この世界で私たちの生き方を縛るものは、本当はなにもない。
みるみるうちに痛みが広がっていった。
足に力がうまく入らず、デニスは膝をついた。振り返ると、女の子は両手を震わせて泣いていた。
兵士たちが駆け寄ってくる。皆戸惑いながらも少女に魔導銃を向ける。
「周囲を警戒しろ!」ゲイラーが叫んだ。「ゲーデ――あのときの魔族だ。術師も近くにいるかもしれん」
四年前、フロイントを惨劇を招いた魔族とされるゲーデ。
ゲイラーは、少女が操られてやったものと考えているようだった。
しかし、デニスは見覚えがあった。
彼女はあの日、両親の遺体の前で呆然と立ち尽くしていた。そのときは、まるで感情というものが失われ、枯れ果ててしまったみたいに無表情で、一粒の涙も流していなかった。
「銃を下ろせ。大丈夫だ」 デニスは唸る。
皆状況が飲み込めない中、彼の救護に走り、少女を拘束し、周囲への警戒をよりいっそう高めた。地面に横たえられたデニスはなぜか、あのジャーナリストの女に言った自分の言葉を思い起こしていた。
〈おまえは一生、フロイントの村の悲劇を抱えて生きなければならないんだ。おれと一緒にな〉
罪というのは、本質的に消えない。いくら忘れ去ろうとしても、赦しを乞おうとも、生きているかぎりは途中で積荷を下ろすことはできない。
「大佐、生きてください!」近くでゲイラーの声がする。
人はしかし、本質的に赦されようとするのだ。
「――ゲイラー、あの子を保護しろ」
刺されてほっとしているなんて、まったくろくでもない話だ。
デニスはゆっくりと目を閉じた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「でも、どうしてマリア=ルイス・ファウルダースは、フォルトゥナをもう一度『同世界転生』させなかったんですかね? そんなに慕っていたなら」
マルタは首を傾げる。
「さて、どうしてでしょうね」と、スズは言う。「本人が望まなかったか、それとも術式が失われていたか。いずれにしても、死んでは蘇るのを繰り返させられるのは迷惑な話ですね」
森は深く、暗く、そして静かだった。
スズと二人の魔道師、マルタとジルは、旧イオニク領の森の中を進んでいた。
「たぶん――満ち足りた死だったから」と、ジルが言う。
スズがぽん、と手を叩いた。「そうそう、それですよ。満ち足りた死。なんの後悔もない、安らかな死。それならば生き返るなんてことはない。なんとよくできたものでしょうね」
「ラングハイム中尉。聞いておきたいんですけど、あなたは結局どっちがいいんですか?」マルタはまっすぐに伸びた樹木を見上げる。「すぐに死んでしまうのと、老いて死んでゆくのでは」
スズは足元を這う太い蔓をひょい、と飛び越えた。「どうしてそんなことを」
マルタはしばらくのあいだ、黙っていた。三人はただただ、苔むした地面を踏み締めて前へ進んでゆく。
やがて、口を開いた。「無礼をお許しください、中尉。でもあなたの言っていることは矛盾してます。中尉はこれから死ぬつもりでいる。その死は『満ち足りている』と言う。でも一方で、ザイフリート少佐の力を借りて『同世界転生』にわずかな望みをかけている。それこそがすでに、まだ生きることにしがみついているということじゃないんですか? あなたの死は、本当に満ち足りているんですか?」
マルタの言葉は、紡ぐたびに乱れ、早口になった。
「マルタ――」スズは言う。「もし私が本当に生きることにしがみついているなら、そもそもここに来ていないでしょう。すぐに死ぬか、老いて死ぬか――これは瑣末な問題ですよ」
「でも、私たちは?」マルタはとうとう立ち止まり、スズに向き直った。「私たちの寿命はあと何百年も残っています。同じように生き続けるあなたに、死ぬまで尽くす気でいたのに」
マルタの目は潤み、赤く充血している。「エルフは、そういう生き方しかできません。あなたが去ってしまった後、私たちはどうしたら――」
言葉が途切れ、森には静寂が舞い戻ってきた。
イオニクに入ってからずいぶん歩いた。知らぬ間に、辺りにはより大きく、より老いた樹木が多くなってきた。目的地が近い証拠だった。
「マルタ、私は」
