軽く手を挙げただけで、大した敬意も見られない。
その日、ルーンクトブルグの首都マルシュタットは雲ひとつない快晴だった。
初夏の風に吹かれて、街路樹はのんびりと揺れていた。青々と繁ったアカシアやカエデは我が物顔で通りに立ち並び、マルシュタット市民を眺めている。
中央広場には相変わらずたくさんの鳩が住み着いており、道ゆく人々の歩みの隙間を器用に縫っていく。目の前に鎮座する大聖堂のステンドグラスはやっと修復作業の目処が立ったらしく、複数の作業員が囲いを立てていた。
無事に猫のルーシーを見つけた少女エミリアは、祖父に代わりコーヒー豆店の店番をしている。猫を膝に乗せ、ときおりなでる。ずいぶんと暇そうな表情で、青空を見上げている。
駅前の花屋では、色とりどりの花たちがいつもどおり咲き誇っている。
さて、ソルブデンとの共闘による歴史的な「魔族殲滅戦」はといえば、メデューサ討伐成功後もしばらくは続いた。
ルーンクトブルグ全土から魔族がほぼいなくなるまで、まるまる一年を費やした。ソルブデン軍や他国からの義勇軍も続々と派兵されたこともあり、民間人の死者数は戦争自体の規模に比べれば奇跡のような少なさだった。
共闘したことにより、ルーンクトブルグとソルブデンの睨み合いは雪解けを見ると思われたが、直ちにそうもいかないのが国際政治の面倒なところだ。リオベルグは一度両軍が撤退し、一定の自治権が認められる予定ではあるが、旧イオニク公国の領有権については未だ落としどころを見出せていない。
クンツェンドルフの交渉力により、魔族殲滅戦においては、それまでのいざこざはいったんわきに置き、両国は手を取り合った。
だが事態が落ち着いてくれば、ソルブデンとメデューサたちが水面下で交渉を重ね、ルーンクトブルグ国内を引っ掻き回していたことを糾弾する者が現れた。当然といえば当然だ。オシュトロー、フロイント、トルーシュヴィル――魔族による襲撃のあった村の者は、すぐに感情を整理できるかといえばそうではなかった。
だがそういう深刻な話題については、今日ばかりは持ち出さないようにしよう。そう思いながら、テオは店のベルを鳴らした。
「いいかバルバラ。『ブラッディ・メアリー』は芸術作品だ。中途半端に作るくらいなら出さないほうがよっぽどいい」
デニス・リフタジークが眉根にしわを寄せて、バルバラに喰らい付いている。
「あんたねえ、そんなこと言ったってウチでは店を始めてからこのかたビールしか出してないんだよ。それがなんだい? トマトジュースにウォッカ? 私にゃあよくわからないね」
快活な女店主バルバラがカウンター越しにデニスをたしなめる。
「それに塩を入れる。ブラックペッパー、タバスコ、セロリ、あらゆる調味料や食材との相性も抜群だ。飯屋をやっていてこのカクテルに興味を持たないなんてどうかしてる」
「そういいながらうちの店にしょっちゅう飲みに来てるじゃないか。これ以上言うなら出禁にするよ!」
もはやデニスとバルバラの言い争いは店の恒例行事だった。些細なことでどちらかが難癖をつけ、どちらかが応酬する。ラルフ・アルトマン少尉はよく「夫婦漫才」と呼んでいる。
「はい、二人とも。そこまでにしてください。デニス、そこまで言うなら自分でカウンターに立ったらどうですか?」
エルナ・ヒルシュビーゲル大尉があいだに入り仲裁する。
「エルナ、お前どっちの味方だ?」と、デニスが唸る。
「こういう話になるとまるで子供ですね。デニスさん。グレッジャーに食べられたいですか?」
「エルナさん、それは洒落にならない冗談ですよ……」
そう言ったのはパウル・ロッサー曹長。元々はオシュトローに住んでいた農家の青年だ。ヘンドリック・バルテル中尉が掴んだ情報によれば、エルナとパウルはすでに恋仲らしい。
「あ、ザイフリート中佐! お待ちしておりました! この度は誠におめでとうございます!」
