駅前にある花屋さんで、たくさん咲いていたんです。
オシュトロー行きの列車は、とても空いていた。
彼女は四人がけのコンパートメントを独り占めにして座っている。傍らには、紫と赤の混じった花束が置かれている。
彼女は車内で、今朝母から届いた手紙を読んでいた。
内容は普段とあまり変わらない。田舎に住んでいる母からは毎月手紙が送られてくるのだ。主がお怒りになる前に戦へ加担するのをやめてほしいだとか、早く故郷に戻って祝福を受けるべきだとか、そういうことがつらつらと書かれている。弱々しい、細い字もいつもどおりだった。
彼女の母親は、もう十何年も前に夫を亡くし、それをきっかけに熱心な宗教家となった。最愛の人を失った彼女の心の穴に、優しく語りかける神の言葉がぴったりとはまり込んだのだ。
一行空けて、手紙の最後には送金依頼が書き込まれている。
これもいつものことだ。
彼女の母親は――はっきりとは言わないが――主の望まぬ道を進んでいる(ことになっている)咎人である彼女は、金銭的な援助を行って当たり前なのだというふうに思っている。だから、いつも手紙の最後に金額を記入する。あなたはこうしたかたちで、主の加護を望んでいるふうに行動しなければならないのだと。
とんだけちな神様がいたものだ。彼女は思う。
彼女は手紙を丁寧に折りたたみ、ポケットへしまい込む。
そして、小さくため息をついた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「まだ容態は完全に回復していないんだからな。あまり負担をかけるなよ」
医者は嫌悪感を隠そうともせずに、ぶっきらぼうな口調で言う。
「――はい。注意致します」
オシュトローにある病院を訪れた彼女は、医者のもの言いにたじろぐ。医者は遠慮もなく「軍人がなんで来るんだよ」と悪態をついた。粘ついた言い方だった。
彼女はその医者の言葉を聞いて、息が止まり、まばたきができなくなる。
ときどき味わう、苦々しい感情だ。
頭のてっぺんからすうっと熱が抜けていくのを感じる。
そしてすぐに、身体の内側で煮えた黒い液体が水位を上げてくる。
流すんだ。ちゃんと冷やして、沸騰を抑えるんだ。
彼女は息を吐いて、その声を振り切る。
その手にしっかりと花束を抱え、奥にある病室へと歩いていく。
病院といっても、ここはオシュトローの村の南にある小さな診療所だ。
玄関口はお世辞にも衛生的とは言えないほど土で汚れているし、先ほど面会を申し出た医者も、白衣なんてもう十年は着ていないような、無精ひげの男だった。病院特有の消毒液のにおいもしない。
患者が使えるベッドは二つだけだ。
病室に入ると、その青年は明るい笑顔で彼女を迎え入れた。
「ヒルシュビーゲル少尉!」
パウルははつらつとした声で叫ぶ。
「だめですよ! パウルさん」エルナは苦笑いで返す。「そんな大きな声をだしちゃ。お医者さんに叱られます」
「大丈夫です。もう痛みはかなり引いてきましたから」パウルは声をひそめる。「それに、いいんですよ少尉さん。あんな藪医者気にしないで。大した治療もしてないんですから」
彼の顔は、病室に差し込む日の光に照らされて、とても血色がよく見えた。白いシーツのベッドに上半身だけ起こしており、小さな文庫本を持っている。
エルナはほっと胸をなでおろす。
オーガーの襲撃があった日から、三日が経った。
オシュトローには、無事に平穏が訪れているように見える。壊された家々の瓦礫は八割ほど撤去され、畜舎についても今は更地になっている。おぞましい色をしたコカトリスの羽は、もうどこにも落ちていない。
村はいたって平穏に見える。しかし、たしかに爪痕が残ったのだ。
それは物理的に壊された建物でもあり、さきほどの医者の態度でもあり、目の前で笑っている青年でもあった。
エルナは襲撃のあった翌日、一度首都へ戻った。
中央本部へ出向き、状況の報告を行った。その日のうちに上官へ申請を上げ、今日一日だけ、休暇をもらった。
朝早くに家を出て、途中花屋に寄り、オシュトロー行きの列車に乗った。
「わざわざ花まで――本当に、感謝します」
