今のこの距離くらいが、店と常連客の距離としてちょうどいいと思うの。
「ああどもども。みなさんお揃いなようで」
スズは店内を見渡す。「ニコルはまだですかね? 衣装選びに難航していると聞いていましたが、ちゃんと決まったんですか?」
「今日は普段着でいいと言ったんだがな」テオは後頭部をぼりぼりと掻く。「あまり服装なんて気にするほうじゃないと思っていたんだが、選び始めると終わらない。どれもあまり変わらないのに」
マルタが口を尖らせる。「聞き捨てなりませんね中佐! 女性はみんなプリンセスなんですよ!」
テオは女性陣からやいのやいのと叱責を受ける。バルテル中尉がもっとやれ、手加減するなと野次を入れる。
さて、スズ・ラングハイムの「同世界転生」は、無事に成功した。
彼女はもう不死身ではない。ナイフで切りつけた傷は治るのに時間がかかるし、銃で撃たれればたいていの場合死ぬ。また普通の人間と同じように、時間をかけて老いていく身体になった。
だが転生前と後とでどんな変化があったかと言われれば、テオは答えに窮する。「死にたがり」こそ落ち着いたが、豪胆で適当な態度はそのままだったし、見た目だってまったく変わらない。
特筆すべき出来事としては、まず第一に、スズのエリクシルが取り出されたことだ。
わかっていたことだが、世界中の国が喉から手が出るほど欲しがっている魔鉱石が、突然手に入ってしまった。テオとレオンは協議した上で、軍部への報告は行わないことに決めた。クンツェンドルフ中将始め今の上層部を信用できないわけではないが、この石は人を変える。新たな火種をあえて投げ込むのは、まったく得策ではないと判断した。
それから第二に、スズは魔族掃討戦が落ち着いたころにあっさりと軍をやめてしまった。それはなんとなくテオは予想していた。彼女が不死身ではなくなったことが知られれば、遅かれ早かれエリクシルのことも勘づかれてしまう。そういう意味でも、懸命な判断だとテオは思った。
バルバラがカウンターの奥から声を上げた。
「それはそうとねスズちゃん。入り口で立ち話もなんだから、後ろの子も一緒に早く入ったらどうだい?」
ドアの陰になっているところに誰かがいるようで、スズはその人物を中へ引き入れようとしている。
「わ、私はやっぱりいいよ……スズひとりで楽しんできてくれていいから」
「なに言っているんですかここまで来て。あなただって楽しみにしていたじゃないですか」
「そうだけど、でも話せる人、いないし……うわっ!」
腕を引っ張るスズの力が勝り、隠れていたもうひとりの人物が店に転がり込む。
ほとんどのメンバーは、その見知らぬ少女にしばし無言になる。
ほっそりとした華奢な体格はスズにそっくりだ。少しウェーブのかかった短い黒髪に、同じく黒い瞳。特徴のないシンプルな白のブラウスに細身のチノパン。
リンと面識があるのはテオとレオンだけだ。彼女はスズと同じように、あのブラウワー邸の地下の祭壇で「同世界転生」を行った。
スズと同様に、エリクシルもまた取り出された。二つまとめて今はレオンが管理している。方法さえわかればまとめて壊してしまう予定だが、現状は手立てがない。ユニス・ラングハイムの文献をもう一度ひっくり返す必要があり、レオンの見立てだと二年はかかるとのことだ。
「もう歩けるようになったのか。経過は順調みたいでよかったよ」とテオは言う。
「ほら、ほかの皆さんにも自己紹介してください」
スズに促された彼女はしばらくもじもじとしながらテオを見て、レオンを見て、それからまたスズを見る。スズは頷く。
「リン=ラフォレ・ファウルダースです」
リンは深々とおじぎをする。
彼女は両脚が機能しないため、長年車椅子を使っていた。だが今日はきちんと二本の脚で、ほとんど違和感なく立っている。
「成功したようだね」と、レオンが言う。
近くにいた連中から順次自己紹介が始まり、また店内は賑やかになる。恐るおそる、慎重に距離を測るような雰囲気のリンだったが、次第にその表情が晴れていった。ステンノーが魔族だと聞いてそうとう驚いていたが、なんとなく波長が合ったようで、結局レナエラたちの席に落ち着いた。
「そういえばリンとステンノーは、オルフ大戦のときの『戦友』ということになるのか。面識はなかったみたいだが」
スズがバルバラにビールを注文し、テオのとなりに座った。「同年代ですしね。数百年の誤差はあるかと思いますけど」
