あいにくだが、治療薬もなにも持っていない。
テオ・ザイフリート少佐は、ほとほと困り果てて、げんなりしていた。
なかなか休暇がとれない軍部の体質そのものも大概にしてほしいが、それは四の五の言っても仕方があるまい。軍人である以上は、望むか望まざるかにかかわらず、受け入れなければならないことが多々ある。こうして、気兼ねなく市街を歩き回ることができるだけでもありがたいと思わねばならない。
その日は久しぶりの休暇だった。しかし、やることがない。悲しいほど自分は仕事人間なのだと実感する。
テオ・ザイフリートはルーンクトブルグ連邦共和国の軍人だ。
明るい茶色の髪を短く刈り上げており、細身だがよく鍛えられた、軍人らしい身体つきをしている。髪と同じく茶色の瞳を持っていた。年齢は今年で二十三になる。ただ実際、年齢についてはいつから数えるかによっても変わってくる。
この国の首都「マルシュタット」の中央通りはどこも混んでいて落ち着かなかった。少し歩いたところ、路地裏に隠れたパブを見つけたのでベルを鳴らしたが、テオは後悔した。そこのビールは驚くほどまずかったのである。つまみもずいぶん、しけっている。
げんなりだ。
しかし今、それ以上に困り果てているのは、目の前に突如現れた魔導師の女から、とうてい聞き入れることなどできないような申し入れがあったからだった。
その魔女は、自分を撃ち殺してくれと言うのだ。
「あなたのことはすでに調べさせてもらっています。諦めてください」
薄汚い店でビールとカシューナッツをお供に、ほんのひとときの「孤独」な時間。考えようによっては、贅沢な時間だ。
そんなささやかな時間を過ごそうとしていたテオの前に彼女は座り、さも当たり前に、注文する。
「あ、すみませんビールひとつ」
店主はしわがれた声で応答した。
何食わぬ顔で、魔女は続ける。
「探しましたよ。でもどうして中央通りからこんなにはずれたところに? パブ巡りでも趣味にしているんですか? まあ、見つかったので理由はなんでもいいんですけどね。むしろほかに客がいないので、私としては好都合です」
さて、この子は誰だ。
年齢は十五歳か、もう少し幼いくらいにも見えた。一瞬、その外見でビールはいかんだろうと叱りそうになったが、思いなおした。それは前の世界での話だ。
「この店のビールはおすすめしない」テオはその少女に向かって言う。「たぶん、大麦のほかにけっこうな量の混ぜものが入っている。品質が安定していないのはここに限ったことじゃないかもしれないけど、それにしたって、ここのはひどい」
「でしょうね。こんな店ですし」彼女はテーブルの縁をなぞった。なにか黒い煤のようなものが指先に付着した。顔をしかめる。「汚いし、かび臭い」
その少女は古風な魔導師衣装を身につけていた。大きなつばが広がった三角帽子に、長いローブを羽織っている。どちらも深い紺色に染めた、つやのあるビロードの布が使われていた。
長く伸びた黒髪は、腰の辺りまで届いていた。左手の小指に、青い宝石の小さな指輪をはめている。
「テオ・ザイフリート少佐ですね」彼女は階級付きでテオを呼ぶ。「ルーンクトブルグ連邦共和国軍の軍人で、第2魔導銃大隊所属。同大隊指揮官。今日は休暇のようですが、愛用している武器は小型のため、あなたがそれを日常的に携帯されていることも知っています。魔導銃『ノヴァ』は火属性の一点物。他人には扱えない、あなた専用の兵器です。射程距離は魔力1ワイズ当たり250メートル、銃口インピーダンス1530ohm――」
もういい、わかったと、テオは彼女を止めた。
「いいか。なんでそこまで知っているのかは知らないが、こんなところでべらべら喋られると困る」
「ふむ、たしかに。一応戦時中ですしね。もしかしたらあの店主がソルブデンの諜報部隊という可能性も」彼女が言いかけたタイミングで、店主の老人は大きなげっぷをした。「うげえ……ないですね」
