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味方のコマをあまり減らしたくないのなら、べつの選択肢もある。

 木々の密集した暗がりに、突然顔が現れた。


 一瞬、テオの目にはそれが美しい女性の顔に見えた。ニコル・フィルツになり、アニカ・パーゼマンになり、記憶の中の妹の顔になった。

 しかしそれは一瞬のことだった。レナエラが短い叫び声を上げ、ふと我に帰る。素早く魔導銃を構える。


 蛇だ。黒々とした鱗に覆われた、大きな蛇だった。鎌首を高く持ち上げ、茂みの中からテオたちを見下ろしていた。


「メデューサの使い魔か」とレオンが言う。


 蛇は血のように赤い舌をちらつかせながら、じっとこちらを睨んでいる。


〈来客の予定はないのだけど〉


 声が聞こえた。メデューサだ。昨年、両国へ放たれた声明と同じ声。高貴な女性を思わせる上品さがありながら、激しい怒りと憎しみをたたえたような声だった。おそらくこの蛇が彼女の声を中継しているのだろうが、蛇は微動だにせず、じっとしている。声はあの声明のときと同じく、頭の内側から響いてくるようだった。


〈いいわ。付き合ってあげる。私にここまで楯突いた人間も初めてよ。もう少し楽しみたいわ〉


 ここではないどこかにいるメデューサが、実際には見えていないのに、にたりと微笑むのがわかった。


〈ゲームをしましょう。さしずめ、あなたたちはチェス盤の上のナイト。一直線にキングを討つこともできる。でも、味方のコマをあまり減らしたくないのなら、べつの選択肢もある〉


 いつのまにか、あたりには濃い霧が立ち込めていた。ほんの数メートル先も見えない。しかし奇妙なことに、大蛇の顔だけはその霧の中でもはっきりと確認することができた。


 そして景色が一変した。


 あたりにはありふれた街並みが、オレンジ色の夕陽を浴びていた。足元は苔の生えた土から石畳に変わった。目の前には、ステンドグラスの割れた大きな聖堂がそびえていた。


「首都の中央広場か?」レオンが目を細めて、大聖堂を見上げる。


 そこは今現在の首都マルシュタットだった。テオたちはまるで中央広場の真ん中に立っているような錯覚を覚えたが、単なる映像だ。メデューサの術式により、霧に映像が投影されているのだった。


〈この状況を見て、どうするのかよく考えるといいわ〉


 首都は今緊急事態宣言がしかれているため、広場は閑散としていた。それでも辺りにはぽつり、ぽつりと人影が見える。食料を買い出しに行くマルシュタット市民だろう――


 いや、様子がおかしい。ある男はおぼつかない足取りで、のろのろと広場を徘徊している。うつろな目を空へ向け、ぼうっと立ち尽くしている老婦人がいる。


「いったいなにをした?」レオンが低い声で唸った。


〈四年前、あのちっぽけな村でやったお遊びと同じことよ〉

 大蛇がしゅるりと舌を出した。


 四年前――テオにはすぐに思い当たった。村の人々が操られ、当時のデニス・リフタジーク大佐率いる軍と接触した事件。

 あれはのちに、ゲーデという魔族とその召喚術師によるものだと結論づけられた――


 立ち尽くしていた老婦人が、突然首をひねり、まるで飢えた猛犬のような息づかいになった。そしてその目に、徘徊していた男を捕らえた。


 レナエラが蒼白な顔で首を横に振り、ステンノーの手を握る。


「フロイントの一件は、メデューサ、貴様自身の仕業だったのか」

 テオが目を細めた。


 メデューサは嘲笑うようにクスクスと笑う。

〈操られた人間がなにをし始めるか、わかるわよね? ほら――〉


 操られた老婦人は男に襲い掛かり、地面に押し倒した。男も血走った目で老婦人を睨み、がむしゃらに抵抗する。


 気がつけば、広場にはほかにも操られた市民が、互いに傷つけ合っている様子が映し出されていた。爬虫類の顔を持った兵士たち――アーベントロート大佐の使役する召喚獣だ――が駆けつけ制圧を試みる。だが広場には次々と市民が集まり、皆やはりメデューサの術式にかかっている。とてもすぐに鎮圧できそうもなかった。


〈多勢に無勢ね――あなたたちにとって悪いニュースだけど、私は人間をあんなふうに操ることができる。あなたたちは魔族と戦いながら、愚かな一般市民をどうにかしなくちゃならない〉


