迷子
私は、逃げていた。
――何から逃げているの?
わからない。
――何処へ向かっているの?
わからない。
自問自答を繰り返しながら、黒い木々の間を駆け抜ける。
ここは深い森の中。草木は生い茂り、獣たちの鳴き声が不気味に響き渡っている。
息が、切れる。足が、重くなる。体力ばかりが消耗されていく……。
ついに、疲労に耐えられなくなった両足が絡まり、私は音もなく転んでしまった。
擦りむいた膝からは血がにじみ出て、ひりひりと軽い熱を帯びている。生々しいその感覚は、夢の中の現象だとは思わせてくれなかった。
てのひらに付いた冷たい土を払い、空を見上げると、そこには赤い月がくっきりと浮かんでいた。
幻想だ、と頭の中では答えを出しているのに。こんなに黒い森も、あんなに赤い月も――間違いなく本物だった。
しばらく放心していると、月の中に影が現れた。
――黒い揚羽蝶……近づいてくる?
次第に拡大する黒い蝶は、やがて赤い月を覆い隠してしまった。
――ああ、なんて綺麗な緑……。
近くで見ると、それは鮮やかな緑の鱗粉を纏っていた。
「何を焦り、何から逃げている?」
そう言葉を発すると同時に蝶は羽を仰ぎ、その姿を変えた。自分と年が変わらなそうな、緑色の目の少年の姿に――。
私は驚きを隠さないまま、質問に答えようとした。
けれど、答えが思い浮かばない。私は確かに何かに焦り、その何かから必死に逃げてきたはずなのに。
「わかった。私がお前を逃がしてやろう」
少年はふっと笑みを浮かべると、私の胸の前に手を差し出した。まるでわからないままでいい、と言っているようだ。
「私とともに来るのだ。そこには焦燥も苦渋もない。やすらぎだけを与えてやろう」
妖しいのに、不可思議なのに。少年のことを、少しも怖いと思わなかった。
そんなことよりも、記憶が欠如し、ただ何かから逃げている存在――自分というものを恐ろしく感じたのだ。
私は、少年にしがみつくように抱きついた。
「なに、代償などない。ただ、私に心を尽くせばよい」
私は迷わず頷いた。もう二度と、元の世界へもこの黒い森へも戻っては来れないと確信して……。
今度は自分の意志で――赤い月に向かう。緑の蝶に寄り添うように、赤い蝶の姿で、私は舞った。