ユージーンがけらけらと笑った。「同世界転生なんて本当に可能だったんだな。これがもっと一般的な召喚術になれば、誰もが繰り返し生まれ変われるというわけか」
「いいやユージーン。肝心なことを忘れています」スズはジョッキを軽く上げて言う。「心残りのある死でなければ、転生は実現しません。たかだか二回――フォルトゥナも含めれば三回ですが――の事例ではまだまだ実用化は無理ですね。誰も無駄死にするリスクなんて普通とらないでしょう」
「いっぽうで、その『心残り』のハードルが近年急速に下がってきている。最新の情報によれば、この店でみんなで酒を飲みたいというだけで、同世界転生が成功した事例もあるようだ」
真顔で言うレオンに、テオとユージーンは吹き出した。
スズはてっきり怒り出すかと思ったが、彼女は一緒に笑い声を上げた。
「案外人間は、どうでもいいことと大切なことの分類が上手じゃないんですね。だからしょっちゅう後悔するし、予期せぬ幸せを感じたりする。私は、テオとニコルのこういう場に居合わせることができて、嬉しいんです」
「五百年生きてそうなセリフだった」とユージーン。
「年寄りくさいところが評価できるな」とテオ。
今度こそスズは二人に殴りかかった。
そのときまたまた店のドアベルが鳴る。
「ああもうごめんなさい! 予定より二十分も遅れちゃったわ。服が決まらなくて……」
ニコル・フィルツ少佐が転がり込むように入ってきた。
大通りの店で服を仕立ててもらってから向かうと言っていたので、いったいどんなゴージャスな姿で来るのだろうと、テオは半分楽しみに、半分不安な気持ちで待っていた。
だが現れた彼女は、いつも買い出しに行くときとさほど変わらない格好だ。青い薄手のブラウスにスカート、そして編み上げの靴は軍から支給されているものだった。
テオは立ち上がり、ニコルの髪を撫でてキスをする。
「待ったわよね? みんなも……」
「ああ、いや。見てのとおり皆自由でね。すでに赤い顔の連中が数名いる」
ニコルはバルテル中尉を見つけて、呆れた顔になる。
「少佐のドレス姿は式までお預けですかぁ……見たかったな」とマルタ。
「カジュアルなお店でドレスなんて着ないわよ。あれ動きにくいのよ? すぐに狙撃体制をとれない」
周囲で笑いが起こった理由に、ニコルはあまり気づいていないようだった。
そうだな。普段どおりがいい。
長く続いた戦争のせいで、正直祝い事に慣れていない連中だ。自分も含め――テオは思った。
「揃いましたね」
エルナがお店を見回した。
「今日の幹事を務めますヒルシュビーゲルです。本日はテオ・ザイフリート中佐とニコル・フィルツ少佐が、我々の知らぬ間に愛を育みあそばされ、来月無事御入籍される運びとなりました」
「なんか言葉選びに悪意があるな」と、テオ。
「彼女は妬みを持たない。あれが素なんだろう。多めに見てやってくれ」とレオン。
「お二人の門出を祝うかの如く、本日は大変お日柄もよく――」
「そういうのいらんぞ。早く飲ませろ!」と、バルテル中尉がやじる。
「うるさいですねヘンドリック。グレッジャー召喚しますよ」とエルナ。
「まあまあエルナさん、抑えて」とパウル。
気を取りなおして、エルナは咳払いする。
「本日バルバラさんのご協力もあり、このお店は貸切です。お料理はバルバラさんへ、飲み物はパウルへお申し付けください。ああ、いないと思いますが、ブラッディ・メアリーを飲みたい方はデニスさんへ」
デニスがふんと鼻を鳴らした。
「じゃあ乾杯の音頭ですが、事前にお願いしましたとおり、ステンノー・ゴーゴンさんにお願いしたいと思います」
ステンノーはきょとんとしてレナエラを見る。
「レナエラ、ステンノーはかんぱいのおんどについてよく知りません」
「伝わってないな」とテオ。
「伝わってないわね」とニコル。
「そもそも人選が斬新ですよね」とスズ。
レナエラは近くにあったジュースのコップをステンノーに渡す。
「ステンノーちゃんがみんなに伝えたいことを言えばいいんだよ。それと結婚する二人にお祝いのメッセージを伝えてね。それからコップを持ち上げて『かんぱい』って言えば大丈夫だよ」
「それならステンノーにもできそうです!」
意気揚々とコップを持ち、ステンノーは椅子の上に立ち上がった。リンとジルが慌ててぐらつく椅子を押さえる。
「ステンノーからのお願いです! レナエラはお酒を飲めませんので! みなさん調子に乗らないでください!」
一同「はい」と言った。
「知らない人とも仲良くしてください! ステンノーはいつもそうしてます! そのほうが楽しいです!」