「――それで、ゲームというのは?」


 テオの問いに、大蛇は目を見開き、舌を踊らせた。


〈術式は、あなたたちが望むなら解いてあげる。魔族の侵攻も、一時的に止めてあげる。こちらの要求を飲むのならね〉


 霧に投影されていた首都の映像が霞み、やがて元の霧に戻る。そしてまたべつの景色が映し出された。平家ばかりの閑散とした街並み。緊張した面持ちのソルブデン軍。遠くにはいびつなかたちをした山々――世界有数の鉱山、グルントルドだった。


〈あなたたちの思惑どおり、今リオベルグはソルブデンの兵士が占領している。住民の被害はゼロ。この状況で両国が協力だなんて立派な交渉力ね。でもこれで終わりじゃない〉


 メデューサは軽やかに笑った。〈ルーンクトブルグ軍を派兵しなさい。そして西部戦線を再開し、決着をつけるのよ〉


 長きに渡り続いている西部戦線は、両国の対立の象徴である。

 イオニク公国崩壊後、リオベルグは民族的に一致するソルブデンによる統治が実現するかに思えた。しかしリオベルグが独立を宣言したことで、一転して政治的に不安定な地域となる。グルントルドで採掘されるハイランダーのこともあり、結果六十年ものあいだ、ソルブデンとルーンクトブルグは小競り合いを続けているのである。


 テオは口元だけで笑って見せた。

「よほど両国が休戦し協力していることが気に食わないようだな」


〈言ったでしょ? これで終わりじゃない。それに私は知っている。人間同士の協力などハリボテ。どちらかが隙を見せれば、どちらかが出し抜くわ。そして今、隙は共和国側にある。共同戦線と言いながら共和国民だけが犠牲になっている状況に、民衆は耐えられるのかしら?〉


 クンツェンドルフ中将の交渉により実現した休戦。これはたしかに、ある意味ではハリボテだ。魔族という共通の脅威が現れたからこそで、この共同戦線が終われば、いつしかまた両国は争いを始めるだろう。


〈明日の正午〉メデューサは告げる。〈それまでに共和国の軍隊に具体的な動きがなければ、首都の住民は殺し合う。殺戮は感染し、国内全土へ広がっていく。懸命な判断を期待してるわ。ああ、それと――〉


 大蛇は、ステンノーに鎌首を向けた。

〈あなた、そちら側についたのね。ずいぶん人間に懐いちゃって〉


「メデューサ、ステンノーは……」


 言いかけたステンノーの言葉を、メデューサはため息混じりにかき消した。〈ああ、喋らなくていい。イライラする。私はただ、その蝙蝠(こうもり)がいれば伝令にも事欠かないだろうと言いたいだけ。伝書鳩くらいにはなれるでしょ?〉


 あたりの風景が消え、霧が次第に薄くなる。

 やがて元の森の中に、テオたちは戻ってきた。大蛇もまた消えていた。


「予想より早く接触してきたね――どう思う? ザイフリート君」

 レオンが言う。


「このまま進もう」テオがホルスターに魔導銃を収めた。「メデューサが――魔族たちがこの争いを、ゲーム感覚で楽しんでいる――それは本心だろう。ただ、少し回りくどいな」


「おそらく、メデューサはが操れるのは魔力のない人だけなのでは」レナエラが言う。「国内を混乱させたいなら、前線に配置されている兵士たちへ直接働きかければいい。でもそれをしない」


「だが、きみは実際に――」


「入力感度か」レオンが低い声でつぶやいた。「エスコフィエ君は、魔力を持つ者の中でもイレギュラーな存在だからね。それに案外、人を操る能力自体もメデューサのハッタリかもしれない。フロイントの事件のときも、村人は暴走こそしたものの、その手で人を殺めるには至らなかった」


 なるほど、それには一定の説得力がある。

 しかし、テオにはそこはかとない違和感が残った。


 それはやはり、彼女たち魔族の「目的」についてだ。

 メデューサたちは、本当に戦争を「知的ゲーム」と捉えて喜んでいるだけなのだろうか。本当にそれだけなのだろうか。それ以上の、なにか個別に設定された到達点のようなものがあり、それがただ雲に隠れた山の(いただき)のように、見えていないだけなのではないだろうか。


「ドフェール卿、ひとつ意見を聞かせてもらいたいことがある」

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