13
警官たちが引き上げた。
君島と健介はリビングの床で伸びている。
電気は点けない。テレビも点けない。電話線は抜いた。インターホンも切った。
疲れ果てていた。
やっと慣れたテリトリーに戻ってきて、弛緩した身体はもう二度と緊張できない気がする。
そして、それが幸せだと天井を見上げて噛み締めている。
いつもの場所で何の心配もなく天井を見上げて伸びている。
こんなことが幸せだったのだ。
「でも」
健介が呟いた。
「お腹空いた」
君島が吹き出して、身体を返す。
「本当に、生きていくって面倒だね。お昼に食べたのに夜までもたないんだから」
「本当だね」
健介も笑った。
こんなことも幸せだった。
お腹が空いたなんて、考えることができる。
何を食べようかなんて思い悩むことができる。
こんなことが幸せだったのだ。
「食べる物なんてあるのかな」
「そういえば、ブリ大根どうなったんだろう?」
「腐ってるんじゃない?食べたのってずいぶん前だよね?」
「いや、……実はそんなに時間は経ってないんだよ。あのね、僕帰国したの土曜日なんだよ。その朝に浩一が作ったんだ」
「土曜日。今日、月曜日なんだよね、……って、あ!僕!学校サボっちゃった!」
「うわ!僕もだ!仕事サボっちゃったよ!」
二人とも飛び起きた。
暗い室内で時計を見上げると、すでに夕方になっている。
「いや!間に合うか!遅刻だけどなんとかなる!今日夜勤だ!」
君島が立ち上がって駆け出そうとしたが、健介が見上げていることに気付いた。
健介が君島を少し見詰めて、それから笑顔を作って、言った。
「うん。頑張って」
君島は立ち止まって、一度髪をかき上げて、唸った。
唸りながら戻り、テーブルの上に転がしていた携帯を掴み、保存してあるシフト表を開いた。
それを見ながら部屋を出て階段を上り、可能性の高い順に連絡を始めた。
こんなに時間ぎりぎりでは交代してくれるスタッフもいないだろうなと思いつつ、出勤の準備をするために部屋に向かいながら電話を掛けている。
ところが、一人目で簡単に交代要員を確保できた。
と言うよりも、君島の勤務先でも今回の事件は今日のトップニュースだったため、君島の出勤は無いとシフトが組み直されていたらしい。
君島の勤務先の病院は、健介の掛かりつけである。健介の特殊な事情も担当するスタッフはよく知っている。原田とも顔なじみだ。
『健介君、今大変でしょ?こっちの人員は補充できるから、君島さんは健介君に付いててあげてください』
今日の夜勤を代わってくれるその同僚の親切な言葉に君島がほっとする。
「ごめんね。落ち着いたらすぐに入ります。連続勤務します」
『それも問題ですよね』
同僚が笑い、そして続けた。
『なにか、出来ることがあったら言ってくださいね。みんな健介君を心配してます。欲しい物があったら届けますよ』
「ありがとう。大丈夫です」
君島も笑って礼を言った。
健介って本当はすごく恵まれてるんじゃないかな、と君島は時々思う。
あんな風に生まれてこんな事件にも遭ったけど、それすら健介の幸せな人生には必然だったのかも知れない。それがなければこんなにも多くの人たちに心配してもらったり協力してもらったりできなかっただろうから。
そういう風に運命を切り開いて幸せをもぎ取ったのは健介の力なんだけどね。
電話を終えてドアを開けると、原田の部屋の前になぜか健介が立っていて、君島に気付いて顔を向けた。
「秋ちゃん、出勤?」
「ううん。交代してもらったから、今日はもうゆっくりして寝るよ」
ふわりと健介の顔が綻んだ。そんな顔を見て君島も笑う。
「健介はそんなところで何してんの」
「だって、」
健介が恥ずかしそうに俯く。
「秋ちゃんがいなくなるなら、父さんの部屋にいようと思ったの」
寂しいから、とまでは言わない。
そんな健介の頭を、バカだな、とぐしゃぐしゃに撫でて抱えて、笑いながら君島はそのまま原田の部屋に入った。
