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「おかえりー」
玄関の鍵が開く音を聞いて、作業をしていた居間から声をかける。
「ただいま」
「お邪魔します」
間も無く居間にやってきたのは我が息子と隣に住む幼馴染みの女の子。
「萌葱ちゃんいらっしゃーい。
ごめんねー、ここちょっと作業中で散らかってるの。でも真朱の部屋にいくでしょ」
「うん。そおちゃんママ、今度は何作ってるの」
「今はねぇ、もうすぐ夏だから浴衣なの。だから、今度教室でどんな布を紹介しようかなって迷ってたの…」
「それでこんなに散らかってるってわけ」
飲み物を持ってきた真朱は居間に広がる布の海を見ても、いつものことなので大した反応もなく、淡々と萌葱ちゃんに説明した。
「じゃあ、俺ら上にいるから」
「あ、そおちゃんママ、これお土産。ここ置いとくね」
「あらー、ありがとうねぇ」
若い男女が個室にこもる訳だが、あの二人に関しては全く危機感も何も感じない。どうせいつものように漫画を読んで、借りてきたDVDを観るか、ゲームをするか、たまに一緒に勉強するか。色気など微塵もない。
いっそ心配になる程だが、それといった色めき立ったことが起きたことはない。
近く育てすぎたかもしれない。
この二人については、浅葱くんと萌葱ちゃんのママである秋来ちゃんとも話をしていた。
『あの子産んだ後、私すぐ仕事始めちゃったし、きいちゃんも体調崩してたでしょう。
私ら親と一緒に過ごすはずの時間をあの子らは二人で過ごしてきたのよ。だから、お互いへの信頼というか信用っていうのが根底にあるんじゃないのかな。それも絶対的なものが』
『やっぱり私たちのせいだよねぇ』
『兄は兄たちで勝手に遊んでたし、真朱くんの下に蘇芳くんが生まれてからは両親はそっちにかかりきりだし……思い出してみると、あの二人ずっと一緒にいるわ』
『確かに…』
そんな会話を思い出しながら、一度作業の手を休め、お土産と言って持ってきてくれたものに手を伸ばす。
全国展開する有名なドーナツチェーンの箱を開ければ、中にはいろんな味のドーナツが十個入っていた。
我が家は六人家族で、これでは一人二個には数が足りない。きっと自分たちの分は別に買ってきたのだろう。これは真朱を抜いた五人で一人二個ずつ食べて良いという意味で、気を使って買ってきてくれたに違いない。
あの二人は、二人だけで世界が完結しているわけではないのだと、こんな小さな気遣いから感じ取ることができて、少し安心する。
もうすぐ昼時だが、疲れた目を抑え、おやつにしてしまおう、と朝入れた冷えたコーヒーに牛乳を加え、皿に好きなドーナツを取ってゆっくりするつもりだった。
そんなタイミングで、また玄関の鍵の開く音が聞こえた。
「ただいまー」
帰宅したのは我が家の四男坊、ずいぶんお早いお帰りである。
「お帰りー、早いね」
「うん、今テスト期間だから。って俺朝言ったけどね」
「ごめんごめん。聞いた気がするけど覚えてなかったわ」
まぁ、いいけど、そう言って居間をつっきって冷蔵庫へ一直線へ向い、冷えた麦茶を取り出して勢いよくコップに注ぐと、その琥珀色の飲み物は吸い込まれるようにして瞬く間に消えていった。
二杯目を注いでダイニングテーブルに戻ってきた末っ子は、ようやくドーナツに気が付いたらしい。
「なにこれ、誰か来たの」
「今きてんの」
「あぁ、萌葱ねぇちゃんね」
「そう」
俺も、と言って箱からドーナツを取り出し、がぶりと大きな口を開けて食べ始める。
私も昼の準備をしようと、ドーナツとカフェオレを片付け台所へ向かう。
「蘇芳、あんたお昼は?」
「食べる」
「真朱たちにも確認してきて」
「部屋?」
「そう」
そういえば素麺があった。
何人食べるか分からないし、これで良いだろう。食べ盛りの男子にはどれだけあっても足りないのだ。全部茹でても余りはしない。
