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ホタル族の亡霊

作者: 来垣 遊歩

カタツムリにも歯があるらしい。咀嚼音まで記録観測されている。なるほど、とも漏れない。私はこういう「有って無い」ような事実が、幼少から嫌いだ。学生時代は、満面のしたり顔で教師が披露する数々の雑学に、湧き上がる怒りを抑え抑え過ごしてきた。今でも院で会う誰しもが、草を見れば、虫を見れば、雨が降れば、怪我をすれば、常識とはかけ離れた独自の座学をばらまくのである。

「松山先生、聞いておられますか。」

私はこのうかがいに返事を返せなかった。カタツムリのトリビアは、なんでも先日私の部屋を勝手に荒らしたらしい院生が、責められてものろのろとしていたことがあげつらわれ始められた。どんな話の最中であれ、そんなこと、石ころを投げられたも同然だと思わないか? 普通思うだろう。(私は普通だ。)当然のようにそう思う。どうせこいつも、石ころを石ころとも思わず拾うタワケである上、それで己の風呂敷を広げたつもりの連中、憐れにもその一人だ。呆れ返った私はといえば、小さな貝になるほかなかった。この場は気安く、その件はまた今度とだけ言葉を放って自室にこもった。そこからは仮眠を少々と、歯痛にいらつくばかりの一日であった。


ここのところずっと妻に顔を見せていない。恋しさも罪の意識も湧かなくなってから、これを自覚するのに随分とかかった。して、ついに私は終わったな、と思った。これに関してのみ異常と呼ばれて大いに結構。三十路街道は歌舞伎町より乱れた道と聞くのに、実のところ渡ってみれば拍子抜けだ。四十を過ぎる頃には院長になっているはずだから、肩ばかり重くなって仕方がないだろう。この先私は、何を楽しみに生きればいい。富とか名誉ならばそのうちどかんと手に入る。翼が欲しいかと聞かれれば、ああ欲しい。ああ欲しい、と切に返すだろう。

「松山先生、松山先生!」

なんて無粋なノックだ。ととっさにそう感じてしまうものの、どんどん、どんどん、と二回刻みの拍動に、はっと我に帰る。そういえば私は本日、執刀医ではなかったか? あれからずうっと自分の生い先の空想にふけって、どのくらい経った?

「松山先生、松山先生!」

意識ははっきりと覚醒している。だが肝心の、ああ、今行く、という言葉が詰まって吐き出せない。それよりも昨日飲みさしにしたコーヒーの方が気になってしまう。あんなに苦ったるく淹れてしまうなど、私の身体はとうとう本格的に老いてきてしまったらしい。

「松山先生、松山先生!」

翼が欲しい、ああ欲しい。私はメスよりも、妻の愛よりもコーヒーよりも、手に入れたいものがあったようだ。

聞けば鳥の羽根は、体温調節や求愛にも使われている。雑多な知識だと鼻で笑っていたけれど、なんだ、立派な学じゃないか。要は、鳥は飛ばなくてもいいのか。ならばせいぜい、今のうちに好き勝手飛んでおくのがいい。

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