一同また「はい」と言った。
「ええと、レナエラ。次はなんでしたか?」
「二人へのメッセージだよ」
「そうでした! ええと……テオはメデューサを殺してくれました。ステンノーは少し悲しいときもありましたが、今は大丈夫です。ありがとうございます!」
どういたしましてと言うべきなのか、テオは大いに迷った。
結局、ステンノーに見えるように頷くだけにした。
ステンノーは少しのあいだ首を捻っていたが、やがて言葉を続けた。
「テオとニコルは結婚します。でもレナエラは結婚の前に子供ができました。ニコルにはいつできますか?」
「えっ??!」
予期せぬ方角からの狙撃に、ニコルはにわかに狼狽する。
いくつかのテーブルで、何人かが盛大に吹き出した。
「そういえばステンノーはずっと知りたかったことがあります。これはどの本を読んでも書いていませんでした。人間の赤ちゃんはいったいどうやってでき――」
「わあああああ、か、乾杯!!!」
レナエラがステンノーのコップをひったくって、無理やり乾杯の発声をした。一部のテーブルが呼吸困難になっていたが、かろうじてグラスやジョッキを掲げ、皆無事に乾杯をやり遂げた。
乾杯を取り上げられてしまったステンノーはしばらくわんわんと泣いた。
レナエラがよしよしごめんねとあやす。
「最高の乾杯でしたね。これを見れただけでも転生したかいがあります」と、スズ。
「肝を冷やした」と、テオはビールをひと口がぶりと飲む。
バルバラがソーセージの盛り合わせを運んできた。香ばしいにおいがすぐに鼻をくすぐる。
「嬉しいわスズちゃん。こんなに常連さんを作ってくれてうちも大助かりよ。かえって思い出すわね。スズちゃんが最初一人で来たときのこと」
「いちばん最初ですか?」
「そう。カウンター席の端っこに陣取って、夜遅くまで深酒して、フラフラになって帰っていった」
「最初からそうでしたか……長年、迷惑をかけました」
スズは一度ジョッキを置き、深く頭を下げた。
バルバラは少し神妙な顔つきになり、スズの隣に腰掛けた。
「心配だったのよ。あまり自分のこと話さないし、それにいつも一人だった。失礼な話だけど、あんまり幸せじゃないんじゃないかって。しかも件の戦争が起きて、あなたもめっきり見かけなくなった。あのときは軍人さんだなんて知らなかったから、私本当に気が気でなくてね」
バルバラはまるで母親が娘にそうするように、スズの頭を優しく撫でた。
「ここはいろんな連中を相手にしている気軽なパブだから、いつ通い始めてもいいし、いついなくなったって構わない。今までも大勢そういう客はいた。でもスズちゃんだけは、なんとなく放っておけなかったの」
スズはバルバラの手を取り、膝の上に乗せる。
「バルバラ。心配をかけてごめんなさい。そのですね、信じられないかもしれませんが、私は――」
言いかけるスズに対し、バルバラは首を横に振る。
「言わなくていいわ。大丈夫、私はもう心配していない。それに今のこの距離くらいが、店と常連客の距離としてちょうどいいと思うの。これからもご贔屓にね。スズちゃん」
彼女は手を離し、カウンターへ戻っていく。
テオはそのときのスズの目を忘れないだろうと思った。
五百年も生き続けてきた彼女が、誰よりも経験と教養の豊富な百戦錬磨の軍人が、首都にいくつもあるありふれたビアパブの、とある店主の哲学に触れた。そのひと言はとてもさりげなく、ただ窓から入り出ていくだけの風のようにとるにたらない。
だがその哲学は、彼女にとってまったく新しい感動を与えた。
「そうだスズちゃん!」と、バルバラがふと思い出したように振り向く。
「なんでしょう?」と、スズは首を傾げる。
女店主は目線を少し下げ、細くした目でスズの頭のてっぺんあたりを見つめる。
そして言った。
「背、伸びたんじゃない?」
スズの目は弾かれたようにまん丸になって、しばらく空中を見つめていた。
スズはほんの数秒のうちに、いろいろなことを思い出した。
ユニス・ラングハイムの優しい顔。戦場で幾度となく聞いた兵士たちの叫び声。増えていく指輪の数。乱れた褥。リンとの出会い。魔族の大群。
そして、テオに撃ち殺された瞬間。
「――あっ」
みるみるうちに、黒く澄んだ彼女の瞳からは涙が溢れ出した。
スズは慌てて両手で顔を覆う。
バルバラが慌て出す。周りの皆も、なにごとかと心配し覗き込む。
五百年ものあいだ止まっていた彼女の時計が、小さな音を立てて動き出した。




