「烈風」駆ける~堀越二郎氏に敬意をこめて~
山口多聞氏主宰の「戦闘機創作大会2013夏」参加作品です。
―――西暦1945(昭和20)年5月18日 厚木
けたたましいというよりは重々しい重低音とともにエンジンは動いていた。
1基ではない。
滑走路に整列した機体たち20機あまりが奏でる重低音は幾種類かあったが、中でも大型の機体と、それよりはるかに小さな小型の機体から発せられるバタバタとゴトゴトの中間くらいの音は他を圧倒していた。
三菱製の「ハ‐50」空冷星形複列22気筒発動機は離翔出力3120馬力という荒ぶる性能を発揮する。
しかしそれを完全に発揮するには適切な整備とともに高品質の潤滑油や燃料などの「手間」を要求される。
暖気運転と呼ばれる飛行前のエンジンの「ならし」はそういったもろもろの中の一つであった。
「中佐」
そう呼ばれて、私は振り返った。
「おう坂井。」
人なつっこそうな顔をして腕組みした私の部下、坂井三郎が苦笑交じりに立っていた。
「妙なことになったもんですね。本当に。」
坂井はそう言いながら暖気運転をするすべての機体に描かれているマークをちらと流し目で見つめ、視線をこちらに戻す。
「ああ。本当にな。」
私も苦笑する。
機体は銀色の地金のままで、国籍表示である白くふちどりされた日の丸が美しく映えている。
だが、その横には奇妙な印が同じくらい大きく目立つところにはりつけられていた。
工事現場の頭部保護鉢に記されているそれとよく似がこのマークは、私と坂井が今日この場所で会話しているという現実を何よりも象徴しているようだった。
まるで張り合うかのようにひとつの機体に二つのマークが同居していることにしてもそうだ。
「妙な、といえばこいつもだ。」
私はふと口をついて出た言葉にはて?と首を傾げた。
「こいつ?」
坂井も首をかしげ、ああと合点がいった様子でしきりに頷いている。
「確かに妙なやつですよね。こいつは。しかしたいしたデカブツです。」
私と坂井は自分たちの愛機をそろって見上げた。
――三菱 1式戦闘機「烈風改(43型)」。
わたしたちはこの機体が登場したごく初期からよくも悪くも関わりをもっていた。
大型の機体である。
全長12.28メートル、全幅は13.88メートル。
この大きさは同じ堀越二郎技師が設計した零式艦上戦闘機と比べて3割増し。
重量にいたっては倍近くにもなる。
三輪式の降着機(車輪)は、初期型ですら2000馬力を超えていた大出力発動機が動かす大型プロペラと長い機首によって搭乗員の視界を邪魔されないためのものだ。
機首は大きく開けられつつも絞り込まれ、強制冷却ファンからの排気口には集合型の推力排気管が通りこの機体が速度を第一に設計されたことを物語っている。
この43型においては最大速度は毎時716キロを誇り、これはもちろん陸海軍のレシプロ戦闘機で最速を誇る。
それもその筈。
この機体は日本海軍が当初から「重戦闘機」として開発した機体であるのだ。
すべてのはじまりは1940年、遠く欧州のフランスから入ってきた報告だった。
いわゆる西方電撃戦の前段階において行われた「バトルオブフランス」。
さまざまな政治的事情のために生じたこの独仏間の航空戦において、フランス空軍が鳴るもの入りで投入した戦闘機がルフトバッフェ(ドイツ空軍)により一方的ともいえる駆逐を受けてしまったのだ。
中でも、緊急輸入された米国製戦闘機P-36がメッサーシュミットBf109に敗れるくだりは日本海軍を蒼白にさせるのに十分だった。
低空での運動性能に優れるP36はBf109に対し投入当初は優位にたったものの、ルフトバッフェはすぐさま対抗策を確立。
