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「朱鷺ちゃん!」
叫んでも、どんなに大声を上げても、朱鷺の耳には届かない。聞こえない耳に健介の声は届かない。
「朱鷺ちゃん!こっち見て!」
だけど、届かないはずがない。朱鷺ちゃんに届かないはずがない。
「朱鷺ちゃん!健介だよ!」
僕が呼んでいるんだ。朱鷺ちゃんに届かないはずがない。
「朱鷺ちゃん!」
僕の声が朱鷺ちゃんに届かないはずはない。
聞こえなくたって届かないはずはない。
叫ぶ健介の後ろでドアの開く音がした。
「小僧!何騒いでるんだ!」
おじさんがベランダに走ってきた。
「朱鷺ちゃん!」
健介は手すりにしがみついたまま叫び続けた。
父の会社の取引先の先代社長が亡くなり、朱鷺は昨日から母と共に葬儀参列ついでに温泉宿に来ている。日帰り出来る距離だが、メインは葬儀ではなく温泉で、本当は今日の内通夜に来るつもりもなかった。
しかし亡くなった社長とは幼い頃から面識があり、この屋敷にも何度か訪れたことがあって、朱鷺はずいぶん可愛がってもらった。その社長が亡くなったのなら今後この屋敷に来ることもなくなる。
最後にこのお屋敷で社長にお別れしましょうか、という母の提案で、今ここに来ている。
そしてその母は他の取り引き先の誰かに捕まっている。
朱鷺はそれが終わるのを待ちつつ、木にもたれて携帯のメールを見たりしていた。
その朱鷺の腕を、誰かが二度、軽く叩いた。
ちらりとその相手に目をやると、やはり黒い服を着た小さなおじいさん。
何かをもぞもぞと言っているが、子供と老人の口を読むのは難しい。
困ったな、と朱鷺が首を傾げると、おじいさんが右手を伸ばした。
ピンと人差し指が斜め上を差している。
ん?と、その先に目をやった。
離れの洋館。
昔社長が子供の為に建てたと聞いた。今はただの倉庫になっていると。
本宅も広い豪邸だけれど、創業社長の葬儀に集まる人数も相当だろうから、離れも使うのかも知れない。
だからベランダに人がいるんだ。
子供が顔を出して、何か叫んでいる。
って、
あの子供って、
あの黄色のパーカー、あのクルクルの癖毛、
まさか。
まさか、まさか、
まさか健介がこんなところにいるはずがない。
だけど健介は今、いるはずの原田さんの家にいないんだ。
母親に返したとか訳のわからないことを原田さんが言っていた。
健介に母親なんかいないのに。
いったいどこの誰に渡したのか知らないけど、健介は原田さんの家にいない。
健介は今、原田さんの家にはいない。
だからってまさか、
まさかこんなところに、
まさか、健介?
朱鷺が健介を見つけた直後、その姿がベランダから消えた。
そしてその後ろの窓が乱暴に閉められた。
健介?
朱鷺は走り出した。