テオに気がついたパウルは実に素晴らしい敬礼を見せた。
「やあロッサー曹長。ありがとう。だが今日はそういう堅苦しいのはやめよう。ほら、皆を見習ってくれ」
バルテル中尉、アルトマン少尉、それに駐屯先のパシュケブルグから戻っているウッツ・ライスター中尉の三人はすでにテーブルを囲んで飲んでいた。軽く手を挙げただけで、大した敬意も見られない。すでに空のジョッキがいくつかテーブルに置かれ、バルテル中尉などは顔を真っ赤にしている。
「よおテオ。おれは止めたんだぞ。主役が来るまでは待つのが礼儀だと。だがわかるだろ? こいつら聞きやしない」と、ウッツが弁解する。ついでにジョッキを煽るので、まるで説得力がない。
またべつの席では、デニスの昔の部下であるオットー・ゲイラーと同じく兵站だった三人の元兵士が談笑している。さらにべつの席では、ユージーン・エイヴリングとレオン・グラニエ=ドフェールが、和やかな雰囲気でビールを飲んでいた。
「少し見ないうちに、二人は和解したのか」
テオは同じテーブルに腰掛けて、どちらかといえばユージーンに聞いた。
「ドフェール卿に対しては、もともと恨みもないし怒りもなかったさ」ユージーンはあっけらかんとして言う。「ただまあ――僕は単に気まずかったんだ。決して彼の期待どおりの転生者ではなかったわけだからね。それに現金な話だが、ドフェール卿がうちの村の教会に金を出してくれた。しばらくは子供たちに腹一杯食わせてやれる。ユッテも喜んでる」
「エイヴリングは、僕に怒りを向けて当然だよ」と、レオンは言う。「実はあの召喚をきっかけに、僕は自分が喚び出した転生者たちと面会していくことにしたんだ。月並みな表現だが、なにか彼らの生活をよくするためにできることはないかと思ってね。偽善者のように聞こえると思うが」
立派な行いだ――ユージーンはぼそりと言い、ビールをひと口すすった。
店のベルが鳴り、またぞろぞろとゲストが増えていく。
「みんなどけてください! レナエラがとおります!」
長い金髪をなびかせてステンノーが入ってきた。後ろにはレナエラが続き、さらにその後ろには両手にたくさんの紙袋を下げたマルタとジルがいる。
アルトマン少尉が立ち上がり、レナエラを迎えにいき、おでこに軽くキスをする。
「ずいぶん買い物したなぁ」
「だっていろいろ必要になるんだもの。この子が生まれてきたら、きっと買っておいてよかったと思うものばかりよ」
レナエラは大きくなったお腹を優しく撫でながら言った。
「ラルフ! ラルフ! レナエラとお腹の子はステンノーがしっかり守っていました! まったく異常はありません!」
と、ステンノーが胸を張る。
レナエラとアルトマン少尉のあいだには、秋に子供が生まれる。
「ありがとう。ステンノー」と、アルトマン少尉は彼女の頭をわしわしと撫でる。
「それにしても最近のベビー服ってけっこう可愛いの売ってるんですね! 私びっくりしました。大通りに面したそこの店なんかもうフリルがふりっふりで」
マルタがうっとりした表情でため息をつく。ジルも頷く。
「マルタさんとジルさんも、付き合わせてしまってすみません」
レナエラが恐縮する。マルタは手近なテーブルに紙袋をどさりと置く。
「そんないいんですよ! 今日はザイフリート中佐とフィルツ少佐のお祝いデーですから、一日オフなんで! さあ今日は飲みますよー!」
「お姉ちゃん、潰れないでね。背負って帰るの私なんだから」
「大丈夫大丈夫! アルコールから身を守る術式をかけておくから」
「そんなの聞いたことない」
ジルは軽蔑の眼差しを姉に向けた。
またもや店のベルが鳴る。ほとんど同時に、とてもよく聞き慣れた声がする。
「大丈夫ですよ。みんな気のいい連中です。あなたを無碍には扱いません」
入り口にスズ・ラングハイムが現れた。