荷物を持って二階に上がっていく足音が聞こえる。あのくらいの年頃になると、兄たちと積極的に関わりたがらないのかとも思っていたが、あの真朱と萌葱ちゃんが相手ではそんなこと思いもしないのかもしれない。
なんせあの二人のことだから、きっと暑いとか言って部屋の扉が開きっぱなしになっていてもおかしくない。
そこに思春期特有の妄想など入る余地もない。
このままでは大学を卒業してしまう、こんなことを最近よく考える。あの子たちの今の日常は、これまでも形を変えながら続いてきたが、これからはそうともいかないだろう。あの二人だって今後大学を卒業して社会に出る。社会に出てもあの関係のまま今のような生活を続けるのは難しいだろう。
どうしたものか、と思いながら大きめの鍋を取り出し水を注ぐ。溜まっていく鍋の水はキッチンの窓から差し込む光を反射して、先ほどまで色の海に潜っていた目には驚くほど眩しくて、コンロに置くとすぐさま蓋をした。
◇◇◇
「真朱にぃちゃん」
思いっきり廊下に向けて開いたドアに申し訳程度のノックをして、俺はその部屋の主に声をかける。
「蘇芳、どした?」
「お邪魔してます」
「萌葱ねぇちゃんいらっしゃい。母さんが昼どうするって」
「あー、萌葱ちゃんうちで食ってくでしょ」
「んー、ドーナツもあるし帰ろうかな」
リビングにあったのはうちへのお土産みたいで、ここにもドーナツの箱があった。一体二人で何個食べるつもりだったんだろう。
「そう? じゃあ、ドーナツ何持って帰る?」
「んとねぇ…」
もう、別にうちで昼食べていけばいいんじゃないかな。
喉まで出かかった言葉はかろうじて飲み込んだ。このマイペースな二人に俺から何を言ったところで聞きはしないのだから、言うだけ無駄なんだ。
真朱にぃちゃんの部屋から出て、階段のところで声を張り上げ母に伝える。
「かーさあん、萌葱ねぇちゃん帰るって!」
するとパタパタとスリッパの音を響かせ母がリビングから出てきて、階段のところに顔を出した。
「萌葱ちゃん、帰るの? お昼は?」
「買ってきたドーナツ、あるから」
「もう、それはおやつに買ってきたんでしょう。いいから、うちで食べていきなさい」
母は強引なようだけれど、本気で嫌がるなら無理強いはしない。
萌葱ちゃんの言葉を単なる遠慮だと思ったのだろう。それだけ言って、母台所へ戻っていった。
「だって」
「じゃあ、頂いてく」
「そうしなよ。朝の様子じゃ、今家に何もないでしょ」
「そういえばそうだった」
二人は階段からまた部屋に戻ると、ドーナツを片付け始めた。
俺はその様子を横目に、部屋に荷物を置きに行く。
着替えも済ませ、明日のテスト科目の確認をしていると、隣の部屋から出ていく二人の会話が聞こえてくる。
「じゃあ、昼飯食ったらどうする」
「あれ、今日そもそも何しにそおちゃん家に来たんだっけ」
「あ、録画観に来たんじゃなかったけ」
「そうだそうだ。ドーナツ食べててすっかり忘れてた」
そんな呑気な会話は二人が階下に降りていく足音とともに小さくなっていく。思わずその会話の内容にため息が溢れる。
俺はこんな二人を小さい頃、というか生まれた頃から見てるせいか、この二人はこういうもの、と割り切って考えている。
この二人の距離は他人ではあり得ないほど近い。本人たちの言う兄弟というのがしっくりくるだろう。だからと言って、真朱にぃちゃん以外うちの兄弟が萌葱ねぇちゃんと兄弟のような関係なのか、と言われるとそれも違う。
簡単に言ってしまえば、二人だけ少し違う、それだけなんだ。他の人には理解できないみたいだけれど。
実際通った学校も二人は中高ともに公立に行ったが、二人以外はここから一番近い私立の中高一貫校に通った。俺も今ここに在籍中だ。
うちも隣の浅葱にぃちゃんも小学校の頃からみんなバスケをやっていて、うちの兄二人も浅葱にぃちゃんも俺もバスケの推薦で私立に行ったようなものだった。
