黄色い半月がじっとこの世界を監視していた。
巨人型魔族の出現を受けて、ルーンクトブルグ軍は掃討戦を開始する。
第六話はけっこうがっつりバトル回です。
僕が育ったのは、明らかに機能不全を起こした家庭だった。
父親は暴力で子供を伸ばすことができると思い込んでいたし、母親が見ていたのは我が子の目ではなく、狭い交友関係の中での体裁だった。
そんなところに生まれて、僕は、人生最初の関門であった中学受験に失敗した。
(あんたをあんな荒れた公立中に入学させるなんて、あたし耐えられない)
母親が「荒れた」と表現する中学校は、言うほど素行の悪い生徒が集まっているわけでもない。彼女のものさしでは、という意味だ。「耐えられない」というのも、僕の身を案じてという意味ではない。世間体が傷つくのが嫌なだけだ。
(高校受験では頑張るから。だからそんなこと言わないで)
幼い僕は、なんとそんな健気なセリフを口にしていた。
まったく、頭がおかしいとしか言いようがない。
受験期にはそれなりにあると思っていた集中力が、中学校に入ると不思議と削がれていき、勉強にはてんで身が入らなくなった。父親に怒鳴られ、母親にため息をつかれる毎日が続いた。
結局高校は、真ん中よりわずかに偏差値の低い、中途半端なところに収まった。
そのころ、両親の関心はほとんど妹に乗り替わっていた。
僕とは正反対で、妹は溺愛されていく。
両親は当然、僕にも妹にも平等に接しているという顔で生活をしていた。等しく愛を注いでおり、どこから見ても実に健全な家庭であるかのように振舞っていた。
父親は難関私大を卒業し、大手の総合商社で重役を担っていたし、母親は「御三家」なんて言われている女子大の出身だった。
もしかしたらこういう種類の人間には、自分たちがどう子供を扱っているのかなど、自覚できないのかもしれない。僕はそう思うようになっていった。
それがほぼ確信となるまでに、そう長い時間はかからなかった。
結局、妹もまた両親を満足させるような子供ではなかったのである。
彼女は両親に望まれた進路をとることができず、両親に望まれた交友関係を築くこともできなかった。また、大きな声で泣くことの多い子供だった。
身体もあまり丈夫ではなく、長時間の運動は彼女にとって危険だった。そうしたハンディキャップについて、両親は哀れむことはあっても、理解することはなかった。
幼い頃の溺愛はどこへやら、両親は二度も同じことを繰り返した。
学習をしない人間である。そんな人間から生まれた子供が、どうして思い通りに人生を歩むことができよう。
ちょうどそのころから両親の夫婦仲はぎくしゃくし始め、家庭内での会話を聞くことはほとんどなくなっていた。
妹は僕と一緒に、両親に対して怒ってくれた。
いつの日か、こんなことを言っていたのを覚えている。
(お兄ちゃん。私たちはいつか、あの人たちから離れて、目の届かない遠くへ行くべきだと思うの。絶対に干渉されない、遠くへ。できれば、違う世界がいいくらいだよ)
体力面でハンデがあろうとも、彼女はとても明るい子だった。
表情豊かで、大きな声で笑い、大きな声で泣く妹だった。
彼女は、うんと小さいころからよく僕に懐いていた。
遅くまで公園で遊び、疲れて寝てしまった彼女をおぶって帰るのは、僕の役目だった。学校で嫌なことがあり、親にばれないよう自分の部屋でこっそり泣いていた彼女の涙を不器用な手で拭ってあげるのは、僕の役目だった。
僕が死ぬまで、彼女は僕を慕ってくれていた。
高校での僕は、クレー射撃の動画を見漁るようになった。
なにげなくリンクを見つけ、サムネイルが気になり、再生したのが始まりだった。
クレー射撃は、フリスビーのような素焼きの皿を撃ち壊して合計点数を競うスポーツである。
標的に向けてまっすぐ散弾銃を構えている射手に、僕は見とれた。ノーミスでクレーを狙撃していく、元米軍だという髭の男が、無性に恰好よく見えた。
散弾銃の所持は、この国の法律では二十歳を超えなければいけない。だが大学のサークルに所属することで、十八歳から入手することができることを知った。
近くでクレー射撃のサークルがある大学は、僕の通う高校から考えると明らかに偏差値が高く、相当な背伸びだった。なにせ、周りの友人たちはまず大学に進学するかどうかから考え始めるような高校だ。専門学校や、そのまま就職の道を選ぶ者もたくさんいた。
でも、僕は撃ちたかった。
散弾銃を入手すること。これだけを動機に、僕は勉強した。
銃のことを考えれば、親の顔が脳裏をよぎり邪魔してくることもなくなった。僕は勉強には集中することができた。
もっともそのころには両親ともに別の異性を見つけており、離婚をどう穏便に片付けるかに執念を燃やしていたから、邪魔をされることはなかった。
いつの間にか、父親は家からいなくなった。
僕は大学に合格し、クレー射撃のサークルに入部した。
申請書類を警視庁のホームページから落とし、記入した。いくつかの試験を受けて、並行してアルバイトを行い、購入資金を貯めた。
