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朱鷺の黒いスーツを握りしめて顔を擦りつけて泣いていた健介の背中を、朱鷺がポンポンと叩いた。
それから健介の耳に何かを当てた。冷たい平たい何かを。
まだしゃくりあげながら、スーツから顔を離して朱鷺を見上げた時、耳元で声が聞こえた。
『はい』
父の声。
「父さん!」
『健介!』
健介は朱鷺を見上げて、耳に当てられている携帯を両手で掴んだ。
「父さん!あのね!朱鷺ちゃんが来てくれたの!」
まだ涙が伝う健介の頬を、朱鷺が笑って指で拭う。
『健介、今どこだ!』
どこかな?と朱鷺に手話で訊く。
朱鷺が答えているけど、健介にはそれが読めない。
父に色々訊かれて、なんとか答えようと健介が周囲を見回した。
朱鷺が傍にいることでやっと安心できて、やっと頭が働くようになって、こんなに黒い服の人がたくさんいることと線香の匂いの意味にも気付いた。
だから父にお葬式をしている家だと伝えられた。
そして再び朱鷺に目を戻し、そしてその後ろで誰かが何かを持って振りかぶっている姿を見て、健介は携帯を捨てて朱鷺に飛びついた。
朱鷺の首に抱きついて庇おうとしたが、間に合わなかった。
何かで後ろから頭を殴られた朱鷺はぐらりと力を失い、健介に抱きつくように前のめりに倒れた。
「朱鷺ちゃん!」
朱鷺の重みで健介も倒れる。
どうして、どうして!
健介は朱鷺の身体を起こそうとして上に被さっているその肩を押した。
直後その腕を引かれて、健介の支えを失った朱鷺の身体が床に落ちた。
見上げると、黒い男だった。
「なんで……!なんで朱鷺ちゃんを……!」
黒い男に腕を引っ張りあげられて立たされた。
健介はその手から逃れようと腕を振り、もう片方の腕を朱鷺に伸ばす。
「朱鷺ちゃん!」
暴れて思い通りにならない健介の腹を、男はまた膝蹴りした。
また息がつまって、動けなくなった。
その場にしゃがんだ健介を、今度はお母さんが両脇を支えて立たせて、歩かせた。
また地獄に戻るのだと健介は思った。
この男に何度暴力を受けるのだろう。
何度逃げても、どこまでも追ってきて僕を叩きのめす。
何度逃げても地獄に戻される。
僕のせいで、朱鷺ちゃんまで
誰か朱鷺ちゃんを助けて
暗い洋館の階段を下され、玄関で靴を履かされ、ドアを開けると、黒い服を着た大人が何人か広い庭にいる。
誰か、この家の中に朱鷺ちゃんが、
健介が声を上げようと息を吸うと、お母さんがその口を手で塞いだ。
「もう一度、出直すことになったから。大人しく帰ろうね」
僕は、いいから
大人しくするから朱鷺ちゃんだけは助けて
そう願いながら顔を上げると、黒い男がドアに戻る姿が目に入った。
その手には、入る時に外した大きな鍵。
外した時と同じような大きなガチャリという音を立てて、その鍵はドアにぶらさがった。
朱鷺ちゃんが、出られなくなる。
誰か、と健介は振り向くが、大人たちはみな顔を背けた。
内通夜の屋敷に相応しくない三人の粗末な姿は目に入らないとでもいうように、背を向けた。
まだお母さんに口を塞がれていて健介は声を出せない。
「車に戻ろうね」
そのままお母さんに引っ張られた。
力が抜けてきちんと歩けない。
「早く!」
健介は首を振って、叫ぼうとした。
誰かに向かって声を上げようとした。
朱鷺ちゃんが中にいる!助けて!
どうして誰も気付いてくれないの!
こんなにたくさん大人がいるのに!
誰か一人でもいいのに!
その健介の前に、黒い男が立ち塞がった。
「大人しくしないと、わかってんな?」
もう、だめだった。
その視線を浴びるだけで恐怖に身体が竦んだ。
この男の前にいることが健介にとってはすでに地獄だった。