「間違ってるんだよ」
スズの言葉を遮り、口を開いたのジルだった。
「お姉ちゃん、そんなのはエルフの生き方じゃないんだよ。人の人生を生きちゃいけない。今までは、この長い命を誰かのために使ってきた。それが正しいと思って。それしかないと思って。でもこれからは自分のために使わなくちゃいけないんだよ」
マルタはポカンと口を開けて、ジルを見つめていた。「ジル、だって私たちは――」
「エルフ。でもそれは前の世界での話でしょ。この世界で私たちの生き方を縛るものは、本当はなにもない」
前髪に隠れたジルの目は、まっすぐにマルタを、そしてスズを見た。「そうですよね? 中尉」
「ジル・シャントルイユ。その通りです」
マルタの瞳から、涙が一筋こぼれた。ジルは頷くと、マルタのそばへ歩み寄り、少し背の高い姉を抱きしめた。
「中尉にちゃんとお別れを言おう。お姉ちゃん」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
(できれば、あの悪魔とは離れたところで戦いたいものです)
エルナ・ヒルシュビーゲル少尉の瞳が緑色に瞬いた。風の精霊フリューゲルは、エルナの目を通して世界を見ていた。
「私としては、できれば二人には仲良くしてほしいのだけど」
エルナはやんわりと反論する。
「もう二体くるぞ! 召喚術師の嬢ちゃん!」と、ユージーン・エイヴリングが叫び、得物の大太刀を構えなおした。
二人はサイクロプスの群れと対峙していた。崩壊した築城式結界から程近く。シャルクホルツ大佐を突破した大型の魔族を討伐する部隊のひとつだ。
「グレッジャー、ご飯よ」
エルナが両手に構えたダガーのうち、使い古されたほうを軽く持ち上げ、サイクロプスへと向けた。
轟音を立てて大地が割れる。太い植物の蔓のようなものが次々に生え、うねりながらサイクロプスたちを取り囲む。ところどころに生えたグレッジャーの口が開く。鼻が曲がりそうなほどの強烈な甘いにおいが立ち込め、粘液が滴る。
(ああ、なんとおぞましい)と、フリューゲルがぼそりとつぶやく。
グレッジャーの口はサイクロプスに襲いかかった。ケルピーのときと違い、丸呑みできるサイズではない。それでも巨人たちの手脚を捕え、グレッジャーは乱暴に食事を進めていく。サイクロプスは野太い悲鳴を上げながら、手にした棍棒で応戦する。
「あの化け物ちゃんは、満腹というのを知らないのか」
ユージーンは後頭部をぼりぼり掻いた。
「妬みの感情が底なしなのと、同じかと」
「それじゃあ、あいつがもしきみの『喜び』なんかを食べていれば、綺麗な花でも咲かせたのかね」
「それ、面白いですね」
サイクロプスの群れはおよそ三十ほどの数だった。グレッジャーをうまくすり抜けた、あるいは奇跡的にあの口を振り解いた個体が、ユージーンとエルナに襲いかかる。
「ユージーンさん、フリューゲル、一体ずつ行きましょう。オシュトローのときのようなヘマはしないから」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
レナエラ・エスコフィエは何度目かのめまいに襲われ、近くの木に寄りかかった。
「レナエラ! 大丈夫ですか? 辛いですか?!」
ステンノーが駆け寄り、背中をさする。
「大丈夫――少しくらっとしただけ。ありがとう、ステンノーちゃん」
レナエラたちは旧イオニクの森の中を進んでいた。テオが先頭となり、レナエラ、ステンノー、そしてレオンが続く。スズたちとはべつルートをとっていたが、目的地は同じだ。
「早朝から歩きっぱなしだ。少し休もう。それに、メデューサに近づけば近づくほど、いちばんキツくなるのはレナエラさんだ」
テオは提案し、開けたところにあった倒木に腰掛けた。
「すみません」レナエラが水筒から水を飲む。「でも、かなり近いです」
レナエラは以前に訪れた白い屋敷を思い起こした。ソルブデンの要人たちの護衛として同行し、その体質がゆえにメデューサの手にかかってしまった、あの屋敷だ。そしてステンノーと出会った場所であり、過去の自分と決別した、旧イオニクの貴族の別荘。
「なにか来るぞ」
レオンが素早く立ち上がり、茂みを警戒した。