「まあとにかく、戦時中。そのとおりだよ。こうして休暇がとれる程度には、今は落ち着いているけど。わかっているなら、やめてくれるね?」
「ええ。私も軍人ですから」
なんだと。
ほんの少しの間があった。
それを見計らったみたいに店主がジョッキを運んできた。
「そうか、そうなのか。ならばなおさらだ。常識をわきまえてほしいね。そろそろ教えてくれ、きみは――」
「まあとにかく乾杯しましょう」魔導師の少女はジョッキを掲げる。「今日は記念すべき私の命日になるかもしれないんですから」
強引にジョッキをぶつけ、彼女はぐいぐいとビールを喉奥へと流し込んだ。「ふう――本当ですね。おいしくない」
しかたなしに、テオもビールを啜る。しけったカシューナッツも、口に放る。
「さて、おれはもう帰る。お嬢さんもあまり遅くならないうちに」
「えーっ! 私、今飲み始めたばかりですけど?」
「知ったことじゃない。だからきみは誰なんだ? どこの魔導部隊だ?」
軍人であるならば、その被服の趣向から魔導部隊の所属であることはある程度予想がついた。
「うーん、別にいいじゃないですか。これから殺す人間の名前なんていちいち知らなくても」
テオは頭をかかえる。「だから、先から言っているそれはいったいどういう意味なんだ? 死にたくて仕方がなくなる新しい伝染病かなにかか? ずいぶんな奇病だな。あいにくだが、治療薬もなにも持っていない。他を当たってほしいところだね」
彼女はふーっ、と大きくため息をつく。
よく見れば、深く黒々としたきれいな瞳をしていた。こんなふうに頬杖をついてちびちびとビールを飲み、人のつまみに断りもいれず手を出している状態で出会わなければ、いくぶん可愛らしく見えたかもしれない。
「ため息をつきたいのは、こっちなんだか」
「――私はあなたがなんて呼ばれているのか、知っています」
カシューナッツを咀嚼しながら喋らないでほしい。
「『不死身殺しのザイフリート』。そうですよね? まったく、センスのない異名ですね」
「余計なお世話だ。おれがつけたわけじゃない」
「でもその異名は、私にとって希望なんです」
希望。彼女は唐突にそう言った。
ふだんの生活ではあまり使わない言葉だし、出会わない言葉だとテオは思った。「絶望」なら戦場にたくさん転がっているが、希望はめっきり見かけない。
不死身殺し。テオが大尉に昇進したころに呼ばれはじめた異名だった。矛盾を含む単語はなぜだか世間に受けがいい。その呼び名が行き渡るのはずいぶんと早かった。
テオが愛用している魔導銃「ノヴァ」は、これまで多くの敵戦力を殲滅してきた。膨大な火属性の魔力を消費し、可動する銃だが、火属性であるにもかかわらず、実際に出力銃口から吐き出されるのは細く収斂された光の束だった。
原理については詳しく知らされていないが、ただその閃光と威力は前の世界で見聞きしたことのある「荷電粒子」だとか「電磁パルス」といった兵器を思い起こさせた。
率直に言って、この世界の文明レベルとは整合性がとれない。ノヴァが存在すること自体に、テオは少し違和感を感じていた。
「ザイフリート少佐。あなたが持っている魔導銃なら、私を死に至らしめることができるかもしれないんです。お願いです。私を撃ち殺してもらえませんか?」
そのとき、店の外から人の声がした。
怒鳴るような男の声。それに、途切れとぎれだが女の悲鳴も聞こえる。
「なんだ?」
「ずいぶん賑やかですね」
首都マルシュタットは、近衛兵や憲兵が多く駐留しているおかげか、地方に比べるといくらか治安が良い。中心部の市街地はレンガ造りの建造物が建ち並び、行き交う人々も多く、市場も活気がある。
しかし、中央通りを少し逸れるだけでいささか胡乱な種類の人間もいるようだ。
様子を見てこようと、テオは立ち上がった。