高速を利用した一撃離脱戦と集団戦法(ロッテ戦法)を駆使してこれを封殺してのけたのである。
対するフランス側は速度に劣るあまりBf109に追いつけず、防弾板を外すなどの涙ぐましい努力もかなわずにかえって撃墜されやすくなるなどさんざんな結果に終わった。
この結果は、当時の日本海軍において支配的であった「格闘性能に優れた軽戦闘機」というコンセプトへの支持を根底からゆるがすものだった。
ただでさえ、戦闘機無用論などという奇妙な理論が幅をきかせて混乱を極めていた海軍航空本部は上へ下への大騒動となり、これまでたまりにたまっていた不満や矛盾が相次いで噴出。
混乱の中で航空本部はほとんど機能不全状態に陥ってしまったのであった。
結果としてではあるがこの時期に開発された新型機は、よくいえば個性的な、悪くいえば「設計者の暴走」ともいわれる機体が数多く出現することになる。
その代表例が、海軍初の四発陸上機である一式陸上攻撃機「泰山」、そしてこの「烈風」であったのである。
またさらに彼らを動揺させたのは、イタリアのタラントで発生したひとつの惨事であった。
第2次世界大戦が激しさを増す中で行われた英国海軍によるイタリア海軍根拠地への航空攻撃、いわゆる「タラント空襲」だ。
空母艦載機による泊地空襲というのちの真珠湾攻撃の先駆けのような作戦は、英国流にいうならば9割5分の成功をおさめた。
イタリア半島南端に存在するタラント軍港にひしめくイタリア王立海軍の主力艦艇に対し奇襲をしかけ戦艦3隻撃沈という大戦果を挙げたものの、英国海軍もまた作戦に参加した空母1隻に深刻な損害を受けたのである。
理由は簡単。イタリア海軍航空隊が報復の矢として放ったドイツ製の急降下爆撃機「スツーカ」(未完成の空母「アクイラ」用に編成されていた最初の部隊だった)が帰還する英国艦載機を追跡し、雲の合間から急降下爆撃をお見舞いしたのである。
幸いともいうべきか、英国側の空母「イラストリアス」は飛行甲板に装甲を張った「装甲空母」でありその場での撃沈こそ免れたものの、第3次攻撃のために飛行甲板に艦載機をならべていた彼女は甲板を痛打され航空機の発着が不可能になるばかりか魚雷1本の命中によって速力が12ノットにまで低下する羽目になった。
2発の250キロ爆弾がもたらしたこの破滅的な結末は、日本海軍にすさまじい動揺を与えることになった。
何しろ、日本海軍が集中運用しはじめた航空母艦の甲板には、装甲などないに等しいのだ。
(建造が進んでいた「翔鶴」型空母の甲板を慌てて装甲化したのはそうした動揺の表れかもしれない)
だからこそ、海軍当局は「発着艦作業中の防空が行える戦闘機」であり「敵戦闘機に追いつける戦闘機」を欲することになる。
そのために彼らは、ようやく開発仕様書がまとまったばかりの十四試局地戦闘機計画を中止し新たに十五試甲戦計画を発動。
半ば丸投げに近い形で三菱へ、もっといえば彼らを満足させた零式艦上戦闘機の設計者堀越二郎へと押し付けたのであった。
こうして、海軍昭和15年度試作戦闘機(十五試甲戦)として三菱に発注された烈風のコンセプトは混乱の中で生まれたものであることを如実に示すようにいささかの混乱を秘めていた。
いわく、「空母艦上で運用される大型の迎撃機」であること。
これはタラント空襲時のように「発着艦中の強襲」や、米陸軍が運用する大型爆撃機のよる攻撃を警戒してのことだろう。
それなりの滞空時間こそ要求されているものの、零式艦上戦闘機のような常軌を逸した航続距離は要求されていない。
よく考えたのなら普通の艦上戦闘機を直掩用に空に上げていればいいだけの話とも考えられるが、後述するようにそれは複雑怪奇な内部事情がためであり、また空技廠の技術者が言ったという言葉に理由が集約されているともいえる。