教習の際、初めて構えた散弾銃は、想像以上に重く、冷たかった。
しかし、それがとても心地よかった。
射撃場で繰り返しクレーを射るのは、この上ない快感だった。
僕は、サークルの同期の中で、群を抜いて上達してゆく。
夏頃、僕は初めて大会に出場する。
僕にとってはそれが最後のクレー射撃となる。
社会人も多く参加するその大会で、競技中の年配の男が散弾銃を暴発させ、弾が僕の脳天をぶち抜いた。
緊急搬送された病院で、僕は母親の顔と、妹の顔を見た。
妹は泣いていた。頬が濡れていた。
彼女をこの世界に残して、僕は死ぬのか。
それは、ひどく残酷なことのように思えた。
いっそ、彼女も引き連れてこの世を去りたい。
最愛の妹だったのだ。
一方で、母親の顔は――覚えていない。
いったいどんな表情をしていただろうか。
覚えているのは、朦朧とした意識の中、僕は指をピストルのかたちにしたこと。
そしてそれを母親の眉間に突きつけたこと。
そのときの僕がもし口を動かせたなら、こう言っていたのだと思う。
(撃ち殺してやる)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――少佐? ザイフリート少佐?」
声がする。
「少佐、大丈夫ですか?」
テオは両肩を回し、軽く伸びをした。
「きちんと仮眠できましたか?」
声の主はフィルツ大尉だった。
「――ああ、大丈夫だ。もう時間か。状況はどうなってる?」
「特に異常は確認されていません。時刻は2300。ちょうど三十分前の定時交信でも、報告は上がっておりません。まだ魔族はどのエリアにも現れていないようです」
大尉が状況を説明した。アサルトライフル型の魔導銃をローレディ・ポジションで構えている。
バルテル隊を除く第2魔導銃大隊は、炭鉱の町ヴォルケンシュタインの警護及び、巨人型魔族の迎撃任務に赴いていた。
二日前、オシュトローにいたバルテル隊とラングハイム中尉から司令部に報告が入った。あのコカトリスの残り七体が、近くの森で発見されたのである。
それは明らかに捕食されており、中尉の検証ではオーガーやサイクロプスといった巨人型魔族の仕業である可能性が高いということだった。
テオたちは、ヴォルケンシュタインの北側にある堡塁を使い、交代で歩哨を行なっていた。
堡塁とは、石を組み上げて作られた小型の砦である。小さな民家くらいの大きさで、内側には足場があり見晴らしがよい。この町の見張りには最適の場所だった。
もっともこの堡塁は現役ではなく、もう何百年も前に作られてそのまま放置されているものだった。そのため草木が生い茂り、ほとんど表面を覆ってしまっている。
大隊規模での派兵で、人数も相当だ。ひとつの堡塁では自軍を賄えないため、砦は本部とし、広範囲に部隊を散開させている。
また、別の魔導軍や陸軍の歩兵部隊もオシュトロー周辺に散らばっていた。他国との交戦を除き、テオの経験上ではもっとも大規模な派兵である。
テオは堡塁の内側の石壁に背をもたれて、仮眠をとっていた。
「少佐、少しうなされてました。大丈夫ですか?」
フィルツ大尉が心配そうな顔を浮かべてテオを覗き込む。
テオの目には、小さな女の子の泣き顔が焼き付いていた。
手を伸ばして涙を拭おうとしても、届かない。目の前にいるのに、今にも崩れてしまいそうなのに、触れることができない。
そして女の子は、顔のない男と女に連れていかれる。
いつの間にかテオは散弾銃を構えている。女の子を連れ去った者を撃とうとするが、四方八方から円盤が飛び交い、狙いが逸れてしまう。
撃ち殺してやりたいのに、当てることができない。
テオは焦っている。
気がついたら、今度は足元に横たわっている小柄な女性がいる。ルーンクトブルグ兵の軍服を着ている彼女はテオの足を掴み、離そうとしなかった。
顔はうつ伏せのためよく見えない。だが、テオには彼女がどんな顔をしているのかがわかる。
それが誰だか、わかっている。
わかっているから、なおさら怖くて見ることができない。
そうこうしているうちに弾が切れ、テオは呆然とする。
おれは、救えなかったんだ。
また、あの夢だった。
それははっきりと、よくない兆候だった。
「ああ、気にするな。大丈夫だ」
「――でも」
「大尉も寝てないだろ。少し仮眠しろ」
フィルツ大尉は煮え切らない表情でテオを見ていたが、やがて壁際に腰をかけて目を閉じた。
入れ替わりにテオは立ち上がり、外を見渡す。
辺りはとっぷりと夜の闇に溶かされている。目の前には森が不気味にざわめいており、濃い腐葉土のにおいを運んでくる。空に雲はなく、星が輝いている。黄色い半月がじっとこの世界を監視していた。
ときおり移動する自軍の兵士たちの動き以外に、生き物の気配はない。
テオはなにもない暗闇に向けて、魔導銃を構えた。ノヴァの冷たい銃身が月の明かりを反射する。
夢を見ると、撃ちたくなる。
以前はこれが頻発する時期があった。
あまり好ましい傾向ではないことは、自覚していた。
それは、銃を向けられる相手にとっても、銃を向ける自分自身にとっても。