パウルはそういって花を受け取る。紫色と赤色の混じったビオラの花だ。
「首都の駅前にある花屋さんで、たくさん咲いていたんです。寒さに強いですから、これからの季節でも楽しめますよ」
エルナがそう言うと、パウルは「やっぱり女性はこういうセンスがありますよね」だとか「どうしましょう、これに合う花瓶をうちから持ってこないと」だとか、ばたばたとせわしなく両手を動かし始める。
「元気そうで、本当によかったです」エルナは少し首を傾げて笑った。「パウルさん。改めて、あのときは本当にありがとうございました。パウルさんの機転がなかったら、私は今ごろあの巨人のお腹の中に収まっていたと思います」
パウルは恐縮したように手をぶんぶん振る。
「そんな、あのときはとにかく必死で、まあこんな村なんで使えるものも縄くらいしかなくて。僕は、お礼を言われるようなことは全然していません」
そう言って白い歯を見せて笑う彼は、顔色こそ良かったものの、前に村であったときに比べると、痩せているように見えた。やはり、あまりきちんと食べられていないのだろうか。
「それと――」エルナは少し目を伏せる。「このたびは、我々の部隊が村の警護にあたっておきながら、あなたには大怪我を負わせてしまいました。今日は、改めてお詫びに伺った次第です。本当に、私が不甲斐ないばかりに――申し訳ございません」
今日エルナは、謝罪に来たのだった。
通例としては、(死者が出た場合はともかくとして)たとえ民間人に怪我人が出たとしても、こうして頭を下げるようなことはあまりない。
今回は、総じてエルナの個人的な面会であり、感情的な理由だった。
パウルは両目をまん丸にして驚いていた。
「な、なにを」口をパクパクさせて言う。「少尉さんが謝ることなんかじゃありません。相手はあんな化け物だったんですよ。むしろ全力で戦ってくれたことに、僕らが感謝すべきところなのに」
「いいえ、パウルさん。そうではないんです」エルナは彼の目を見る。「私自身が、謝らなければ気持ちが治らないんです。言ってしまえば、わがままですね。本当に、迷惑な話ですけど」
あの日、エルナの部隊が相手をしていたオーガーは、結局陸軍兵の力を借り、パウルの――民間人の青年の力まで借りて、多数の召喚獣を損耗させあげくに、やっとのことで撃破に成功した。
息も絶えだえに、やっと一体をねじ伏せたその光景を見て、エルナは呆然としていた。
召喚術師たちは数名怪我をし、痛みに唸っている者がいる。魔導衛生兵が足りず、応急処置も後手を踏む。途中で返戻を余儀なくされた召喚獣はおよそ三分の二。圧倒的に火力が足りなかったのは仕方がないにしても、他に策はあったはずだ。
あの部隊の指揮官として、至らないこと、この上なかった。
だって、ロープ一本で戦況を変えられたんだぞ。
それをやったのは誰だ? 村の青年だ。
情けなかった。
エルナは討伐直後の我が部隊のありさまを、オーガーの死体を、塗りたくったような黒の夜空を、眺める。
脚がずきずきと痛む。
歯を噛みしめる。
自分の顔を拭う。オーガーの背から吹き出た黒い血が擦れる。
汚らしい。
血を被ってまで奮闘して、このざまか。
このざまかよ。
自分がこの上なく、腹立たしい。
戦闘が終わったバルテル少尉が駆けつけてくる。
大丈夫か。怪我はしてねえか。
彼はこちらを心配して、声をかける。
大丈夫です。少し、脚を痛めただけで。
そう答えた気がする。
彼の部隊はほとんど兵を損耗せず、バルテル少尉自身も無傷だった。
はらわたが煮えくりかえるほど、悔しかった。
そして今回の襲撃で民間人にけがを負わせたのは、エルナの部隊だけだった。
彼女は首都に戻ってもずっと、喉につっかえてずきずきと痛むものを感じていた。オシュトローにはまた訪れなければいけないと、感じていた。
訪れてなにをするのが正解かは、実際のところエルナもわからない。パウルに謝罪をして、それで解決することなのかもしれないし、何度村に来たところで、なにも変わらないのかもしれない。
でも彼女は、オシュトロー行きの列車に乗らずにはいられなかったのだ。
病室の外で、乱暴な足音が鳴り響いた。