「攻撃意思過多な艦隊の連中に防空用の戦闘機すら攻撃用に転用されてはかなわない。それで母艦をやられては本末転倒だ。」
零式艦戦のごとく長大な航続距離を拒否したのは、堀越技師が苦々しく思っていたという過度な性能への干渉へのあてつけであり、また現場の判断という錦の御旗が結局は軽戦闘機というコンセプトの失敗をつきつけられたことへの反動であったのかもしれない。
いわく、「高速をもって敵機を邀撃し、かつ敵艦載偵察機の用を無さらせしむる迅速なる戦闘能力を保持」すること。
これは、迎撃機である以上速力や上昇力を求め、格闘戦能力などについては設計側に一任するという形での丸投げを決め込んだことを意味している。
当時の源田実を中心とした軽戦闘機派が壊滅寸前に陥りながらも政治力は保持していたともいえるだろう。
いわく、「陸上にて運用せる局地戦闘機としても適正であり、かつ艦上機としても適切なる多様な対応能力を保持せること」
この辺でなかなか怪しくなってくる。
試作が完了しつつあった零式艦上戦闘機がこと急降下性能をはじめとする速力において列強水準としては疑問符がつくことがこの烈風開発の理由であった。
しかし、設計が進行しつつあった三菱の十四試局地戦闘機は艦上機としては運用できない。
そのために十四試局地戦闘機計画は中止されこの十五試甲戦計画に統合されることとなったのだが、その際に海軍はさらに欲張ることを考えた。
爆撃機、偵察機としても使用できるようにというそれ自体は多用途機を求めることであり、まず頷ける。
だがそうした欲張った設計は必ず無理が生まれ、中途半端な失敗作となってしまう。
付け加えるのなら、そうしたごり押しはかつて零式艦上戦闘機の設計者堀越二郎を過労で倒れさせるまで追いつめていた。
この反省もこめてか、欲張りつつも曖昧な性能要求がなされたのだった。
行間を読むならば、なるべく多用途で使えるようにということである。
このあたりのさじ加減は空技廠と三菱(堀越技師)の間をつないだ鶴野正敬大尉のメモに詳しいが、喧々諤々のやりとりの末、とりあえずの爆装ができる程度の能力と機体の強度を求められる程度に最終的には落ち着いた。
速度要求は、「高度6000において320ノット以上」と、先の十四試局地戦闘機計画と同様であったが、末尾に「可能な限りの速力を追求すること」の一文が追加されていた。
上昇力についてはこの代償に穏当なものに落ち着いている。
これらを総合してみれば、艦上迎撃戦闘機と銘打ってはいるが、実際のところは旋回性能よりも高い速度を重視した実質的な主力艦上戦闘機であるともいえる。
しかしそれを認めたがらない(軽戦闘機騒動の責任をとりたがらない)海軍当局やとりわけ源田大佐一派ら「恥をかかされた」の一部の手で新型高速戦闘機の構想は「主力戦闘機のような迎撃戦闘機」におとしめられ、かつ爆装などを可能とする要求が追加されたというのが真相のようである。
まさしくメンツ以外の何も考えていない愚行であったが、結果として高速性能以外の干渉を完全に排除できたこと、これが開発にもっともよい作用をもたらしたあたり皮肉としか言いようがない。
設計は、零式艦上戦闘機を担当した堀越技師の設計チームがほぼ横滑りの形で担当することになっていた。
しかし、零式艦上戦闘機の改良などで多忙な三菱技術陣の状況を考慮した結果、設計班には当時陸上爆撃機 試製「銀河」計画の頓挫と新型艦上爆撃機 試製「彗星」計画の順延にともない手の空いていた海軍航空技術廠設計班も参加が決定。
一気に2倍の数となった設計班は比較的余裕をもって開発を進めることができたという。