幼い頃、健介は本当に原田から片時も離れなかった。原田もそれを苦にせずに、抱いたまま仕事をしていた。だからほぼ仕事にならなかった。
君島は最初から同居していて時々は健介を一人で預かったのだが、それはそれは大変な苦労だった。毎回朱鷺を呼び出すか、朱鷺の家に行った。それでもやはり、原田が戻らなければ泣き続ける子供だった。
それがこんな風に我慢できるほど成長したのかと少し感慨を覚える。泣かずに一人で留守番できるようになったのだ。しかしその寂しさを我慢させずに済んだことにも安心する。
「そういえば、父さんってこうやって寝るんだよね」
健介がベッドを見て笑った。
「マックスみたい」
原田は、ベッドの上ではその長身を丸めて、頭まですっかり布団に潜って寝る。
「これで息できるのかなぁ?」
笑って見上げる健介に、君島が教えた。
「よく言うよ。お前はこの腕の中で寝てたんだよ」
健介が笑顔のまま、またベッドを見下ろした。
「僕もこの二人、酸欠にならないのかなって思って見てたよ」
君島が、布団をめくって原田の顔を出してやる。
「浩一って神経質だから誰とも一緒に寝られないんだよね。それなのに健介は抱いて寝てるからさ。びっくりしたよ」
健介がまた君島を見上げた。今度は笑ってなかった。しかし君島は笑って続けた。
「それじゃなきゃ、浩一が抱いてなきゃ、お前が寝なかったってこともあるんだけどね」
健介がまた俯いた。
そして、唇を噛んで、眉を顰めてから、呟いた。
「……僕ね。何にもわかってなかった。朱鷺ちゃんのことも。父さんのことも。ずっとずっと、そうやって大事にされてきたのに」
涙がぽろりと落ちる。
「僕、すごく、幸せだったんだ」
君島が笑って、言った。
「そりゃそうだよ。父親を自分で選んで捕まえた子供なんて世界にそういないから」
健介も涙を拭いて笑った。
「僕が、父さん捕まえたの?」
「そうだよ」
「父さん、捕まったの?」
「そうだよ。健介の方が強かった」
健介がまた笑った。そして、君島を見上げて宣言した。
「僕、明日学校行かない」
「え!」
「父さん起きるまで、学校に行かない」
「え?」
「父さんが起きるの、待ってる」
健介が笑ったままそう宣言した。
君島も笑って了承した。
「わかった。明日先生に電話しておくよ。僕も当分出勤しなくて済みそうなんだ」
「そうなの!」
そう言って笑う健介の肩を抱いて、原田の部屋を出てダイニングに戻った。
「……ブリ大根、イケると思う?」
鍋のフタを開けて、健介が呟く。
「土、日、月、……三日はヤバいかもね」
君島も覗き込む。
その時、勝手口のドアの外から、カリカリと音がした。
何かを引っ掻くような。
健介が飛び跳ねてドアを掴み、小さく開けた。
そしてするりと、マックスの小さなブチ頭が覗いた。
「マックス!」
健介が飛びついて抱き締めた。マックスは不愉快そうに半眼で低い鳴き声を発した。
「おかえり!マックス!」
うー、とマックスが返事をした。
「……マックスに、ブリ大根の判定してもらったら?」
君島がくだらない提案をする。
「そうだね!」
と健介が皿にブリを乗せてマックスの前に置いた。マックスは鼻を近づけて首を傾げて頭を引っ込めて、前足で砂を掛けるような素振りをして立ち去った。
「ダメだって」
「ダメか」
そしてマックスが振り向いて、にやおんと鳴いた。
マックスが立ち止まっている場所は、いつも餌の皿を置いてあるところ。
「あれ?マックスの皿がない。あ、マックスと一緒にあげちゃったんだ?困ったね。その辺のお皿でいいかな?フードはどこかな?」
君島は返事をしなかった。
そういえばマックスを人にあげたって嘘ついたんだった。訂正し忘れた。マックスの皿は庭にあるけど、今外に出るのも嫌だ。
「秋ちゃん、知らない?」
「知らない」
全部知らないことにしよう、と君島は目を逸らした。




