びる。
しかしそれよりも早く、パウルがベッドから起き上がる。
一瞬、なにが起こったのか分からなくなった。
鈍い音がした。
いつの間にかパウルの父親が床に横たわっている。右の頬を抑えていた。
「ふざけんなよ親父!」
パウルが絶叫した。右手が硬く握られている。
彼が父親を殴ったのだ。
エルナは伸びかけた手を下ろす。
パウルの顔を見た。怒りの形相だった。
「親父、悪いけど僕は退院したらこの村を出て行く」パウルは胸で呼吸しながら、感情を抑えて言う。「僕は、軍に志願する。口だけ出してなにもしない、親父やほかの偏った連中とは違う。なにを言われようとも、僕は行く」
低い唸り声を上げながら、父親は立ち上がる。
「――この女に、唆されでもしたか」
「違う。自らの意思だ!」パウルははっきりと否定する。
ほんの数秒、父親は病室の床を見つめていた。
「そうか――勝手にしろ」
彼はドアを開けて、病室を出て行く。
部屋には唐突に静寂が訪れた。
「――パウルさん、いいんですか? お父様が」
「言ってはいけないことを、あの人は言った。もう、父親でもなんでもありません」
パウルの顔には怒りの皺が刻まれている。
それはたしかに、決別を表していた。
それからほどなくして、エルナも病院をあとにした。
帰り際にはパウルから何度も繰り返し謝罪を受けた。彼は来たときよりもずいぶん疲れ切った顔になってしまっており、エルナは返す言葉が見つからなかった。
きっと――いや必ず、彼はルーンクトブルグの兵士となるだろう。
今でさえ、あの見識と機転を持ち合わせている。
訓練を受け、実践を積めば、優秀な軍人になる。
エルナは帰りの列車に乗る前に、村の北側の草原へと向かった。
三体のオーガーが現れた場所だ。
そこはもともと、美しい緑色が風でそよぐ牧草地帯であったが、今は無数の凹凸が出来上がってしまっている。掘り返したように地面がめくり上がっており、オーガーの残骸が転がっていた場所は黒く変色していた。松明の火が燃え移ってしまったのか、何箇所か焦げあとも見受けられた。
エルナは漫然とそれらを見渡す。
辺りにはだれひとりいない。声も聞こえない。
見渡せども、しだいにその景色は目に映らなくなってゆく。
彼女はまた、どす黒い感情を腹の奥底から引き上げる。
不快な色をしているし、不快なにおいのするそれを、たぐり寄せる。
母親の咎めるような目を思い出す。
バルテル少尉の心配そうな表情を思い出す。
あの医者の粘ついた嫌みを思い出す。
パウルの父親の罵声を思い出す。
それは全て、極めて意識的な行為だった。
悔しさか、妬みか、情けなさか、怒りか。名前はついていない。
ただその悪魔的な感情は、彼女が抱えきれない量であることはたしかだった。
動悸がする。
こめかみにしわが寄る。
目が血走って、瞳孔が開く。
唇が歪んで、歯がむき出しなる。
「ああああああああああっ!」
エルナは喉から血が出そうなほど、強く叫んだ。
叫びながらダガーを抜く。震える両手で握りしめる。
父親の形見のダガーを、握りしめる。
(グレッジャー)
彼女はそれを呼ぶ。
それは返事をしない。
だが、彼女の瞳はすでに黄色から禍々しい黒に変色していた。
ダガーの刃からはまるで毒ガスのような不気味な気体が発生している。
(お願いグレッジャー。食べて)
エルナは両手でダガーを逆手に持ち、自らの腹へ、深々と突き刺した。その手の動きは、衝動的な所作というには少し違う、どこかしなやかな動きだった。それはとても日常的な要素を含む、まるで馴染みの神様へささやかな平和を祈るような、そういう行為だった。
そのまま膝をつき、彼女は横に倒れこむ。視界が横転する。
腹部には一瞬痛みが走ったが、すぐにその痛みは消える。
少しずつ、快楽が襲ってくる。
彼女は途切れとぎれに、言葉にならない喘ぎ声を上げる。
(もっと――そう、いい子。そのまま全部、食べ尽くして)
ダガーを刺したところから、全身に快楽が浸みわたってゆく。
彼女はそれをほんの少しも取り逃がさないように、身体を揺らし、貪る。
それは、清らかな渓流の水を飲んでいる感覚にも似ていた。
身体の古い血液か、どんどん入れ替わっていく。
新鮮な空気を求めて、エルナは何度も大きく息を吸う。
そして、快楽は数分で頂上に達する。
彼女は痙攣を伴いながら果ててゆく。
腹部から刃をそっと抜く。傷付いてはいなかった。
そのまま芝生の上にダガーを放り、エルナはしばらくのあいだ、快楽の余韻に浸っていた。
身体中に汗をかき、髪が額《ひたい》に張りついている。口からは唾液が漏れ、頬を伝う。心臓が早く、そして強く鳴り響いている。ほんの少しだが、失禁した。下着が濡れているのがわかった。
そのまま眠ってしまいたい気持ちだった。
膨らんでいた黒い感情が吐き出され――もとい、食べ尽くされて、エルナはつかのまの高揚感を得ていた。
涙が溢れた。彼女ははっきりと、罪の意識を感じる。たった今自分がした行為は、他人の金銭を強奪したり、暴力で女に淫行したり、人を大量に殺めたりするのと同じ種類のものだということを思い出す。
にもかかわらず、エルナは許されることを願った。
自分の母親や、神様や、オシュトローの村民や、世界そのものに、許されたかった。
そしてだれより、父親に許されたかった。
「ごめんなさい。お父さん」




