命の輪廻
おっさんが祖母の見舞いに行きます。
心の中はグチャグチャです。
御年90になる父方の祖母が入院したので200kmほど車を走らせて見舞いに行ってきた。
祖母は豪農の家に生まれ、当時は家柄も一定以上のお嬢様でかつ勉強もできないと入学できない女学校を卒業し、父の実家である農家に嫁いで2男1女を産んだ。孫は出来のいい奴から俺みたいなまるで駄目なのまで9人いる。
女学校を出たぐらいだから勉強することの大切さをよくわかっていて、ことあるごとに勉強しろ勉強しろと口うるさく言われた。が、自分は学校の成績は良いほうであったのと、顔が父に生き写しなので祖母のお気に入りだったようだ。
大学入学で家を出るまでは父実家のすぐ近所にある自分の実家にいたので、安全面で不安がある小学校時代は学校からまっすぐに父実家に帰って、祖母の監視…ゴホン、監督のもとに宿題をして、祖父にくっついて畑や田んぼ、果樹園に手伝いという名のお邪魔虫をしてみたり、祖母の裁縫や料理などの手仕事の見学や手伝いをしたりと。自分は祖母が49の時の初孫なので祖父祖母ともにまだまだ健在で、自分は初孫ということもあり、祖父は野外において自身の安全を確保すること、祖母は常識的な範囲の礼儀作法やきちんと勉強することにけっこう厳しかった。
当時は子供心ながらに
「怒らせると怖い」
とか、
「勉強勉強うるせー」
などと思ったこともあった。けど、教えられた作法。たとえば畳のヘリや敷居は踏まない、家を訪ねてきた人や自分が訪問するときはまず挨拶しろと。そんなことを守っていればとても優しい祖母でもあった。
勉強するときに寒かろうと手作りの綿入り半纏を手縫いで作ってくれたり、農家のイベントで赤飯・団子・餅・季節の料理を作ると必ず
「お前の家の分も作ったから持っていけ」
とお裾分けしてくれた。
あの戦争を経験した世代だからかもしれないが、いつも
「お腹すいてないかい?」
と、心配してくれたり、通信簿をもらった時に見せに行くとお小遣いをくれたりと、子供時代のことを書くとキリがないな。
ただこれだけは言える。安全確保や礼儀作法は今になってとても助かっている。おかげさまで悪くすれば死亡災害の可能性があった労災で軽傷とか、挨拶がまずまずまともにできたから偉い人に認めてもらえたとか枚挙に暇がないというやつである。
そんな祖母が冒頭に書いたように入院した。母親からのメールでは
「褥瘡があり、食欲がなくなったので検査入院ということで入院した」
と記されていた。
いままで自分の実家で買っていたペットや生き物がモノを食べなくなったらあっという間に弱って死んでしまったこととか、自分がアルコール依存症で連続飲酒の挙句に食欲がなくなって酒だけしか飲まなくなったら3日ぐらいで体がガタガタになった経験から祖母はそう長いことはないんじゃないかと、いま見舞いに行かないままに死なれてしまうと絶対に後悔する。そんな思いがあって、連絡を受けてから10日ほど過ぎてから見舞いに行った。
途中経過のメールが入った。
「呆けもはじまっている、今後の治療方針を叔父と医師とで相談するらしい」
呆け(認知症とか言わない。あえてストレートに行く)てしまうといろんなことを忘れていく。母方の祖母の時は自分のことを忘れられていて、訪問したらクッキリハッキリしっかりした声で
「どちら様ですか?!」
と、これは精神的に堪えた。
今回の見舞いでの最悪のケース、せっかく喜んでもらおうと顔を出したのに自分が忘れられている。忘れられていたらどうしよう、親戚が多いから誰かと勘違いしたらその人のふりをしてやりすごそうかそれとも病院スタッフのふりをしようかとか。
結果は上記の心配は杞憂であった。訪問したら眠っていたので
「おはようございます」
と声掛けをしてみたらパチリと目を開けて、
「ああ、○○ちゃんかい」
と。その一言だけで十分だった。来てよかった。
そのあとの会話では食事はきちんと摂っているのかとか、車と仕事の安全には気を付けろとか言われた。自分は震災復興の仕事できちんと頑張っているから心配いらないと言ったのだけど、もう老衰で死に向かっていることがパッと見てわかる人に逆に心配されてしまった。
話したいことはたくさんあったし、もし頭の中が元気だったらありがたいお説教をまた聞けるかもしれないなという淡い期待もあった。子供のころにいろいろ教えてもらったことが今になってすごく役に立って生きることの助けになっているよ、ありがとう。ということも言いたかった。だけど、感情が抑えられなくなりそうで
「仕事できちんとやっているから心配ないよ、おばちゃんもよく養生してね」
ぐらいのことしか言えなかった。
話すことすらしんどそうに見えたので、
「また来月こっちに来るから」
と病室を出て、駐車場に止めた車の中でいろいろ考えた。
考えたというよりは子供のころからの思い出がよみがえって、傍から見れば呆然としているおっさんだったろう。
その後、姪が小学校に入学するのに必要な物品の買い出しに付き合って、お昼とデザートをご馳走してあげて、自分の実家に集まって賑やかなひと時があって
「自分が小さかった頃も自分のおじおばにとってはこんなに楽しい時間だったのだろうか、命が巡るとはこういうことなのだろうか」
なんてことを考えたりもした。祖母の言い付けがあったので帰りの運転はそこそこ安全運転で高速道路で帰った。おかげで覆面パトカーに直前に割り込まれて煽られたりしたのだがそこは華麗にスルーすることができて自分の前を走っていた車がまんまとやられて捕まったりしていたけどそれはまた別のお話で。