(この時の空技廠は山本連合艦隊司令長官や源田実大佐を巻き込んだ大論争のあおりを食らって航空本部ともども機能不全に陥っていた)
とりわけ風洞実験によって当初計画されていた寸胴でありながらも機体後部を4割絞り込み空気流を取り込み空気抵抗を削減するという方法が不可能であると知れたことは大きな収穫であり、また小型空母での正規運用をあきらめ大型空母専用としてある程度の余裕ができたことは堀越技師たちに「正攻法での」機体性能向上を許すことになった。
堀越技師たちは文字通りの正攻法、すなわち「大型大馬力発動機を大型機に搭載する」ことを選択。
小型空母以下においてはRATO(発艦促進使い捨てロケットブースター)の装着によって運用を可能とするという割り切った決断を下すことができた。
そのために発動機は強引に当時審査が完了したばかりの「火星」発動機の改良型「ハ42」(ハ42-12)空冷18気筒2000馬力エンジンを採用。
それだけでなく、どこか吹っ切れていた風のある堀越たちはさらなる性能向上型として開発中の「ハ42-21」も視野に入れて設計を行っており、日本機らしからぬ余裕のある機体構成はこうして生まれることになった。
生まれた余裕は零式艦上戦闘機ではあえておざなりにされてしまった機体の構造強化や防弾に費やされ、さらに標準状態で20ミリ機関砲4門という武装にも表れる。
技術に凝る空技廠と民間企業である三菱の対立も若干ながらあったものの、おおむね設計は昭和16年初頭には完了していたのであった。
木型審査の段階となり、海軍は自分たちが恐るべき巨大な怪物を作ろうとしてることに気が付いた。
だが手遅れだった。
何より、技術面で暴走した空技廠が三菱側についたことは開発の主導権という意味では致命的ですらあった。
航空本部が一喝しようにも、開発における無理押しと先の醜態を見せている中ではまったく効果の発揮しようがない。
何より、堀越技師に空技廠の「官僚的な意味での」悪人たちが吹き込んだ悪知恵は用兵側に否定をためらわせた。
「本機は、戦闘爆撃機としても使用可能である」との一文が設計仕様書に添えられていたのである。
実際、大型の頑強な機体は零式艦戦の反動からか頑強な機体構造をしており、そのままでも250キロ爆弾を搭載することも可能だった。
もともとが高速戦闘機であるため、ゴタゴタの中で計画ごと消えてしまった高速艦上爆撃機 試製「彗星」計画を代替することに速度的にも十分である。
まさしく悪知恵であった。
プライドの高い海軍のお歴々はしぶしぶ決断した。
「できてしまったからにはしょうがないか」と。
こうして昭和16年10月、十五試甲戦試作機は追浜の空を舞う。
正統派の設計が功を奏したのか、試作機は良好な性能を示し、開発陣と海軍をともに驚喜させた。
「まさに烈風の吹くが如し。」
テストパイロットがそう評するほどに、何者にも束縛されないという理想的な開発環境にあって堀越技師が示した設計は神がかっていた。
高速戦闘機であり大型機であるにも関わらず、操縦性は素直そのもの。
旋回半径などは大型機らしく大きかったが、それは初期型ですら過負荷時に最大速度毎時625キロという高速度によって完全に無視できるものとなっている。
しかも航続距離に目をつぶるのなら、改良型として発動機を2500馬力の「ハ42-21」に換装した機体が登場できる。
日米情勢が風雲急を告げつつある中にあってこの頼もしい新型機は、まさに手のひら返しのように海軍当局者に歓迎されたのであった。
そして、12月8日の熱狂の中で量産指示が出された十五試甲戦はあわただしく「1式戦闘機『烈風』」と名付けられ、ただちに量産が開始された。
