僕にわかること
日曜の午後。
木漏れ日のようにゆれる窓からの陽射し。ひだまりの中。
そこに僕はいて、君もいた。
目の前には、ベールのかかったままの大きな姿見。
──ねえ、一つだけ、聞いてもいいかな。
僕は今、一体どんな顔を、してるのかな。
◆
あの日のことを、覚えている。
◆
「私ね、髪伸ばそうと思うの」
突然だった。
「へえ」
帰り道。まばらな雑踏の中、前髪をくるくるといじりながら隣を歩く陽菜に、僕は思わずそんな言葉を飛ばす。
「む、チミチミ。湊クン。なにかねその反応は。親友としてもっと興味とか疑問とかもたんのかね」
「そんなこと言ってもな。陽菜が唐突なのはいつものことだし」
それに、理由を聞いたところで無駄な時間を過ごすことになる。とは口にはださないけれど。
不満そうに突き出された唇が、さらにとんがることが解っているから。
「なによう、歯切れ悪いなあ。それこそいつもの事だけど。それよりさ──ね、どう思う?」
「どうって。これから暑くなるっていうのに、物好きだなあ、って」
世間は初夏。学校も今日から夏服である。
太陽は走り込みの時間を日に日に増やしている。こんな時分に髪を伸ばそうなんて、実に酔狂だ。
「そういうことじゃないからね!」
ふむ、違ったらしい。
「じゃあどういう」
「ふん。もういいもんね。聞いた私がバカだった」
いー、と歯を見せながら凄い顔で僕を威嚇して、ふい、とそっぽを向いてしまった。
結局のところ、唇はとんがったままだ。
無言。
足音だけが並んで響く。
僕は溜息を飲み込んで。それから、ほんの少しだけ間をあけて、陽菜の揺れる、艶やかな黒髪を見て。
「……似合うと思うよ」
ぽつり、と。そう一言だけ、本音を。
ぴこん、と耳が動いた。ジト目がこちらを向く。
「……ホント?」
「本当。僕、嘘、つかない」
「なんで片言なんだろう……」はあ、と息をついて「でも、湊が言うなら間違いないかー」
にひ、と笑う。
悪戯っぽい笑み。
「湊、外したことないもんね、こういうの。じゃあ、誰に見せても恥ずかしくないってことだね」
存外に信頼されていた。素直に嬉しいけれど、やっぱり喜びきれない。
「ま、長いこと見てたからね。なんというかこう、ハメ込み画像みたいに、完成図が想像出来るんだよ」
「人をゲーム画面みたいに言うな!」
怒られてしまった。
事実なのだけれど。ベースをもう、忘れないくらい、見て、記憶しているから。
「でもさー、湊はいつも一言遅いんだよねー」
「遅いって。多いんじゃなくて?」
「遅いの。ロード時間が長いって言うの? むしろそういう時の言葉は少ないくらい」
「ゲームじゃあるまいし」
全力で自分を棚に上げてみた。
「今朝だってさ。夏服どう? って聞いたのに第一声が、涼しそうだ、だもん。そんなことは解っとるわい! っていう」
「いや、でもそれはその後ちゃんと」
「ちゃんと? ちゃんと、なんて言ったの」
「うぐ」
しまった。これは墓穴だ。
「聞きたいなー。私、今朝ロード時間めいっぱい使って湊が言った言葉、もっかい聞きたいなー」
ああ、これは逃げられない。
逃がすつもりがない。僕は蛇に睨まれたカエルの気分で、口を動かす。
「っつ、う、──ぁ。──か、わいいよ。似合ってる」
「にひー」
……一生の不覚である。
自慢げにスカートを揺らして、けれども少しだけ照れながらその夏服の裾を引っ張る彼女の姿が眩しくて。初夏の陽射しに目が眩んで。僕は、そんな風に言葉を紡いでいた。
「そっかー、かわいいかー」
「も、もう勘弁してつかあさい」
「そんなにかー」
火が出そうな顔を覆う僕を、満足げに茶化して、前を向いて、そうして。
「……あの人も、そう言ってくれるかな」
小声で、そんな風に笑ったのを、僕は聞き逃さなかった。
気づかないふりをして、横目で見た陽菜の顔は、さっきまで僕に向けられていたものとは全く違って。
僕は、ちくり、と、痛くなる。
けれどもそれは顔には出さない。間違っても今朝のような本音を出すような真似はしない。
絶対に。
だから、またいつも通りの会話が始まる。
彼女にとっては他愛なくて、僕にとってはこの上なく愛おしいこの会話が。
「あ、そういえばさ、駅前に新しいケーキ屋さんできたんだよねー。湊、知ってる?」
「ラ・ピュルレだろ? シュークリームが絶品らしい」
「へー! 流石甘党、チェック早いね。ね、今度行こうよ。相談もあるしさ。湊の──」
「陽菜の奢りでな」
「先手を打たれた!」
「当然。だって相談って、いつものアレだろ? 相談料相談料」
「……む。そう、だけどさ。──はは。改めて言われると照れるね、なんて」
ぎちり、と。
その表情に、心臓のあたりが音を立てて痛む。けれど、それを抑え込む。
「じゃあ照れてる分一個奢り追加」
「横暴だ!」
乙女心を何と心得る! なんて、そんな風に。
知ってるよ。
その人の話をしてる時が一番可愛くて、綺麗になっちゃう、そんな心の在り方の事だろう?