もちろん真朱にぃちゃんもバスケをやっていたし、上手かったと思う。
でも公立の中学に入ってからは、何故かサッカー部になっていた。あっという間にサッカーでも頭角を現して、高校の時には大学からも推薦が来たほどだったのに、あっさりとそれらを蹴って、気がつけば萌葱ちゃんと同じ大学に通っていた。
未だに真朱にぃちゃんの決断の基準が分からないな、なんて考えながら携帯に来ていた連絡を確認する。
くだらない部活のラインは流し読みしたところで、タイミングよく滅多にかかってこない人から電話がかかって来た。
「もしもし」
『もしもーし、蘇芳? 珍しいじゃん電話でんの』
「たまたまスマホ見てた。青磁にぃちゃんこそ電話なんて珍しいじゃん。何の用?」
『俺、今浅葱といるんだけど、おまえ今家?』
「うん」
仲は良いが、兄弟間の連絡など家にいるときに済ませるので、こんな風に一番上の兄から電話がくるのは珍しい。
『他に誰いる? ヒマそうな人いない?』
「今家に居るのは、母さんと真朱にぃちゃんと萌葱ねぇちゃんと俺。ヒマかは知らない」
『なんだよ、やっぱ真朱いるんじゃん。携帯にかけたけど、電話出なかったんだよなー』
「萌葱ねぇちゃんといたからじゃない。真朱にぃちゃんと替わる?」
『頼む』
急いで階下に向かえば、台所に立つ母と萌葱ねぇちゃん、真朱にぃちゃんはダイニングテーブルに箸を並べていた。
「真朱にぃちゃん、青磁にぃちゃんから電話」
「俺? さんきゅ」
俺のスマホを手渡し、もしもし、と電話に出たところで電話口からは大きな青磁にぃちゃんの声が俺まで聞こえてきた。
『真朱! 携帯を携帯しろっていつも言ってんだろーが!』
「えー、俺携帯持ってるよ」
『じゃあ見ろよ!』
「あ、本当だ。青磁にぃちゃんから着信…」
母が、うるさいわねぇ、と顔をしかめながら麺つゆと器を持ってきてテーブルに並べる。その後ろからは萌葱ねぇちゃんが、素麺の白い山を二つ運んできた。
「えー、俺が迎えに行くの…?」
『頼むよー。紫苑のバカが足怪我して運転できねーんだよー』
「真昼間っから酒飲んで釣りしてる酔っ払いもバカだと思うけどな」
うちの長兄とお隣の長兄はバカすぎる。それに運転手として駆り出された次兄もかわいそうだが、最後の最後に巻き込まれた三男の真朱にぃちゃんが一番の貧乏くじだ。
頼むよー、お願いだよー、と電話口からは懇願する声が聞こえてくる。…間抜けだ、間抜けすぎて情けない。
「さあ、食べましょう。真朱も、適当に切り上げてお昼食べなさいよ」
いただきまーす、と三人で手を合わせる。
「わかった、わかったから。
昼食べたら迎えに行くから。場所は?」
飲酒運転させるわけにもいかず、怪我人では運転できないとなればそうするしかない。
「まったく、バカばっかり」
「そおちゃんごめんね。うちのにぃちゃんバカすぎ」
「あの二人は昔っからよねぇ」
そういえば、なんて母の思い出話が披露されるが、内容は兄たちの馬鹿さが際立つエピソードばかり。あの長兄同士は馬も合う分、馬鹿さ加減も同程度らしい。それが社会人になった今でも続いているのだから、もう更生の余地などない。
昼食を終えて、真朱にぃちゃんは早々に出発した。近くの磯だったみたいで、折りたたみ自転車で出て行った兄を見送った。
「じゃあ、私も帰るね」
「あら、真朱の部屋で待ってていいのに」
「ううん、帰ってお米炊かなきゃ」
「そう、またいらっしゃい」
昔から萌葱ねぇちゃんは真朱にぃちゃんのいない我が家には長居しない。
きっと、真朱にぃちゃんの側が萌葱ねぇちゃんにとっての自分の領域なのであって、真朱にぃちゃんのいない今田家は、ただのお隣さん家なのだろう。
ばたんと玄関の扉が閉まる音を合図に、俺は自室に戻り明日のテスト勉強に戻る。
ここから自転車で一時間半くらい掛かるだろうか。真朱にぃちゃんの開けっ放しの部屋から見えた汗をかいたグラスを横目に、俺は部屋の扉を閉めた。