翌年2月には初の母艦航空隊が編成され、空母「翔鶴」搭載機として4月には慌ただしく南雲機動部隊とともにインド洋作戦に投入される。
ここで烈風は期待通りの成果を上げた。
4月9日にウェリントン陸上爆撃機による奇襲攻撃を受けた南雲機動部隊であったが、空中待機していた烈風は即座に反応。
9機全機を撃墜することに成功したのだ。
烈風の活躍はさらに続く。
大型機であることを利用し、空中の見張り員として使用されていた烈風は5月8日の珊瑚海海戦においては見事に空母「翔鶴」を守りきったのである。
これに続き、いわゆるドーリトル攻撃隊による東京奇襲に際しては横須賀航空隊に所属する迎撃部隊が捕捉邀撃に成功していた。
そして何と言っても大きかったのは、続くミッドウェー沖海戦であろう。
戦史においては烈風に頼り安心しきっていたために生じた被害と糾弾されることもあるが、南雲機動部隊に対し行われたSBDドーントレス30機を中心とする攻撃隊は、インド洋作戦の戦訓を受けて上空待機を続けていた烈風直俺機部隊10機に阻まれ、結果として空母「赤城」と「蒼龍」への爆弾直撃をしか許さなかったのである。
もしもこの段階において、装甲化がなされていた「翔鶴」「瑞鶴」の第五航空戦隊以外の四空母が被弾する――しかもタラント沖のように攻撃隊が甲板上にある中で――ことがあれば、機動部隊は一挙に半減する以上の大損害を受けたことだろう。
きわどいところで南雲機動部隊は危機を回避し、海戦を痛み分けで終わらせることに成功する。
すなわち、日本側の空母1(赤城)沈没同1(蒼龍)大破、空母1(翔鶴)中破に対し、米軍の空母2隻沈没として。
昭和17年も後半になると、烈風は陸上の基地航空隊に配備が進み、南方における島嶼戦の主力となっていった。
基地航空隊においては烈風は戦闘機としてだけではなく、時には爆弾を抱えて対艦攻撃も行えるある種の万能機だった。
零式艦戦改良型のように長大な航続距離こそないもののそれでも2500キロの航続距離をもつ烈風は、米軍のP38ライトニングにも力負けしない貴重な戦力として、またソロモン多島海における神出鬼没の対艦対舟艇攻撃機として、そして頼もしい対陸上攻撃機として扱われた。
坂井たちのような若手搭乗員にも機体がいきわたりはじめたのはこのころになる。
昭和17年末には待望の改良型である烈風32型(ハ42-21 2500馬力エンジン搭載型)が初飛行し、18年2月には早くもラバウル沖海戦(第2次ソロモン海戦)でお目見えを果たしている。
次期艦上戦闘機計画が難航する中にあって烈風はこのころには母艦航空隊の主力と位置づけられるようになっていた。
(とはいっても大型空母に限っての話であり、数の上では零式艦上戦闘機33型(1300馬力増強型)や54型(1500馬力増強型)が主力である)
戦線再整理をうけて18年11月に発生した第一次中部太平洋海戦においては連合艦隊最後の一方的勝利を飾り、翌昭和19年2月の第二次中部太平洋海戦(トラック沖海戦)においては小沢機動部隊と連合艦隊主力を追撃から守り切った。
そして、太平洋戦争の天王山と位置づけられたマリアナ沖海戦。この大海戦においては敗北の中にあっても米艦隊の迎撃システムを飽和させる一助かつ戦闘爆撃機部隊の主力となって米空母8隻撃沈の大戦果を演出していた。
その後も数を打ち減らされ続ける日本海軍の主力としてレイテ沖海戦や沖縄沖海戦に参加した烈風は、本土防空戦においても最後まで戦い抜いた。
43型において発動機は機体の大規模改設計というかなりの無理をして3000馬力のハ50発動機に換装され、武装も30ミリ機関砲2門と20ミリ機関砲4門の混載となっている。