相談、とやらをしてる君が、本当に嬉しそうだから。きっと優しいひとなんだろうな、って聞いてるこっちが、見たこともないその人のことを想像出来てしまうくらいに、楽しそうだから。
「むー」真剣な顔で財布とにらめっこしながら「まいっか。じゃあ、いつにする?」
「木曜、は駄目だから、金曜かな」
「りょーかい、じゃあ金曜の放課後ね。約束!」
「はいはい、約束」
突き出された小指に、僕は応えて。
にひー、と陽菜が笑う。
──こうして、仲良さげに会話しながら、二人で並んで歩く姿を見て、この雑踏の人々はどう思うのだろうか。
友達? 兄妹? それとも。
それとも──恋人同士に、見えるのだろうか。
そんな風に思ってくれる人も、いるのだろうか。
だったらいいな。
例えそれが、勘違いだったとしても。
そんな風に見てくれる人が、いたらいいな。
願わくばそれが、会ったこともない『あの人』だったら、いいな。
そんな叶わない願いを考えて、飲み込んで。いつも通りの会話を続けて。僕たちはいつも通りの、坂道の真ん中にある公園へとたどり着く。
噴水の前。待ち合わせ場所。そして、別れの場所。
夏へ向かって体力づくり中の太陽も、すっかりスタミナ切れを起こしたようで、公園と噴水をオレンジ色に染め上げていた。
僕の家は坂道のあっちで、陽菜の家は向こう、上った先だ。
「じゃあ、金曜日ね! 約束したからね!」
「はいはい。じゃあ、気を付けてな」
「うん。湊もね、気を付けてね」
「はいよ」
背をむけて、小走りで去っていく。僕はそれを少しだけ見送って、背中を向けて、歩き出す。
と、
「あ! そーだ! ねえ、みなとー!」
呼び止められた。振り返れば、坂の中腹位で、夕陽の中に影法師が手を振っている。
「私、決めたよー! 決めたの! 髪、伸ばすねー!」
そう叫んで、じゃあねー、と遠くで手を振る陽菜が。
夕焼けを背に、そんな風に笑う彼女が、あまりにも綺麗だったから。
僕は、最後まで聞けなかった。
君が髪を伸ばす理由。
答えなんてもう、解り切った、そんな疑問を。
僕は、口に出すことが出来なかった。
◆
あの日のことを、覚えている。
君が髪を伸ばすと決めた日。
僕が君を見送ると決めた日。
一年と少し前。
あの、夕焼けを、覚えている。
◆
日曜の午後。
木漏れ日のようにゆれる窓からの陽射し。ひだまりの中。
そこに僕はいて、君もいた。
「本当に、いいの?」
僕は尋ねる。鋏を持った手が、ほんの少し震えているのが解る。
「いいの」
彼女は応える。強気な声が、ほんの少しだけ震えている。
「でも、ちゃんと美容師さんに切ってもらったほうが」
「いいの!」
「……僕でいいの?」
3度目の問いかけ。
陽菜はすぐには答えないで、くるり、とこちらを向いて、僕を見上げて、
「湊でいい、じゃない」強い視線で「湊が、いいの」
そんな風に言った。揺るがない言葉で、意思で、僕の名前を。
沈黙。
静寂。
「解った」
先に根負けしたのは、僕の方だった。
「よろしい!」
にひー、と笑って。それではよろしくお願いします湊せんせー、と、また前を向いて。僕に背を向けて。
そうして、
「それじゃ、いくよ」
僕は一言だけかけて、彼女の髪を手に取って、鋏を入れて。
彼女はもう、何も言わなかった。
目の前には、ベールのかかったままの大きな姿見。
見ながら切ろうと思ったのだけれど、彼女がとらないでくれ、ってお願いしたから、そのまま。
だから僕は彼女の後ろ姿しか見えないし、自分だって手元しか映らない。
けれども解る。顔なんか見なくても、解る。
彼女が今どんな顔をしているのか。声を殺して、肩を震わせて、どんな感情を流しているのか。
理由は聞かない。
やっぱり、答えなんて解り切っているから。
代わりに、僕は薄布の向こうの鏡に問いかける。
──ねえ、一つだけ、聞いてもいいかな。
僕は今、一体どんな顔を、してるのかな。