最大速度はついに700キロの大台を超えた。
これは、太平洋戦線の連合軍最速を誇るP51「ムスタング」を上回る。
本土沿岸を遊弋する米機動艦隊への対艦攻撃、そして日本に残された数少ない水上部隊上空の直俺、そしてサイパンや硫黄島から飛来する敵航空部隊の邀撃手として今や烈風は陸海軍共通の重点生産機種になっていた。
だからこそ――
「時間だな。」
走馬灯のように過去を思い返していた私は、それを振り払うかのようにそう言った。
ラバウルではじめてこの「烈風」に乗り、以来機体を乗り継いでここまでやってきた。
エンジン出力は1.5倍近くになり、牙は凶悪な30ミリ機関砲とロケット弾に、そして機上電波警戒機という耳までもがついた。
操縦性はいささかの悪化をしているが、戦闘にまったく支障はない。
烈風の対抗馬として太平洋戦線にぽつぽつ姿を現しつつあるF7F「タイガーキャット」を相手にしてもひけをとらない自信があった。
「はい。時間ですね。」
坂井がにっこり笑う。
この、自分に戦闘指揮と操縦を叩き込んでくれた「恩師」であり部下でもある複雑な戦友は本当にうれしそうに笑う。
「停戦、本決まりになるといいですね。」
「そうだな。」
同盟国への義理は果たした。ドイツ新政府成立から1か月。
その間太平洋では奇妙なほど大規模戦闘が起こっていない。
もちろん空襲は続いていたし、空の鯨B29とそのお付きを相手にし続ける日常に変化はなかった。
昨年の日華和平成立以来米ソの間には隙間風が吹いているというし、本邦においても山本総理が不手際をおかした某外交官たちとともに自分の首を差し出すことをよしとする決断を公言していることもあり、副大統領から昇格したばかりのヘンリー・A・ウォレス大統領は和平に前向きとも聞く。
何より――昨日の「玉音」。
これで和平を阻むものは少なくとも帝国には存在しなくなった。
私は、正装や軍服の一団(驚くべきことにそのうちの一人はあの東条前首相だった)が乗り込みつつある巨大な水陸両用8発機、川西4式大艇「暁空」を一度見てから、愛機に乗り込んだ。
この機体にも、我々の愛機同様「緑十字」のマークが付けられている。
私、日本海軍中佐 笹井醇一にはこれから停戦交渉団をサイパン島まで護衛するという重要任務が待っている。
「なぁに。いつもの任務と同じさ。」
そう。烈風は駆け抜ける。どんな空でも。
はい。
堀越技師がちょっとした歴史のいたずらで怪物を作り上げ、歴史が少し変わってしまったというお話でした。
この世界の歴史では、ミッドウェー海戦では引き分け、ただし貴重な熟練パイロットは温存され、島の占領こそならなかったものの米軍の稼働空母は1隻(しかも修理中)に。
その後は山本長官の軍令部総長転出とともに戦線の縮小が図られ、講和追及へと方針が移ります。
そして中部太平洋において米機動部隊と小沢機動部隊が二度対決してマリアナ諸島への誘引が図られ、一気に米機動部隊の覆滅を図りますが完全には成功せず。
半壊したGFはレイテ沖で壮絶な艦隊決戦を行って痛み分け、最終的には南西諸島沖で壊滅状態に陥りますがなんとか稼働状態を維持しています。
44年末には山本内閣のもとで日中間での和平協定が成立(史実の繆斌工作成立)、そして45年のドイツ新政権成立とローズヴェルト大統領死亡、史実よりも日本側の頑強な抵抗があるがためにウォレス副大統領が解任されていない中での大統領昇格によって和平が成立した――という流れになります。
乱文かつ説明文オンリーのようになってしまいましたが楽しんでいただけたのなら幸いであります。
企画主である山口多聞先生への感謝と、堀越二郎氏への敬意をこめて。
平成25年夏 ひゅうが